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太陽のレガリア  作者: 志乃さつき
第一部 忘却の砦

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第十一話 宿命(1)——呼び覚まされるもの

 息を切らしながら、テオは兵舎の裏手に辿り着いた。そこは砦の中でも火の回りが遅く、炎の光は届かない。仲間たちと過ごした場所が無事で残っていたことに、テオは少し安堵する。

テオは扉に耳を当て、中の音をたしかめた。獣の気配はなかった。扉を素早く開け、兵舎の中に滑り込む。

調理場と食堂を抜け、寝台が並ぶ奥の一角へ向かった。


「……あった」


ユーリの寝床は一番奥——窓に近い場所だ。毛布は乱れたままになっていた。テオが毛布をそっとめくると、埃と藁の匂いが舞い上がった。たしかめるように藁を探ると、硬いものが指先に当たった。心臓が小さく跳ねる。


「これだ」


一冊の古びた本だった。革の表紙は擦り切れているが、粗野な砦には不釣り合いなほどの趣を帯びていた。


 本を手に、テオは中庭に出た。風が一息、逆巻いた。熱風が押し寄せ、テオは思わず本を胸に抱え込む。灰と火の粉と、それに混じるかすかな臭気。鼻を刺すような、舌の奥がしびれるような臭いだった。


 石垣の影から声が降ってくる。


「テオ!」


顔を上げると、燃え盛る炎を背に、一人の影がこちらを振り返っていた。その周囲を数頭の獣が囲み、身を低くしてにじり寄る。牙が地を抉りながら、ユーリを呑み込まんと迫った。

テオは思わず肩を竦める。

その瞬間、ユーリは軽く地面を蹴り、獣の前足に飛びつくと、体をねじって地面に叩き伏せた。

テオは大きく手を振る。


「ユーリ! 見つけたよ!」


ユーリは獣に背を向けることなく、数歩あとずさり、テオの方へ駆け出した。その足取りは痛みを庇うようだった。テオはすぐに駆け寄り、その体を支える。


「怪我は?」


「平気。走れないほどじゃない。それより――本は?」


「これで合ってるよね?」


テオが抱えた本の背表紙に、ユーリの瞳が一瞬だけ輝いた。彼が短く頷いた、その刹那。背筋を冷たいものが駆け抜け、テオは反射的に振り返る。ユーリも、ほとんど同時に動いた。砕けかけた胸壁の影から、ぬらりと立ち上がる影。夜の闇の中でもなお深く、音もなく蠢くそれは、確かな存在感を放ちながら、生き物の気配を欠いていた。


耳鳴りがする。頭の奥で何か――いや、誰かの声が響く。

——思い出したくない、思い出してはいけない何かだと、理屈より先にわかっていた。

テオは頭を振り、声を絞り出した。


「急ごう!」


二人は崩れた石垣を越え、森へ続く道へ駆け出した。横合いから、二頭の狼が低い唸りを重ねて迫る。ユーリは左手で地面をすくい上げ、砂利を狼の目へ弾き込んだ。吠え声が途切れた一瞬、彼の脚が弧を描き、獣の頸椎が鈍く鳴る。

二人は炎を背に、丘の斜面へと飛び込んだ。


 砦の轟音と打って変わって、森は不気味なほどの静寂に包まれていた。けれど、耳鳴りはやまない。


「……聞こえる?」


息の切れ間に、テオが問いかける。

ユーリの答えに、テオは表情を曇らせた。彼にも聞こえていないとしたら——。


「ただ、何かが追ってくる気がする。でも、獣じゃない」


そう続けたユーリの横顔は、強張っていた。


 村の夜は、さらに深まっていた。家々の間で見張りが交代する足音が響く。村に下りた魔物の数は多くないとわかったのか、見回りの人数は減っているように見えた。

ミレットの家の灯りが見える。テオは本を抱え直し、ユーリと視線を交わす。


「裏から入る」


二人は指で合図を交わし、息を合わせて隙間から滑るように中へ入った。


 家の空気は温かく、煮詰めた薬草の匂いが重く垂れている。寝台の横の椅子にはミレットが腰かけ、居眠りをしていた。扉の音に目を開けた彼女は、すぐに状況を理解し、息だけで「よかった」と言った。

テオは頷き、寝台に目を向けた。カイルの胸は、重い水を押し上げるように上下している。腕の皮膚は黒く脈打ち、毒の黒が静脈を逆流して心臓へ戻ろうとしているのが見える気がした。


「持ってきた」


テオは本を卓に置いた。留め具の錆が指に粉を残す。ユーリが近づき、指先で革の角を撫でる。かつての温もりを探るように。


「ミレット、読める?」


ミレットは身を起こし、テオが開いた最初の頁をのぞき込んだ。彼女はしばらく頁を見つめ、何枚かをめくる。沈黙の中、羊皮紙だけが乾いた音を立てた。やがて眉間に皺が寄る。


「……見たことのない文字みたい」


 隣でユーリの呼吸が浅くなるのがわかった。テオは一縷の望みをかけて、口を開いた。


「僕が読む」


テオは本に手を添え、頁に視線を落とした。小さく息を呑む。頁をめくるほどに、胸の奥のざわめきが大きくなっていった。その文字は、ただの記号ではなかった。——遠いどこかで、この言葉を口にしたことがある。そんな奇妙な既視感が胸に広がる。

テオは自分の口から、聞いたことのない音色がこぼれていたことに気づいた。


「……テオ?」


ユーリの声が、薄い膜を破るように届く。テオは唇を閉ざす。声は止むのに、意味だけが出血のように滲み続けた。


「今の声——」


ユーリが何を言おうとしているのか、テオにもわかった。

この響きは、魔物の——竜の言葉だ。けれど、なぜテオには読めて、ユーリには読めなかったのか——。

記憶を辿ろうとした瞬間、くすぶっていた耳鳴りが痛みに変わり、頭の奥を突き刺した。


——思い出すな。


脳裏に響くその声が、今の自分のものなのか、過去の自分のものなのか、それとも他の誰かのものなのか、もはやテオには区別がつかなかった。

ただ、思い出せば、今の自分は自分でいられなくなる。それだけが、たしかな予感だった。


「テオ、無理はするな」


ユーリの手の重みと温もりが、肩に伝わる。テオは(かぶり)を振る。


「カイルを助けなきゃ」


本の続きに目を落とす。文字を辿るたび、胸壁の影、迫る気配、そして黒い霧の光景が、脳裏に焼きつくように広がった。

手が震える。テオはそっと本を卓に置き、こめかみを押さえた。

部屋の戸に手を掛ける。


「テオ!」


ユーリとミレットが伸ばした手を、テオは思わず振り払った。

頭の中で何かが弾け、視界が白く揺らぐ。気づけば、暗闇へと駆け出していた。

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