第十三話 あわい ——二つの声の狭間で
テオが振り返ったとき、竜霊はまだその赤い双眸でテオを見ていた。その目には、何の感情も感じ取れない。ただ、見つめていた。
風が止み、川のせせらぎだけが聞こえていた。
「……行こう」
ユーリは半歩だけテオに体を向けて、言った。テオが頷くと、彼の瞳に不安と安堵が交じった。手首に残った冷たさをさすった。テオの手首には、まだ掴まれたときの冷たさが残っていた。
足元の砂利が鳴る。二人は言葉を交わさず、村の灯りへ向かって歩き出した。
家に戻ると、薬草の匂いがまだ重く漂っていた。ミレットが寝台の傍らでうつむき、カイルの額を拭っていた。扉の音に気づいた彼女は顔を上げる。扉の音に気づいて顔を上げた彼女の頬が、安堵に緩みかけた。けれど、二人の表情を見た途端、その笑みがすっと曇った。
「二人とも、大丈夫……?」
テオは小さく目を伏せ、寝台へ歩み寄った。無言で袖をまくる。
カイルの胸は浅く上下し、腕の黒い紋が肩へと広がっている。皮膚の下で黒い脈が蠢き、心臓に迫っていた。
「……もう時間がない」
ユーリの声が、かすかに震えた。テオは短く息を吸う。
「もう一度、本を」
静けさのなかで、その声だけが澄んで響いた。
テオは本に指を添え、頁を開いた。羊皮紙の感触が冷たく、指先が微かに震えた。
最初の文字に視線を落とした瞬間、胸の奥でざらつく痛みが走る。けれど、声は自然に零れた。舌は迷わず音を紡ぎ、空気が震える。低く、深い音色が部屋に満ちた。
その響きに呼応するように、頁の文字が淡く光り始める。
ユーリは息を詰め、ミレットは手を組んだ。
カイルの腕に走っていた黒い紋が、ゆっくりと薄れていく。皮膚の下を這っていた影が霧のようにほどけ、呼吸が静かに整っていった。
ミレットが息を呑み、祈るように目を閉じた。
「……効いてる」
テオの声が途切れるたび、光が脈動し、やがて部屋全体が柔らかな明るさに包まれる。最後の一節を読み終えたとき、光が柔らかく弾け、空気の重さがすっと消えた。
テオは息を吐き、震える手で本を閉じた。羊皮紙の温もりが、まだ掌に残っている。
寝台の上で、カイルがかすかに呻いた。
「……カイルは、もう大丈夫なの?」
ユーリが震える声で尋ねる。テオは寝台のカイルを見つめたまま、頷いた。
背中越しに、安堵の息がふたつ、静かに落ちた。
けれど、テオの心は晴れなかった。瞼の裏には、赤い双眸の残像がまだ瞬いていた。あの声が、耳の奥で囁いている。
――忘れるな。お前は選ばれたのだ。
三人の間に、ふと沈黙が落ちた。言いたいことはそれぞれにあったのに、どう言葉にしていいのか分からなかった。沈黙を裂いたのは、ユーリだった。
「カイルが無事なら……僕はもう村を出ていくよ」
テオはわずかに眉を動かしたが、言葉を返せなかった。ミレットが驚いたようにユーリの服の袖を掴む。ユーリの頬の鱗が、灯りを受けて光った。
「約束だから。……僕みたいなの、置いておけないだろ」
乾いた声だった。自嘲うようでいて、ひどく寂しげにも聞こえた。
「ユーリ、お前はそんなんじゃない」
考えるより先に、言葉が口をついて出た。ユーリはふっと笑う。その笑みは、冷たいというより、どこか自分を遠くに置いたような笑みだった。
「……じゃあ、何?」
テオが言い返すよりも早く、ユーリは言葉を吐き出した。
「君は、誰かを救える。でも僕は……、見てよ。ただの化け物だ」
ユーリは腕の鱗を光に晒した。テオは咄嗟にその手を掴む。
「違う――」
言いたい言葉は彼の胸の内にあった。
――俺とお前は同じだ。
二人は同じ竜人だ。古の竜の血を継ぐ眷属。だが、もう一人の自分がそれを口にすることを許さなかった。
テオが言葉を継げないのを見て、ユーリはその手を振り払った。唇を噛みしめる。
「それに……」
少し言い淀んでから、それでもはっきりとした声で言った。
「君こそ、ここにいたらいけない人なんじゃないの」
空気が静かに軋んだ。テオは目を瞬かせる。胸の奥に、冷えた痛みが走った。
ミレットが卓上で握りしめた拳を、ぎゅっと強めた。
「やめてよ。カイルを置いていくの?」
二人は小さく息を呑んだ。けれど、ユーリは気づかないふりをした。
「僕にはわかるよ。さっきのテオ、どこか……別のところを見てた。ここじゃないどこかを」
ユーリの声が震えた。
「今のテオは、僕たちといたテオじゃないんだね?」
テオは息を詰まらせた。喉の奥が熱くなる。
こんなこと、聞くな。聞くべきじゃない。そう思うのに――確かめずにはいられなかった。
もしも、ここにいてほしいと願われるのなら。ここにいたいと願う自分を、少しは許せる気がした。
「お前は……俺が、いない方がいいと思ってるのか」
「そうじゃない!」
ユーリは弾かれたように顔を上げた。自分の声の大きさに驚いたのか、息を詰めて、震えるように続ける。
「違う……違うよ。行ってほしくない。行ってほしくないんだ……」
テオは目の奥が揺れるのを感じた。胸の奥が軋む。それを必死に押し殺した。
「でも……引き止めちゃいけない気がする。引き止めたら、テオを壊してしまう気がするんだ……」
ユーリの中には、あのとき自分の手を振り払ったテオの姿が、まだ残っているのかもしれなかった。
彼は続けた。弱い声だったが、その奥には確かな覚悟が滲んでいた。
「ねえ、テオ。……思い出したんだろ? 本当は誰なのか」
テオは唇を開きかけた。
そのとき、家の外から低い唸りがかすかに響いた。部屋の空気が張り詰める。耳鳴りが蘇り、遠くで地を這うような震動が続いた。
テオは意を決し、ユーリの目を真っすぐに見つめた。
「一緒に来てくれ。お前に、確かめてほしい」
次の瞬間、唸りが村中を揺るがすほどの轟きへと変わった。黒い霧が離散し、膨れ上がり、夜の空気そのものを呑み込んでいく。星明かりさえ掻き消えた。
テオは息を呑む。空気が急速に重くなり、肺が凍るような圧がのしかかる。視界の端で地面が波打った。
「なに、これ」
ユーリが空を見上げ、怯えた声で呟く。
「竜霊の暴走だ」
テオは体中を巡る竜の力を強く感じながら、空を仰いだ。




