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太陽のレガリア  作者: 志乃さつき
第一部 忘却の砦

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第十二話 宿命(2)——記憶が引き裂くもの

 息が乱れ、冷たい空気が喉と肺を刺す。テオの後を追う足音はなかった。

テオは村の外縁、人目のない川のほとりに立ち、闇と向き合う。耳鳴りは止まず、頭の奥を焼くような痛みが走った。あの夜の記憶の断片が、遠い日々の残像と混じり合い、白く瞬いては消えていく。


「お前だったんだな」


声に出した瞬間、夜がきしんだ。返事はない。ただ、暗闇の奥で何かが蠢く。黒い霧がゆっくりと形を成し、一つの輪郭を描く。赤い双眸が光り、テオを見据えた。


あの本を読んだとき、テオは世界の理を思い出した。

この大地の下には竜王の魂の力――“竜脈”が流れていること。

竜の言葉で呼びかければ、その力が応えること。

ただ、自分が何者なのか――肝心のそれだけが思い出せない。


けれど今、その鍵を握る存在が、目の前にあった。


「お前が……俺の記憶を封じてたんだ」


テオは、竜脈の化身――竜霊へと、手を伸ばした。

その瞬間、記憶が、光の奔流のように脳裏を駆け抜けた。



 テオが飛び出していった戸口を、ユーリとミレットは呆然と見つめていた。追いかけるべきかどうか、その判断すら浮かばない。沈黙の中に、カイルの浅い呼吸の音だけがかすかに響く。

 ユーリは唇を震わせ、開いたままの頁に指を触れた。光沢を帯びた羊皮紙の冷たさが指先に伝わる。胸の奥で何かがちくりと疼いた。


なぜ――。母の本は、自分には応えてくれなかった。なのに、テオには応えた。

同じだと思っていた。けれど、やはり自分と彼とは違うのだろうか。

胸の奥が、重く沈む。


 ユーリは眠るカイルを見下ろした。額に玉のような冷や汗が浮かび、腕の黒い紋は皮膚の下を脈打っている。


母とテオは救う力を持っていて、けれど自分は――。


いや。今は沈んでいる場合ではない。カイルもテオも苦しんでいる。


 「ミレット。テオを探しに行ってくる。すぐに戻るから」


ミレットはくしゃりと顔を歪め、頷いた。


 ユーリは家々の壁に背を預け、影を縫うように狭い道を進んだ。テオの痕跡を追おうと、空気の流れと土の匂いに意識を向ける。

身体が変化してから、手足の力だけでなく、暗闇の中で形を見分ける目や、空気に混じる匂いをかぎ取る感覚まで鋭くなっていた。


 水の匂い。その奥に――熱を帯びた気配。テオだ。

川辺の闇が、わずかに歪んで見えた。砦で感じたあの不穏な空気が、そこに塊のように澱んでいた。


「……テオ?」


自分でも情けないほど、弱々しい声だった。ただ、テオの背中がいつもと違うように見えて——。



 背後でためらいがちな声が響いた。テオ――テオドールは、応えずに息のような言葉を落とした。


「俺は、こんなところにいるべきじゃない」


自分でも驚くほど、冷たい声音だった。胸の奥で、何かが焦げるように痛んだ。


「テオ?」


「帰らなきゃいけない。王宮に。俺の……いた場所に」


口にした瞬間、テオ自身が息を呑んだ。自分の口から漏れたその言葉に、わずかな戸惑いが走る。


――テオドール。王座は、お前が継ぐべきものだ。

暖炉の火が弾ける音と、父の手が肩に置かれる重み。


――竜の血を混ぜるな。あの子を次期王に? 笑わせるな。

生け垣の向こうで交わされる囁き。自分を避ける大臣たちの影。


 光と影の声が胸の内で交錯し、視界がわずかに揺れた。鈍い光が目の奥で尾を引き、川面の揺らぎと王宮の石床の反射が重なった。

 テオは振り返った。松明の灯りが揺れ、ユーリの顔を半分だけ照らし出す。その瞳に、不安の色が浮かんでいた。自分には、立つべき場所、果たさねばならない使命がある――そう思うのに、その表情を見た途端、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。


「……思い出したの?」


ユーリが一歩近づいた。震える声とは裏腹に、その足取りは揺らがなかった。まっすぐテオだけを見ていた。

答えなければ、と心が訴える。だが、別の声が過去の方へ引き寄せようとする。今の自分と、遠くへ手招く過去の声がぶつかり合い、言葉が出なかった。


「俺は――」


胸の内で、二つの記憶が衝突する。


王宮の回廊に響く靴音。微笑みの仮面に閉ざされた晩餐。鋭い光を返す銀の食器。

調理場に転がった芋の欠片。仲間たちの笑い声。食卓に漂うスープの匂い。


 言葉が喉で崩れた。


――期待している。


――忘れるな。お前は、選ばれたのだ。


脳裏に、誰かの声が蘇る。体が強張り、指先まで何かに支配されていくようだった。喉の奥が見えない力に締めつけられ、声が出ない。自分の体が、自分のものでなくなっていく。


「……テオ、カイルを助けて」


ユーリが、震える指でテオの手首を掴んだ。その力は弱かったが、離すまいとする気配があった。

その瞬間、掴まれた箇所から冷たさが這い上がり、テオの体がびくりと跳ねた。反射的に、その手を振り払う。自分のしたことに気づき、テオの顔がわずかに歪んだ。


「違う、すまない……そんなつもりじゃない」


ユーリの、傷ついたような表情が胸に突き刺さった。テオは息を整え、唇だけで押し出すように言う。


「……カイルのところに戻ろう」


ユーリはまだテオの顔を心配そうに見つめていたが、何も言わなかった。ただ、その沈黙が、ふたりの間にひどく遠い距離を作っていくのを、テオは痛いほど感じていた。

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