第十四話 少女と烏 ——帰還を告げる影
黒い霧が、東の方が白みかけた空へと逆巻き、竜の咆哮のような音が空気を震わせた。家々の戸が軋み、窓硝子が悲鳴を上げる。
「竜霊……?」
ユーリが息を詰めて問う。テオは頷いた。
「砦で俺たちを襲った獣たちは、竜脈に中てられて竜化した動物――竜影。今、目の前にいるのは竜脈そのものの化身、竜霊だ」
隣を見ずとも、ユーリが眉を寄せる気配があった。
空の異変に気づいた村人たちが、二人の周囲に集まり始める。風が荒れ、掲げた松明の炎が激しく明滅し、やがてすべて吹き消された。
「今からあれを鎮める」
竜霊が村を呑み込む前に。テオは覚悟を決め、一歩、赤い目を宿す霧へと踏み出した。
手のひらの奥で、熱いものが脈打つ。竜の血が竜脈の力に呼応していた。
幼いころから王宮で、竜脈――その源たるレガリアの制御を叩き込まれてきた。テオはぎゅっと瞼を閉じる。初めて竜脈に触れた日の感覚が蘇った。灼けた鉄のような力の塊が血管を逆流し、思考すら焦げるような痛みに支配された。その痛みを逃がそうとすれば、制御を失った力が周囲を焼き尽くす。暴走した竜霊に接続することは、自ら壊れにいくことに等しい。
それでも――今は、不思議とできる気がした。
テオは拳を握りしめ、目を開く。自分に言い聞かせるように息を整え、手のひらを竜霊へと向けた。冷気が肌を包む。触れた瞬間、それは灼けるような熱へと変わった。痛みが腕を駆け上がり、テオは唇を噛み締めた。
竜霊――その奥底に眠る竜王の意思が、テオドールの魂に触れる。
《王の器にあらず》
冷たい声音が、意識の底に沈み込んだ。テオの腕に、梢のような黒い脈が浮かび上がる。
違う。そんなはずはない。自分は選ばれた人間のはずだ。
その反射が、思考より先に胸の奥で疼いた。だが今のテオにとっては、そんなことなどどうでもよかった。隣に立つユーリを、背後で眠るカイルを――ただ、守りたかった。
竜の言葉が喉に宿る。テオは静かに、竜王との契約を呼び起こした。竜脈が脈動し、足元の土が青白く光を帯びる。その光は、テオの足元から円を描いて広がっていった。
霧が拡散と収縮を繰り返し、竜霊が咆哮する。頭蓋を貫くような轟音に、ユーリが耳を塞ぎ、膝をついた。
テオは奥歯を噛みしめ、暴走を押さえ込むように両手を広げた。力の奔流が、指先から腕を伝い、心臓へと届いた。血管を裂かんばかりの熱が駆け抜け、喉の奥から呻きが漏れた。
詠唱を止めてはならない。失敗すれば、自分も村も呑まれる。
「テオっ」
「――鎮まれ!」
テオが地を叩きつけるように叫んだ瞬間、光の輪が閃光を放ち、霧全体を包み込む光の網が収束する。
竜霊が痙攣するように震え、赤い双眸がわずかに揺らいだ。抵抗が止まり――音もなく、煙が消えるように霧散した。
静寂。
風が、ひと呼吸ぶんだけ戻ってきた。冷えた空気が頬を撫でる。
「……消えたの?」
耳を塞いでいた手をそっと離しながら、ユーリが尋ねた。テオは手のひらに残る熱を確かめるように見つめ、小さく首を横に振った。
「消えたんじゃない。契約のほころびを、繕っただけだ」
竜霊は、この世界を巡る理のひとつ。かつては、それを鎮め導くことが、彼ら竜導士の役目だった。
しばしの静けさののち、どこかで狼の遠吠えが響いた。まだ夜に沈む西の空――砦の方角の闇が、不自然に蠢いた。
ユーリが鋭く顔を上げる。
「……来る」
「竜影だ」
四足の獣の影が、次々と姿を現す。竜の鱗をまとった獣たち――竜影。
それは「数」などという概念では捉えられなかった。夜の地平そのものが、押し寄せてくるようだった。
テオは、あの夜聞いた彼らの声の意味を悟る。彼らは竜霊に怯えていたのだ。脅威が消えた今、牙を向ける先を失い――村を食らおうとしている。
「……ユーリ、家の中へ。ミレットとカイルを――」
「君は? 戦う気? そんなの無謀だ」
引くべきだ。まだ竜脈の暴走を受けた身体には、熱と重さが残っていた。テオドールには、戻るべき場所があり、果たすべき使命がある。それを理性ではわかっている。けれど――せめて仲間たちが逃げる時間だけでも、持ちこたえたかった。
黒い影のひとつが、地面を蹴った。飛びかかってきた獣を、ユーリが受け止める。押し寄せる力に足が沈み、地面がえぐれた。守るべき人々の前で、二人はじりじりと追い詰められていく。
そのときだった。突如、青白い光が辺りを包んだ。
「テオ、君が?」
テオは首を横に振る。
誰かが、来る。
次の瞬間、轟音とともに地面が弾け飛んだ。暁を映す土煙の中に現れたのは、赤い外套を纏った少女だった。風に舞う金糸の髪を撫でつけながら、怯えて身を低く構える竜影たちの間を、まっすぐに歩いてくる。
その姿を見た瞬間、テオの胸の奥がずきりと痛んだ。帰るべき場所と、背負うべき現実を――再び突きつけられたからだった。
少女がすっと手を上げる。それだけで、獣の群れが動きを止めた。少女は獣たちの赤く光る双眸を見て、そっと瞼を伏せた。
「かわいそうに」
その声には、確かに同情があった。だが、再び瞼を上げたその瞳には、もはや揺らぎはなかった。彼女の魔法が放たれる。それは、テオの浄化によって正しく流れ始めた竜脈の力を借りたものだった。風が逆巻き、鋭い刃のように獣の四肢を裂く。
「苦しまないほうがいい」
獣の悲鳴が空気を震わせ、テオとユーリは思わず耳を塞いだ。
やがて残ったのは、空を覆う砂埃と沈黙だけだった。誰もが言葉を失う中、少女は軽やかな足音で駆け出した。
「無事でよかった、テオドール」
彼女はテオの正面に立つ。その声には、確かな安堵が滲んでいた。
「……レティシア……?」
「そう、私だよ」
微笑んだその瞬間、一羽の烏が彼女の肩に降り立った。その鳥の黒い瞳だけが、場違いなほど冷ややかに、村の光景を見渡していた。




