第六話 血の目覚め(1)——夜の森が呼ぶもの
獣の死骸を森へ落としてから、幾日が過ぎた。
崩れた石垣の半分ほど、目線の高さまではなんとか積み直され、砦には日常が戻りつつあった。
「うわ、錆臭いな」
カイルの提案で、彼らは国の兵士たちが武器庫に残していった槍や短弓を漁った。
「まあ、まともに使えるものは残してるわけないよな」
カイルが折れた矢を手にして呟く。どれも木が朽ちたり、穂先が錆びついたりしていたが、かろうじて使えそうなもの――投石器、錆びた剣、数本の槍――だけを選び出した。
「これ、使える奴いるの?」
ユーリが年季の入った木組みの投石器を訝しげに見つめながら言う。
「どれも、ないよりはましって具合だな」
仲間のため息まじりの皮肉に、カイルは苦笑で返した。
その後、もし再び魔物が現れたらどうするか――という話し合いも済んでいた。
門を固める者、灯りを守る者、見張り台で合図を鳴らす者。鐘の音が一回なら魔物の出現、二回で砦への侵入、三回で砦の突破だ。そして——
「万が一のときは、砦を囮にして時間を稼ぐ。その間に、それぞれの村へ報せに行くんだ」
カイルが仲間たちの顔を順に見回した。一同は頷くことができず、固唾をのんだままだ。
「全員で死ぬよりましだろ?」
カイルは眉を下げてかすかに笑った。その笑みには、自嘲と優しさが同居していた。
「誰が残る?」
一人が言った。
そのとき、三人の声が重なった。カイル、テオ、そしてユーリが同時に名乗りを上げたのだ。
「それじゃ俺たちの村に報せる人間がいなくなる」
カイルがユーリに向かって言った。ユーリは黙ってカイルを見つめ返す。
「僕が残るよ。……わかるだろ?」
短い沈黙が落ちたのち、カイルは全員の方へ向き直った。
「砦の囮は、ユーリと、テオに任せる。それでいいな?」
テオとユーリが力強く頷く。残りの仲間たちは二人を見つめたまま、黙ってそれを受け入れた。
風のないある日の夜だった。藁と薄い毛布に身を横たえていたテオは、遠い地鳴りのような音に目を覚ました。森の底から泡が浮き上がるように、低い唸りが増幅していく。それに呼応するように、胸の奥で心臓が強く脈打った。
枕元の蝋燭に手を伸ばす間もなく、暗闇を切り裂くような鐘の音がひとつ鳴り響いた。
テオは毛布をはねのけ、物置を飛び出した。
「魔物だ! 魔物の群れが森を駆け上がってる!」
見張り台の上から仲間が叫んだ。中庭に松明とランタンの灯りが集まってくる。
「群れだって?」
そのとき、揺れる炎の前を黒い霧が流れていくのが見えた。柱のような影がゆらりと地面から立ちのぼる。
「あの霧だ」
「霧?」
思わず口をついて出た言葉に、カイルが聞き返した。
「黒い霧だよ。あの日も見えたんだ」
隣で息をのむ気配。ユーリが顔をこちらに向けた。ほんの一瞬、驚きに目を見開き、口元を歪めたように見えた。
鈍い衝撃が続けざまに響き、足元の地面が震えた。押し潰されるように石垣が軋み、砕けた小石がぱらぱらと転がり落ちる。
「テオは見張り台、ユーリは門を固めろ。手筈通りだ」
カイルが言い終えるより早く、崩落の音が響いた。直後、再び鐘が鳴る。
低く重い二度の響き——砦への侵入を告げる合図だった。
「二人とも、絶対に無理はするなよ」
三人はそれぞれの持ち場へ駆け出した。
形のない群れが、左右の石垣に沿って滑る。素早く動くいくつもの影。
——狼だ。
行く手を遮られ、テオの足が止まった。錆びついた鉄の塊を構える。手に伝わる重みが、槍よりもしっくりきた。
「テオ! 待て、行くな!」
背後からカイルの叫び声が響く。身体を獣たちに向けたまま、テオは横目で後ろを確かめた。
一歩でも引き下がれば、獣が飛びかかってきそうだった。
「戻れ。作戦変更だ。全員で村まで退く!」
カイルの声は震えていた。だが恐怖だけではない。敵を見て、退くと決めた声だった。
足裏に砂利の感触が伝わる。テオの足が、わずかに後ろへ引きかけた。
「テオ!」
そのとき、見張り台から声が落ちた。獣たちの向こう、見張り台の上で、仲間が必死に手を振っているのが見えた。
「二人は先に行ってて!」
テオは振り返らずに叫ぶ。胸の奥で、何かがはっきりと形を取った。
腰を落とし、足を踏み出す。
「必ず追いつく」
錆びた剣を握り直し、テオは獣の群れへと身を投げた。
「テオっ!」
呼びかける声も虚しく、テオは獣の群れへと突っ込んでいった。カイルは咄嗟に手を伸ばしたが、その背にはもう届かなかった。
「カイル、だめだ」
見張り台の方へ踏み出しかけたカイルの腕を、ユーリが掴んだ。
松明の炎に照らされたユーリの瞳が揺れる。その目には痛みが滲んでいた。
カイルは後ろ髪を引かれる思いで、門へ駆け出した。獣の爪と黒い吐息をかいくぐりながら、無我夢中で走る。なんとか門を抜け、故郷へ続く坂道を転がり下りるように駆けた。
——もう何年も通ることのなかった道だ。
村の麓に辿り着くころには、どうやってそこまで来たのか、何も覚えていなかった。
カイルは膝に手をつき、荒い息を吐く。顔を上げると、ランタンを掲げた村人たちが、何事かと草をかき分けながら集まってきていた。
カイルが事態を報せようと口を開きかけた、その刹那だった。
村人たちのどよめきと、ユーリの切羽詰まった叫びが夜の森にこだまする。
「カイル!」
視界の端に、少し後ろで大きく口を開けたユーリの姿が映った。
彼が飛び出そうとしたその瞬間——肩に鈍い衝撃が走った。地面に叩きつけられたと理解するより早く、カイルは藍色の空が白く染まるのを見た。
そして、誰かの悲鳴が耳を刺した。




