第四話 異変(2)——竜の影
「魔物だ! 火を持て!」
カイルの叫びが夜気を裂く。兵舎の方から、松明の光といくつかの足音が駆けてくる。
誰かがテオの手をとった。
「テオ、こっち!」
揺らめく灯りに照らされ、心配そうに顔を歪めたユーリがいた。彼はテオの手を強く引き、カイルたちのもとへ走る。
「ユーリ、テオ、無事だったか」
カイルは左手に松明、右手に槍を握っていた。
「うん。北の石垣を壊して入ってきたみたいだ」
「俺たちで追い払うぞ」
槍の柄を握り直し、獣を見据えるカイルの声は、かすかに震えていた。後ろで武器を構える砦の仲間たちも、息を呑む。
「まずはこれでやつを追い込む。怯むな。こっちが怯んだら、やつに勢いを与えることになる」
暗闇の中で、いくつかの影が頷く気配がした。
「よし」
息を詰め、カイルが一歩を踏み出した。
その瞬間、獣が首を振り、地団太を踏む。巨体が揺れ、鱗に覆われた四本の脚がふらついた。
「弱ってるみたいだ。一気に行くぞ!」
カイルと仲間たちは獣との間合いを詰め、勢いよく松明を投げつけた。
炎が鈍い音を立てて獣の体に当たり、閃光のように弾ける。足元に転がった火に怯えるように、獣が悲痛な鳴き声を上げた。
そのとき――肌の奥を伝って、またあの声のようなものがテオの頭に響く。拒絶のような意思が流れ込み、テオは思わず耳を塞いだ。
うっすらと目を開けると、カイルの横で槍を構えていたユーリもまた、耳に手を当て、背を丸めているのが見えた。
「ユーリ、大丈夫か!」
カイルが声を上げる。
仲間たちは槍を構えたまま、じりじりと獣を崩れた石垣の方へ追い込んでいく。
そして、獣の後ろ脚が石垣の残骸に触れたその瞬間――、獣は突如前足を振り上げ、巨体をひねった。
黒い息が仲間にかかりそうになるのを見て、テオは思わず飛び出した。
「テオ!」
仲間に覆いかぶさるように倒れ込み、地面に手をついた掌に鈍い痛みが走る。
それでも構わず、倒れた仲間の槍を掴み取ると、立ち上がって獣に向かって構えた。
自然な動きだった。
テオは後ろ足で地を蹴り、獣の胸めがけて槍を突き立てた。
続けて、仲間たちも叫びとともに槍を向ける。テオは柄から手を放ち、暴れる獣から身を引いた。
獣の断末魔の咆哮に重なるように、テオの頭の奥で声が響いた。
その声が途切れたとき、獣の巨体が地に崩れ落ち、砂を巻き上げた風がテオの髪を揺らす。
獣の痙攣のように、テオの頭の中にも、まだ残響が鳴り響いていた。
「テオ!」
倒れた獣の前で立ち尽くしていたテオに、カイルが飛びついた。その腕が、テオの背をぎゅっと抱き締める。暗闇のせいで顔はよく見えないが、安堵と心配の入り混じった声だった。
「テオ、お前、かっこいいな」
火に照らされたカイルは、眉を寄せて少し泣きそうな顔で笑っていた。
目の前にいるのに、その顔も声もどこか遠く、槍を握る手の感触と、獣の咆哮だけがテオの胸に焼きついていた。
その夜、彼らは食堂に集まり、眠らずに過ごした。ミレットが湯を沸かし、気持ちを落ち着けるのに良いという薬草茶をみんなに振る舞った。
「魔物が砦に入り込むなんて……こんなの初めてだ」
コップが空になった頃、誰かがぽつりと言った。その声は微かに震え、沈んでいた。彼は顔を上げ、続ける。
「あの化け物、見たか? 蜥蜴みたいな鱗が生えてた。鹿なのに。竜の呪いだよ」
誰も笑わなかった。視界の端で、ミレットが小さく唇を噛むのが見えた。
「竜の呪い?」
疑いを隠そうともしない声で、もう一人が問い返す。
「森を切り拓いたから、竜の怒りに触れたって。俺の村じゃ、そう言われてる」
「そんなの迷信だろ。森を拓いたのは爺さんたちの代だし、魔物が出始めたのは……俺たちがガキの頃だから、せいぜい十年かそこらだ」
沈黙が落ちた。食卓のランタンの炎が揺らめき、背後の壁にそれぞれの影を映し出す。
一瞬、カイルの視線が、俯いたままのユーリを捉えたように見えた。
「とにかく、夜が明けたら石垣を確認しよう。他にも崩れかけてるところがあるかもしれない。魔物が村まで入り込まないように、これまで以上に気を張っていこう」
カイルの、努めて明るい声に頷いたのは、テオとミレットだけだった。
「悪い、みんな。僕は寝床で休む。夜半まで見張りをしてたから……」
椅子を引く音が、沈黙の中に響いた。顔を伏せたまま、ユーリが立ち上がる。
「ああ。おやすみ」
扉の向こうにユーリの背が消えるまで、カイルは口元に曖昧な笑みを浮かべたまま、心配そうにその背中を見送っていた。




