第十八話 最初の選択 ——救うか、見捨てるか
馬車の車輪が小さく跳ねた直後だった。道の脇から、荒い息をした中年の男が転がるように飛び出してきた。
「お願いです!どうか……助けてください……!」
レティシアが慌てて馬車を止める。テオは身を乗り出しかけたが、ぐっと踏みとどまった。焦るな、と心の中で自分に言い聞かせる。無意識に衣服の襟を整え、扉越しに声を掛けた。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です……! でも村が……魔物に襲われてるんです! どうか……!」
必死に懇願する男の声に、テオは短く息を吐いた。
「兵も来ず、誰も手が出せなくて……。あなた方は騎士団の御一行とお見受けします。無礼な願いだとは重々承知しています。それでも、どうか魔物を退治していただけるなら――どんな咎めも、お受けします」
レティシアは曖昧な微笑みを保ったまま、男の顔をじっくりと見下ろした。そして、判断を委ねるようにテオドールへ視線を向ける。テオドールは一拍ためらい、それから答えた。
「話を聞こう。案内してくれ」
その返答が予想外だったのか、レティシアは驚いたように瞬きをした。
「きっと他の誰かが助けに来るよ。それに、私たちは騎士団じゃない」
レティシアは師匠とテオを見比べ、困ったように眉を寄せる。男は必死に縋るような声を上げた。
「村には子どももいます! 老人も、病人も! 魔獣がまた現れたら、今度こそ……!」
男の切迫した訴えが周囲の空気を震わせた、その直後だった。馬車の屋根の上で羽が打ち鳴らされる気配があった。烏の姿をした師匠が、影のように音もなく舞い降りた。
その声は静かで、鋼のような確かさを秘めていた。
「テオドール。王都には君を待つ者がいる。辺境の魔獣討伐は、今の君が担うべき役目ではない」
テオは唇を一度だけ結び、ルメルクの黒い瞳を正面から見据えた。返ってくる言葉がどんなものか、頭では分かっている。けれど、目の前の現実がそれを受け入れさせてくれなかった。
「……分かっています。でも……」
一拍置いて呼吸を整える。テオはほんの短く目を伏せ、そして再びまっすぐな視線を師へ向けた。
「この村も、帝国の一部です。なら、そこに住む人たちも……いつか俺が守るべき民のはずです」
まだ本当の意味でそう思いきれてはいない。それでも、そう口に出して自分に言い聞かせるしかなかった。だがその言葉の奥には、まだ埋まらない空白が残っている。
自分を王として認めきれない未熟さ。自らに課した責務との擦れ違い。そして、人間という存在に対するかすかな嫌悪感。
ルメルクは何も返さない。ただ黒い目を細め、テオの顔を静かに見つめる。テオはその視線に耐えきれず、ほんのわずかに目をそらし、ぎこちなく口元をほぐした。
「それに、砦で竜霊をうまく扱えました。その手応えを見てほしかったんです。竜脈の制御も、少しは形になってきました」
それは、未熟な迷いと小さな覚悟が同居した響きだった。やがて烏が静かに羽を震わせる。
「……わかった。ならば、君の成長を見せてみなさい」
テオは深く頷き、短く礼を述べた。男は目を潤ませながら頭を下げる。
「ありがとうございます……ありがとうございます……!」
烏はふたたび羽ばたき、屋根の上へと戻っていく。その途中、テオの背に向けて言葉を投げかけた。
「誰かを救うということは、別の誰かを救えないという選択でもある。君がこの村へ向かうあいだにも、王都では多くの民が混乱に晒されている。それを忘れてはなりません」
テオはしばらく立ち止まり、拳を握った。だが振り返ることなく、男が導く村の方へと静かに歩き出す。
「……心得ています。でも、それでも」
足元の草に視線を落としながら放った声は、強くはなかったが、迷いのない響きを帯びていた。
「目の前で助けを求めている人を、見て見ぬふりはできません」
理屈より先に体が動く。そんな自分に歯がゆさを覚えつつも、テオは不器用に、それでも誠実に歩みを進めた。
その背を見送るレティシアの瞳に、一瞬だけ、淡い光が揺れる。
けれど、テオはまだその変化に気づいていなかった。




