第二話 何者 ——湧きあがる記憶の断片
竿に掛けられた白い服が、風にあおられて翻った。
その影から、ひとりの少年が姿を現す。カイルの隣に立つテオを、上目遣いで見上げていた。年の頃はテオと同じくらいか、少し下かもしれない。どこか控えめで、物静かな印象を与える少年だった。
「テオ、こいつはユーリ。俺と同じ村から来た――弟みたいなもんだ」
カイルはそう紹介すると、ユーリの方へ視線を向ける。ユーリは言葉こそ発さなかったが、その瞳にははっきりとした警戒の色が浮かんでいた。カイルはそれを気にも留めず、笑みを浮かべながらも、どこか深刻な調子で続けた。
「こっちはテオだ。どこから来たのかも、自分の名前も思い出せないらしい」
ユーリはわずかに目を見開き、眉を寄せた。
「怪我はないの?」
澄んだ声だった。さっきまでの警戒が嘘のように、その響きには真っ直ぐな心配が滲んでいる。思いがけない変化に、テオはわずかに息をのんだが、やがて小さく頷いた。
「ユーリ、ミレットはどこにいる?」
「彼女なら薬草を摘みに出てるよ」
ミレットはこの砦で唯一の女の子で、村の医者の娘だと、カイルは後から説明してくれた。
彼は「そうか……」と呟き、もう一度テオの方に向き直る。
「それなら、戻って来るまで待つしかないな」
視界の端に映った洗濯物と、テオの服を見比べて、カイルは息の抜けたように笑った。
「でもせめて、泥だらけだから着替えたほうがいい」
テオが言われるままに頷くと、ユーリが口を挟んだ。
「僕の服を貸すよ。きっと、背は同じくらいだと思う」
カイルは「助かる」と軽く笑いかけると、テオの肩を軽く叩き、兵舎の方へ歩き出した。
ユーリはそれに微笑み返しながらも、カイルの後ろをついて行くテオから視線を外さなかった。
兵舎は調理場と一体になっていた。鉄鍋や木の籠が並び、うさぎや鳥が吊るされた調理場を抜けると、その先の狭い寝所に、数人分の寝床が無理やり押し込められていた。
「この砦には、俺とユーリのほかにあと三人が住んでるんだ」
折りたたまれた衣服をテオに手渡しながら、カイルは寝床を見回すテオに説明した。
テオは衣服を受け取ると、汚れた服を脱いで着替え始める。腕や身体に触れて確かめてみたが、どこにも傷らしいものは見当たらなかった。その指先も、白い腹も、まるで自分のものではないように思えた。
着替えを終えたところで、カイルがそっとテオの肩に手を置いた。
「俺は昼飯の準備をしに行くから――そこが俺の寝床だ。お前は休んでな。昼飯が出来たら呼びに来る」
テオは隣に立つカイルの顔を見上げ、首を横に振った。
「大丈夫。僕にも、何か手伝えることはない?」
少しでも、この胸のざらつきを消し去りたかった。――けれど、何が引っかかるのか、それすら今の彼にはわからなかった。
「頭を打ってるかもしれないだろ」
カイルは懸念をこぼす。
「痛いところはないから、平気だよ」
テオは頑なに譲らなかった。
カイルは、テオの内心の落ち着かなさを察したのか――「そう言うならいいか」と笑みを作り、テオについてくるよう促した。
調理場では、ユーリがすでに火を起こしていた。炉の前にしゃがみ込み、火搔き棒で灰をつついている。
奥の寝所から現れた二人に気づくと、ユーリは顔を上げた。カイルの後ろに、着替えを終えたテオの姿を見つける。すると彼は、すぐにカイルの方へ視線を移した。
「服はどう?」
ユーリの問いに、カイルはテオを振り返って口角を上げた。
「ああ。ちょうどいいみたいだ」
カイルはそのまま、テオをユーリの前に押し出した。
「ユーリ、そっちは任せてもいいか? テオ、お前はそこにある芋を切ってくれるか」
ユーリの返事を待つより早く、カイルはテオを炉の隣――ユーリが火を見ている横の流し台の前へと立たせた。
握った瞬間、柄の冷たさが掌に広がる。初めて握るのか、それとも忘れているだけなのか、自分でもわからなかった。ただひとつ、手の中にまるで馴染まなかった。
芋を左手で押さえ、慎重に刃を下ろす。ぐっと力を込めると、刃がまな板を叩く乾いた音がして、切れた半分がカイルの足元へ転がった。
「硬かったか? 手を切るなよ」
カイルは笑いながら身をかがめ、転がった芋を拾ってテオのまな板に戻した。
テオは小さく頷き、もう一度ゆっくりと手を動かし始める。包丁が板を叩く音がやみ、いくつかの芋を切り終えたところで、カイルがまな板の上を覗き込んだ。
「よくできたな」
カイルはテオに笑いかけた。
たった一言だった。だがその響きが、別の誰かの声に変わっていく。誰の声なのか思い出そうとしたとき、冷たい泥のようなものが胸の奥からせり上がり、息が詰まった。
「……テオ?」
硬く目を閉じたテオの様子に気づき、ユーリがそっと背中に手を置いた。その手の体温に引き戻され、テオはゆっくりと目を開ける。まな板の上に転がった芋は、包丁を入れる向きも厚みもまちまちで、形は不揃いだった。それでもユーリは何も言わず、テオの切った芋を火の上の鍋へそっと落とした。
湯が沸く音と、煮え立つスープの匂い、立ち上る湯気が、調理場ごと三人を包み込んだ。火の明かりが、テオの白い頬をやわらかく照らしていた。
「……こういうの、やったことないのか?」
カイルの問いに、ぼんやりと火を眺めていたテオは顔を上げた。
「……わからない」
「本当に、何も覚えてないの?」
ユーリの声は責めるというより、どこか悲しげだった。
「好きな食べ物とか、匂いとか、何か覚えてるものはないのか?」
カイルの穏やかな声が、湯の煮立つ音に紛れていく。
テオは、湧き上がる気泡を追うように鍋の水面を見つめた。揺れる水面の上で、泡は誰かの声のように形を変え、やがて消えていく。
――自分はこの優しさに値する人間だったのだろうか。
ひとつ、泡が弾けた。
その瞬間、テオは気づく。自分は――思い出したくないのだと。
「……何も、思い出せない」
テオの声は震えていた。思い出したくない理由を、二人の優しさがそっと覆い隠していた。テオの血の気の引いた顔を見て、カイルとユーリは顔を見合わせた。
「そうだよね。無理に聞いてごめんね」
「鍋も煮えたし、昼飯にしよう」
カイルは明るい調子で言いながら、テオの背を軽く叩いた。
狭い食卓には、カイル、ユーリ、テオのほかに二人の青年と一人の少女が並んだ。荒い木目の卓の上には、黒いパンと湯気の立つスープが置かれている。椅子が足りず、テオは兵舎の外に転がっていた木箱に腰を下ろした。
カイルは、テオがこの場にいる経緯を簡潔に話した。三人はそれぞれ驚きや同情の色を見せたが、テオが砦に居候することに異を唱える者はいなかった。
この砦では、カイルとユーリが他の者よりも長く暮らしているのだという。カイルがとびぬけて年長というわけではないが、自然と生活の取りまとめ役になっているらしかった。
そのとき、ひとりの青年が口を開いた。
「だが、寝る場所がない。兵舎はこれ以上入れないだろう」
テオは、奥の寝所にぎゅうぎゅうに詰められた寝床を思い浮かべた。藁と毛布が雑に積まれた狭い空間。あそこにもう一人加わるのは難しいだろう。
「そうだな……。あそこはどうだ? 裏手の物置。屋根もまだ壊れてないし、人ひとり寝るくらいの広さはある」
ユーリはスープを口に運んでいた手を止めた。
「あそこは皆の荷物とか、よくわからないものも置いてあるし、片づけるのが大変じゃないかな」
「お前も手伝ってくれ。三人いれば夜までに片付くだろう」
カイルはちぎったパンを口に入れながら、気楽に言った。




