第十七話 出立 ——別れの先に灯るもの
朝靄が砦を包んでいた。陽の光はまだ冷たく、胸壁の隙間から差し込む光も静かだった。砦の門の前には、テオを迎えに来た魔導馬車が佇んでいる。馬車のそばにはレティシアの姿があった。彼女は少し遠慮がちにこちらを見ていた。烏が馬車の屋根の上で、鋭い目をして砦の門を見つめている。
鱗を纏う二頭の馬を見て、カイルがわずかに肩を引いた。
「大丈夫だ。普通の馬と変わらない」
テオが笑ってみせると、カイルは息をのんだまま馬を見つめた。
「触ってもいい?」
ユーリが声をかける。テオが頷くと、彼はそっと竜影の首筋に手を伸ばした。馬はおとなしく、その手を受け入れる。撫でるユーリの腕には、一冊の本が抱かれていた。
「俺もいいか?」
カイルが恐る恐る手を伸ばすと、馬はわずかに頭を下げた。白い鱗が朝の光を受け、柔らかくきらめく。カイルの手のひらがそれに触れ、動きを止めた。しばらくの沈黙ののち、彼はゆっくりと撫で始めた。
「ありがとう」
馬が小さく鼻を鳴らした。カイルは顔を上げ、穏やかに笑う。手を離しながら、もう一度尋ねた。
「その、竜影っていうのは、どこにでもいるものなのか?」
「ああ。竜脈の強い土地なら、どこにでもいる。ここは竜脈そのものが毒されていたから、竜影が暴走したみたいだ。本来は普通の動物と変わらない。竜脈を鎮めたから、しばらくは暴れることもないだろう」
「そうか」と応じたあと、カイルは静かに視線を落とした。
「本当に、行くんだな」
たしかめるような、自分に言い聞かせるようなその声に、馬を撫でていたユーリもテオの方を見る。テオは静かに頷いた。
「後片付け、最後まで手伝えなくてすまない」
そう言ってテオが顔を上げると、カイルがふっと笑った。腕を伸ばし、彼の肩を抱く。
「ほんとだよ。……戻ってくるの、いつでも待ってるからな」
「戻ってきても、いいのか?」
「当たり前だろ」
テオは胸の奥が熱くなるのを感じて、小さく息を止めた。カイルがテオの背を軽くぽんぽんと叩き、そっと体を離す。
やがてユーリがカイルの隣に立つ。髪は少し乱れていた。夜通し、何かを考えていたのかもしれない。
「テオ、寂しいよ」
寝不足のせいか、ユーリの瞼は少し重たげだった。それでも、眉を下げて穏やかに微笑む。
「でも、君のことを信じてる。元気でいてね」
ユーリがそっと手を差し出す。テオはその手を力強く握り返した。
「ありがとう。……必ず戻るよ」
テオはユーリのまっすぐな瞳の奥に、王宮の姿を遠く見ていた。あの場所で、この国を変えよう。そして、必ず彼らに報いる。
「……あんまり無茶はしないで」
ユーリが小さく笑った。
「この本、君に預けるよ」
腕に抱いていた本を、彼はそっとテオに差し出す。テオは手を伸ばしかけて、ふと顔を上げた。
「……いいのか?」
ユーリは口元に笑みを浮かべたまま頷く。
「返せなくても大丈夫。でも、きっとまた会おう」
今度はテオがそっとユーリの肩に腕を回した。委ねるようなその背中が、静かに温かかった。
テオが馬車に乗り込むと、レティシアもその隣に静かに腰を下ろした。蹄鉄の音が地面を叩き、馬車はゆっくりと動き出す。テオは振り返らなかった。けれど胸の奥には、たしかに砦での日々が息づいていた。
馬車は村の外縁を抜け、廃れた街道へと出た。砦はすでに遠く、背後の山並みに溶けかけていた。
テオは膝の上で指を組み、深く俯いていた。レティシアが声を落とす。
「気分、よくないの?」
その声はやわらかかった。口元には笑みが浮かんでいるが、目は心配そうに細められている。彼女はテオの背にも肩にも触れず、じっと様子を伺っていた。
「……いや」
テオはようやく顔を上げ、彼女に向けて微笑んだ。陽の光を遮るようにカーテンの引かれた車内で、胸の中の迷いは無視できないほどに膨らんでいた。
自分は彼らに背を向けたのではない。背を預けたのだ。その思いが、砦が見えなくなった今、ようやく言葉の形を取り始めていた。
烏がわずかに身を震わせた。
「王とは、民と並び立つ者ですか、王子」
ルメルクの声が、穏やかでありながら確かな響きをもって車内に落ちた。テオは言葉に詰まり、組んだ指先が、かすかに擦れる音を立てた。
「王という存在がなぜ必要なのか、忘れてはいけません。王の言葉は、民を導く秩序であるべきです」
テオは眉をひそめ、目を伏せる。ルメルクは黒い翼を一度震わせ、ゆるやかに続けた。
「テオドール。君が王都に戻り、正統な王として立たなければ、あの砦の者たちは永遠に逸れ者のままだ」
カラスの目が、鋭く光る。
「君が王になれば、軍を動かせる。人も物も、砦の問題を国の問題として扱える。君が戻る意味は、そのためにある」
テオは固く瞼を閉じた。組んだ指先に熱がこもるのを感じる。こめかみがうるさく脈打った。
あの地で、仲間たちは強く生きていた。誰かが命を投げ出してでも、仲間を守ろうとしていた。――王宮で、そんな光景を見たことがあっただろうか。砦で得たその温もりを、忘れたくはなかった。
テオは目を開け、ユーリから預かった本の表紙をそっと撫でる。
それは、ユーリが自分の過去を取り戻すための約束であり、テオが道を見失わないための約束でもあった。
「王に、なる」
テオは静かに言った。
「秩序のためじゃない。人々の居場所を守るために」
短い沈黙が落ちた。風もないのに、ルメルクの黒い羽が、わずかに揺れた。
「……ええ。迷いは断ち切りなさい」
掠れるほど低い声が、それきり途切れる。けれどテオの胸の奥では、小さな灯が確かに燃えていた。
馬車は、ぬかるむ道を駆け抜けていった。
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