第二十一話 捻じれる意思 ——その力は誰のものか
砂塵の向こうで、魔獣が再び姿を現した。雷撃をまともに受けたはずなのに、その巨体はほとんど揺らいでいない。毛皮のように見える黒い霧が蠢き、あちこちに裂け目が開いているものの、そこから滲む血じみた黒は動きを鈍らせる様子もなかった。
証明しなければ。竜脈を、竜霊を制御できると。
テオドールは肩の痛みに耐えながら拳を固く握り直した。汗が全身を伝い、視界の隅がじりじりと熱を帯びていく。拭う余裕などなく、ただ前だけを見据える。
退くべきか。だが、それでは――。
砂塵の向こうには、怯えながらも遠巻きに状況を見守る村人たちがいる。恐怖に目を見開く子ども。家族をかばうように前に立つ男。その姿のひとつひとつが、胸の奥で沈んでいた王としての責務を、強く呼び覚ましたように思えた。
だが、次の瞬間、別の考えが頭をもたげる。テオは深く息を吸い込み、胸のざわめきを押し込めた。
……違う。これは、俺の力だ。誰かに与えられたものじゃない。
脳裏に浮かぶのは、師の静かな眼差し。あの、すべてを見透かすような双眸が、竜導士としての、そしてレガリアを扱う者――王としての力量を問うていた。
――テオドール、感情を混ぜるな。使える力かどうか、それだけでいい。
ぞっとするほど無感情な声。それでも、その言葉を完全には否定できない自分が、確かにテオの中にいた。
俺はこの力を使いこなせる……!
その瞬間、「誰かを守る」という静かな意志が、ゆっくりと意識の底へ沈んでいった。代わりに浮かび上がるのは、もっと鋭い欲求。
俺の力は本物だ。俺自身の意志で、それを証明するんだ。
テオは、自分の身体に流れる竜の血に意識を向ける。その血がつなぐ竜脈を介して、竜霊の力の核に直接触れようとした。呼吸は乱れ、竜脈の流れも荒れている。それでも構わない。今はただ、自分の力を確かめたいという衝動が、全身を突き動かしていた。
「だめ! テオ!」
レティシアの叫びが飛ぶ。しかし彼は、振り返りもしない。
「下がれ、レティ。俺がやる」
竜霊の意識――膨れすぎた竜脈とその苦痛――が一気にテオの中へ流れ込む。体内の竜脈が膨張し、内側から何かが噴き出すような感覚が全身を貫いた。
――期待しています、テオドール。
どこからか、そう囁かれたような気がした。空耳か、それとも本当に聞こえたのか。
「俺がやらなきゃ…!」
——お前は王家の正統を示す唯一の存在になる。
父の声が、頭蓋の内側で反響する。
「俺がやるんだ……!」
漏れるように吐いた声が広場を震わせる。力の奔流が竜霊を覆うように取り巻き、黒い霧が一瞬抑え込まれたかのように見えた。だがその瞬間、テオの中の竜脈が弾け、内側から焼けつくような痛みが全身に走った。胸を打たれたように、テオの呼吸が止まる。
膨張した竜霊の力の余波は、彼の意思をはじき返すかのように爆風となり、周囲の建物を吹き飛ばした。倒壊する小屋、くすぶる屋根、悲鳴と土煙。
呼吸を取り戻したテオの瞳が揺れる。
「えっ……」
竜霊はたしかに力を削がれ、薄く広がった黒い霧が生き物のように弱々しく収縮していた。だが、それ以上に、村が、村人が、傷ついている。
俺が……やったのか? その一瞬の迷いが、命取りとなった。竜霊が地を蹴る。牙がこちらに向かって襲いかかる。
「な……なんで……!」
混乱の中、竜霊は猛然と突進してくる。視界がぶれる。足がすくむ。
だめだ、やられる! そう思った瞬間に、膝が震えた。
「動け……動け……!」
心が、王宮にいた弱い自分に引き戻されそうになる。背骨に響く衝撃が走り、テオの体は横へ弾き飛ばされた。
その位置に立っていたのは、レティシアだった。
「ばか……!」
その声と同時に、レティシアの指先が走り、吹きすさぶ風がねじれた。瞬時に構築された風の結界が、竜霊の一撃をはじく。黒い粒子が空中に散り、ようやく竜霊は後退した。
レティシアはテオを庇いながらも、なお竜霊を睨み続ける。その赤い瞳を正確に射抜く一閃――まさに彼女の竜脈魔法だった。指先はすでに、次の一手を放つ準備を整えている。
「あなたは下がって。……あとは私がやるから」
言葉に熱はない。ただ、眼前の敵を始末するという冷たい意志だけが、そこにあった。
竜霊が咆哮をあげ、彼女に向かって突進する。だが、彼女の手から放たれた風刃が、鮮やかにその足を砕いた。立ち上がろうとする竜霊に、続けざまに雷撃が叩き込まれる。
そして、最後にその赤い双眸を撃ち抜く稲妻が、竜霊の動きを止めた。やがて、黒い霧――濁った竜脈の粒子を漂わせながら――地に伏した竜霊は、ついに動かなくなった。




