第五話 交錯 ——それぞれの痛みがすれ違う朝
ユーリは寝床にそっと身を横たえた。
扉の隙間から、かすかに食堂の明かりが漏れている。けれど、話し声までは聞こえなかった。
目を閉じると、あの獣の声が脳裏に蘇る。はっきりとした言葉ではなくても、たしかに「痛い」「怖い」と訴えていた。その声に共鳴するように、彼の血もまた、痛みの記憶を全身へとめぐらせていた。
やはり自分は、化け物なのではないか——。
誰かが口にした「竜の呪い」という言葉の響きが、胸を締め付ける。幼い頃の記憶が浮かびかけ、ユーリはカイルの笑顔を思い出そうとした。今はただ、彼との平穏を守りたかった。
忘れられるものなら——そんな思いが過り、ユーリは右手で藁と毛布のあいだに隠してあるものを確かめる。四角く硬い角が指先に触れた。
それは一冊の古い本だった。母が、唯一彼に遺したもの。
そこには、ぬくもりと痛みの理由——そのどちらもが静かに眠っていた。
早朝の陽が窓から差し込み、調理場は白い光に満たされていた。フライパンの音と豆を煮る香りだけが満ちている。
一夜を食堂で過ごした仲間たちは見回りに出ており、残っているのはカイルひとりだった。
カイルがフライパンを持ち上げたとき、調理場の扉が開いた。まだ眠たげな眼をしたユーリが入ってくる。彼はカイルを見ると、少し笑みを浮かべて「まだやることはある?」と尋ねた。
カイルは一瞬手を止め、顔を上げる。ユーリの表情はいつもの朝と変わらないように見えた。
「できた皿から向こうに持って行ってくれ」
ユーリは「わかった」と軽く答え、カイルの隣に立った。
「大丈夫か?」
カイルは両手に皿を載せ、ユーリの横を通り過ぎざまに尋ねた。ユーリもちょうど皿を手に取ろうとしていた。
ほんの短い間があって、彼は「大丈夫」と答えた。
「待って」
後ろから呼び止められ、カイルは振り向く。
ユーリは皿を手にしたまま、立ち尽くしていた。
「やっぱり、昨日……」
彼は何かを言いかけた。そのとき、兵舎の扉が軋む音がした。
二人は同時にそちらへ顔を向けた。見回りから戻って来た仲間たちだった。
朝食を終えた仲間たちは、昨夜の侵入者——あの獣の死体の周りに集まっていた。
森で見かける鹿の倍はあるかと思う巨体で、数人がかりで動かすにしても手に余るほどだ。
「これ、食えないよな」
鱗に覆われた獣の顔を見ながら、誰かが冗談めかして言った。
「丸太を並べて、その上を転がすのはどうかな。素手で触るのは危ないかもしれない」
眉を寄せ、テオがカイルに視線を向けた。
「そうしよう」
獣の体に縄を巻きながら、カイルはユーリの顔を見た。その視線に気づいたのか、ユーリも顔を上げて見返す。そして、小さく笑った。
「もう大丈夫だよ」
ユーリはそれだけ言うと、カイルを導くように、鱗に覆われた獣の顔に目を落とした。その表情は穏やかに見えた。
カイルはほっとして微笑み返す。
丸太の上に引き上げられた獣の首が折れたとき、ユーリの口元がかすかに歪んだように見えたのは――気のせいだろうか。
「カイル、こっち向きに引っ張ってくれ」
横から声を掛けられ、カイルははっと我に返った。
脚に力を込め、縄を引いた。ざらついた縄が掌に食い込む。その痛みの向こうで、昨日のことを思い出す。
あの夕暮れ、テオに見えていたものが、自分には見えなかった。
昨夜、ユーリが感じていたことを、感じえなかった。
自分は無力なのだろうか。
自分の知らないところで何かが起こっているとして、それでも二人を守れるだろうか——。
「はい。これ、水」
獣の死体を運び終え、丸太に腰を下ろしていたカイルは顔を上げた。
差し出されたコップの向こうで、テオの翠の瞳がまっすぐにカイルを見つめていた。
「喉、乾かない?」
その声と微笑みが、張り詰めていた空気をやわらげた。
「ありがと」
カイルは立ち上がり、コップを受け取った。水を煽る。そのとき、視線を感じて顔を上げた。
金の髪を揺らして、テオが穏やかに口角を引き上げる。
昨夜のことがあったけれど、どこか動じていないように見えた。
記憶を失って倒れていたというのに、彼は妙に落ち着いていて、砦の仲間たちに馴染むのも早かった。しかも、意外に器用だ。砦に来たばかりの頃は包丁すら握れなかったのに、今では一人前に料理番が務まるほどに。
カイルはひとつ、長く息を吐いた。
——この砦は、まだ大丈夫だ。
木の葉を巻き上げながら、獣の死体が森の斜面を転がり落ちていった。
テオは裏門の石段からそれを見送る。
光の下で改めて見ると、昨夜、自分の体があんなふうに動いたことが不思議だった。
槍の柄は、包丁の柄よりも手に馴染んだ。意識せずとも、槍は正確に獲物を貫いていた。
自分は、かつてこうして何かを、誰かを傷つけたことがあるのではないか——。
転がり落ちていく獣の赤い瞳が、ふとテオの目を捉えた気がした。
その瞬間、心臓を掴まれたように息が詰まる。胸の奥に疼くものがあった。
哀れだと思った。
それを自覚した瞬間、封じられたものが胸の淀みから首をもたげる。
哀れみに対する罪悪感なのか。
木々のざわめきだけが、彼の耳に届いた。
過去の自分も哀れみを感じただろうか。
もしそうでないのなら、過去の自分は、もうどこにもいないのかもしれない。
「よし。日が落ちる前に石垣をなんとかするぞ」
カイルの声がテオを現実に引き戻した。テオは振り返る。
「何かあっても、またみんなで力を合わせればいい」
カイルが笑った。テオは頷き、砦の中へと足を踏み入れた。
今の自分が過去の自分と別人であるのなら——、僕はここで“僕”になろう。




