第十五話 失ったもの ——それでも歩き出す朝
レティシアがテオドールに一歩近づき、そっと彼の手を取った。温かな掌と冷たい指先が触れ合い、ふたりの間に微かな震えが走る。
「……見つけた。生きてて……よかった」
その声には、張りつめていた息がほどけるような安堵が滲んでいた。彼女は、竜の血を引く者として、幼い頃から王宮でともに学んだ同士だった。
少し遅れて、彼女の懐から白い鱗をまとった小さなリスが顔をのぞかせる。
「この子たちに道を教えてもらったの。師匠も、ずっと君を探してた」
彼女の肩に止まった烏が、黒い瞳でテオをじっと見つめる。愛らしい仕草とは裏腹に、その視線にはどこか測るような冷たさがあった。
「……テオ」
背後から名を呼ぶ声に、テオははっと振り返る。
ユーリが不安げに眉を寄せて立っていた。レティシアの視線が、一瞬だけユーリに向いた。その瞳に宿ったのは、敵意でも猜疑でもなく――痛みを分かち合う者を見るような、どこか憂いを帯びた眼差しだった。
ユーリのさらに後ろで、村人たちが囁き合いながら、壊れた戸口の隙間からこちらを窺っている。
張りつめた空気の中、ミレットに支えられて家の石段を下りてくるカイルの姿が目に入った。テオは握られたままの手に気づき、そっとレティシアの手を離した。彼女の指がわずかに強張る。
「ユーリ! テオ!」
カイルの掠れた、けれど力強い声が、沈黙を切り裂いた。ユーリの肩が小さく跳ねる。人々の視線は一斉にテオたちへ向かった。
一歩、カイルへ向かおうとした足が止まる。ユーリが、肩を震わせて立ち尽くしていた。背中越しにレティシアの声が届く。テオは振り返らずに、ユーリの肩にそっと手を置いた。
「カイルが呼んでる」
人垣をかき分けるように、カイルが二人に手を伸ばす。テオは、俯きがちなユーリの視線も、まっすぐ向けられたカイルの目も見ないようにしながら、そっと微笑んだ。
「……すぐに戻る」
それだけ告げて、レティシアの方へ向き直る。
「人目がある。少しだけ……森で話そう」
声は低く、誰にも聞こえないほど小さかった。 テオはレティシアを伴い、獣たちの死骸を避けながら、家々から少し離れた場所へ歩き出した。 数歩うしろで、ユーリとカイルが抱き合う気配がする。呼び止める声が届いたが、テオは振り返らなかった。
わずかな安堵と、否応なく向き合うべき現実とのあいだで、胸の奥が裂かれるように痛んだ。
空は、白み始めていた。
村を抜け、森に辿り着くと、テオはようやく足を止めた。
「ここなら、誰にも聞かれない」
朝焼けの森は、夜の騒ぎが嘘のように静まり返り、木の葉がそっと揺れていた。
「話してくれ。王宮は今、どうなってる? 父は? レガリアは?」
抑えていた声が、次第に荒くなるのをテオは止められなかった。
「兄が、俺の記憶を封じた。レガリアを使って、俺をここへ追いやったんだ」
脳裏に、あの夜の暗闇が蘇る。兄に呼び出され、王家の宝玉――レガリアを封じる石室へと足を向けた。湿った冷たい空気、背筋を這うような静寂。兄の視線が、痺れのような感覚となって肌に広がった。その紫の瞳を思い出した瞬間、鼓動が乱れ、息が詰まった。テオは震える手で胸を押さえる。
――お前にとって、王とは何だ。
その声の残響と、瞳の残像を振り払うように、テオは顔を上げた。
「レガリアは君が消えた夜に行方不明になった。おそらく、君の兄上が隠したのでしょう」
しゃがれた声が静寂に滲んだ。一拍置いて、烏は淡々と続ける。
「陛下は病床に伏したままだ。玉座には、君の兄上が就こうとしている」
テオは拳を握り締め、唇を噛んだ。父の生前に、それも父の指名なく玉座に就く――それは、王位の簒奪に他ならなかった。
「王宮は混乱している。火種が燃え広がる前に、戻れ」
テオの背筋を冷たいものが走る。師の一言は、帰る場所を失って久しい心に、容赦なく突き刺さった。震える拳を押さえ、テオは唇を結んで応えた。
テオと師ルメルクの会話が途切れるのを待っていたかのように、レティシアの声が遠慮がちに響いた。
「……さっきの人たちは、誰なの?」
テオはふっと顔を上げた。彼女はわずかに不安を滲ませ、怪訝そうに眉を寄せて彼を見つめていた。黒い翼をゆったりと膨らませながら、烏もその黒い瞳で彼を捉えていた。
テオは小さく目を伏せ、静かに答える。
「ここでお世話になった人たちだ。王宮にはすぐ向かう。でも、その前に――あの人たちと話したい」
「……さっきの子、竜人?」
レティシアの問いに、テオは短く頷いた。レティシアは何も言わず、ただ静かに微笑む。
「わかった。私たちは馬車で待ってるね」
テオは二人を森に残し、足早に村へ戻った。
村へ戻ると、物々しい喧騒が辺りを包んでいた。その中心には、ユーリとカイルの姿がある。二人の姿を目にした途端、テオの足は自然と速くなった。
老いた男が、激しい剣幕で二人に詰め寄る。
「よそ者を追い出せ。村がこうなったのはお前たちのせいだ!」
怒号が刃のように突き付けられた。ユーリはカイルの肩から手を離し、ゆっくりと前へ出る。彼の頬や腕に見えていた鱗は、ほとんど肌と馴染み、薄く消えていた。
「駄目だ。絶対に行かせない」
カイルの声はいつになく低かった。ユーリはうつむき気味に首を横に振る。
「ううん。行かないと。夜が明けたらここを出るって村の人たちに約束したんだ。これ以上君に迷惑はかけられないよ」
ユーリの声はもはや震えてはいなかった。けれど、その瞳の奥には、消せない疲労が滲んでいた。カイルは力なく笑みを浮かべ、ユーリを見返す。
「迷惑なわけないだろ。俺も行く。お前を一人にはしない」
その肩を、誰かの手が掴んだ。ミレットが間に入ろうとしたが、男が続けざまに言う。
「この有様を見ろ。あいつはあの化け物たちの仲間だ!」
男は、村のあちらこちらに散らばる竜影の残骸を指さした。
「違う! 彼は化け物なんかじゃない」
テオは二人に追いつき、男たちの間に割って入った。
「誰だ」
テオは男の言葉を無視し、後ろのユーリに話しかける。
「君は化け物なんかじゃない」
「……あのときこいつと一緒にいたやつか」
「俺は竜導士だ。魔物を呼び寄せはしない。魔物から人を守る“責”を負った者だ」
テオはそう言って、静かに地面へ片膝をついた。
「見ていてくれ」
指先で土を払い、低く短い竜の言葉を紡ぐ。地中の湿り気が引き寄せられるように集まり、抉れた裂け目の土粒が細かくほぐれていく。粘土質の層が表面に浮き上がり、まるで人が手で均したかのように滑らかに埋め戻った。村人たちは小さなどよめきを漏らしながら、それを避けるように足を引いた。
「完全に直ったわけじゃない。雨が降ればまた崩れる。……でも、応急処置くらいならできる」
テオが立ち上がると、人々の視線が一斉に彼へ向いた。人垣の向こう、ユーリを見つめながら、テオは静かに宣言する。
「彼も、恐れるべき存在じゃない」
ユーリの瞳が、小さく見開かれた。テオは男に向き直る。
「地面を元に戻すにも、壊れた砦を直すにも、人手が要るだろう。力になる」
その言葉に、周囲の空気がわずかに揺れた。責め立てる声よりも、切実な事情が、村人たちの胸に一瞬だけ割り込む。復旧には人手が要る。その事実を、誰も否定できなかった。
沈黙が落ちた。村長とテオたちを交互に見比べて囁き合う者、盛り上がった土をただ茫然と見下ろす者――。
男が奥歯を噛む音がした。
「竜導士だと……」
掠れた声が、呟くように漏れる。
「そんなもの、信じろと言うのか」
テオはまっすぐに男を見返した。
「信じてほしい。ユーリは、子どものころから砦で村を守ってきた」
人垣のあいだから、誰かが小さく呟く。
「魔物の力じゃないのか?」
「でも……地面を直したのは本当だ」
ざわめきが波のように広がっていく。やがて、男は深く息を吐き、しわだらけの手で額を押さえた。
「……分かった」
周囲の者たちが息を呑む。
「今すぐ出ていけとは言わん。だが、これまでどおり砦で暮らせ。村には決して下りてくるな。何かあればすぐに出て行ってもらう。それでいいな」
テオはユーリとカイルを振り返る。カイルが傷ついていない方の腕を、そっとユーリの肩に回した。
「感謝します」
カイルは村長に頭を下げる。男はそっぽを向いたまま、唸るように言った。
「礼なんぞ言うな。早くここから失せろ」
人々の空気はまだ張り詰めていた。けれど、事態の収束を悟ったのか、彼らは三人を横目で見ながらも、次第に散っていく。
人足が遠ざかるにつれ、夜の冷たい空気が戻ってきた。
テオはそっと息を吐いた。ユーリは静かに微笑み、目を伏せたまま、息のように「ありがとう」と零した。




