第二十話 痛み ——引き剝がされた竜の魂
「魔獣のことをもっと詳しく教えてくれ。姿を見た場所や、その痕跡……できるだけ全部」
「……ええ、案内します」
男は立ち上がり、指先をもじもじと揉んだまま森の方へ歩き出した。テオたちも、その背中を静かに追う。
森の入り口が見えてきた頃、男がふと足を止める。やや後ろを歩いていた初老の男――村の古株のひとりらしい――が、低く口を開いた。
「最初にやられたのは、村はずれの見張り小屋だった」
初老の男は低く語り始めた。
「あそこには番犬もいたし、魔獣が近づけば吠える……はずだったんだがな。何の音もなく、見回りの若い衆が見つけた時には、もう……」
語尾が震え、男は額に手を当てて嗚咽をこぼした。
「……喉を裂かれてた。血の跡は、獣道を外れて真っ直ぐ村の中心へ向かってた」
テオが静かに問う。
「家畜や畑を荒らした痕跡は?」
初老の男は、顔を伏せたまま首を横に振った。
「……いや、家畜は一匹もやられちゃいねえ。畑も荒らされてない。踏み荒らされた形跡すらなかった」
その声には、理解できないものへのおぞましい恐怖が滲んでいた。
「獣なら、腹を満たすために荒らすはずだろ。けどあいつは……獲物を選んでる。まるで、匂いを辿って……人だけを追ってるみてえだった」
風が枝を鳴らし、森の奥の闇がゆっくりと揺れた。テオの眉間に、わずかな緊張が寄る。
「……わかった。続けて教えてくれ。他に気づいたことは?」
テオの問いに、村の男たちは顔を見合わせ、そろって首を横に振った。
テオがわずかに横目を遣ると、レティシアは静かに視線をそらした。穏やかな顔立ちは崩れていないのに、まぶたの奥にだけ、ほの暗い影が揺れて見えた。
テオは口元をきゅっと引き結び、そっと視線を落とした。
「……人間だけを狙う竜影なんて、聞いたことがない。本来なら、人の気配がすれば避けて通るはずだ。よほど飢えているか、縄張りを荒らされたか……」
テオは顎に指を添え、誰に向けるでもなく低く呟いた。
「あいつは違ったんだ。あんたらが来る前に、俺らもその痕を追ってみたんだが……まるで誰かに命じられてるみてぇだったよ。人間を殺すためだけに、生きてるみたいに……」
その言葉は風に攫われ、森の奥へと溶けていく。
レティシアの視線が一瞬だけ烏へと揺れた。だが何も言わず、そっと目を伏せて歩を進める。
木の枝に止まった烏は、わずかに身を震わせた。誰にも気づかれぬ角度で、ただひとり知りうる“何か”を確かめるように、静かに森の深奥を見据えていた。
その時、遠くから、耳をつんざくような鳴き声が響いた。獣の声とも風の裂ける音ともつかない、不気味な共鳴が空気を震わせる。地面がわずかに波打ち、森の奥から土煙が立ち上った。
やがて、森の縁を押し分けるように、黒く巨大な影が現れた。牛に似た輪郭――だがそれは、あくまで輪郭にすぎない。異様に肥大した前肢は地を踏むたびに周囲の気配を歪め、背から伸びた骨の突起は羽の形だけを模した、空気の揺らぎそのもののようだった。
赤く発光する双眸が村を見渡す。目というより、竜脈のひずみが一点に凝り固まった光のように、意思の有無すら判別できない。
それは“獣”ではなかった。
ただこの地の流れに寄り添っていた竜脈が、何らかの理由で形を取り、歩き出してしまった――そんな、自然そのものの異変だった。
「っ、あれが……!」
案内役の男が声を震わせる。村のあちこちから悲鳴が上がり、家々へと人が逃げ込む気配がした。
「竜影……? いや、竜霊か……!」
黒い霧が凝固したような身体だった。形はかろうじて獣を模しているが、輪郭は常に揺らぎ、見る角度によっては別のものに見える。その中心で、何かが脈打つように光が瞬くたび、空気が震えた。
咆哮が放たれた瞬間、圧が全身を叩いた。音というより、意志のない力の奔流がぶつかってくるようだった。
だが――。ここまで濁り切り、ただ人を襲うという衝動だけを宿した存在など、聞いたことがない。竜脈の化身である竜霊は、本来もっと無垢な、自然に近い存在のはずだった。
これは違う。
何かが、おかしい。
テオは無意識に後退る。
「砦の竜霊と何かが違う……」
砦の竜霊もまた、穢れてはいたが、そこにたしかにレガリアの気配を感じた。しかし、目の前のそれは――まるで魂を失っている。
「……普通じゃないね」
レティシアがぽつりと漏らす。けれど、それ以上は続かなかった。何かに気づいたような気配を残しつつ、彼女はただ静かに口元を引き結んだ。
竜霊の黒い脚が地面を蹴る。瘴気のような土埃が辺りに舞った。
「来る!」
テオの声と同時に、土が跳ね上がり、空気が鋭く裂けた。
竜霊は村人ではなく――真っ直ぐにテオたちへ向かって突進してくる。
「どうして……村じゃなく、俺たちを……!」
竜霊に流れる竜脈の気配を探っていたテオの手のひらに、突如、焼けつくような熱が走った。皮膚の奥がねじれるような痛みに、思わず手を跳ね上げる。
「テオ!」
レティシアの方へ、大地を巡る竜脈が吸い寄せられる――そんな流れを、テオは肌で感じ取った。驚いて視線を向ける。
「君は……平気なのか?」
彼女は答えない。ただ迫り来る竜霊だけを真っ直ぐに見据え、指先をほんのわずかに持ち上げた。
次の瞬間、閃光が弾けた。目を刺す白光と、空気が一度ひずんで破れるような鋭い震えがあたりを叩く。レティシアの放った雷撃が、竜霊を正面から貫いた。
「この土地、竜脈は荒れてないよ」
短く息を吐きながら、レティシアが応える。
しかし、雷撃で穿たれたはずの竜霊の胸には、すぐに黒い霧が滲み出し始めた。裂け目を塞ぐように、じわり、じわりと濁った影が広がっていく。その瞬間、竜霊の前肢が影のように素早く伸び、鋭い爪がテオの肩をかすめた。
「テオ!」
レティシアの叫びが響く。
「ぐっ」
鋭い痛みにテオは歯を食いしばった。だが、それ以上に胸を突き刺したのは、爪に触れた一瞬、竜霊の内側に渦巻く激しい苦痛が流れ込んできたことだった。これはただの竜脈の穢れではない。竜王の魂から無理やり引きはがされた、その痛みだ。
再びレティシアの雷撃魔法が閃き、竜霊を押し戻す。激しい風が巻き、村の広場に砂塵が舞った。
その渦の中で、ただ一羽だけ、静止したように動かない影があった。ルメルクである。烏の瞳は冷たく、感情の色を一切持たない。竜霊の反応とテオたちの動きを、観察者のように追っている。そして視線がわずかに細まった。まるで、予想していた答えを確認したかのように。




