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太陽のレガリア  作者: 志乃さつき
第一部 忘却の砦

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第十話 来た道と行く道 ——燃える砦の前で

 家の戸をそっと閉めると、夜の空気がひやりと肌を撫でた。蝋燭の揺らめきとカイルの横顔が、まだ瞼の裏に滲んでいる。

テオは一度だけ振り返った。もう一度だけ、あの灯りを確かめるように。肩を並べるユーリもまた、唇をきゅっと結んでいた。


 家の影に紛れながら、二人は村の小径を進んだ。畑を抜け、森の入り口に立つ。そこにはまだ魔物の死骸が横たわっていた。二人は一瞬だけ立ち止まり、目を逸らす。

しばらく黙って歩き出したあと、ユーリが息を整えるように小さくこぼした。


「……僕と君は似てる」


森の暗がりへ足を踏み入れたところだった。


「……そうだね」


テオは否定しなかった。魔物が見えること、声が聞こえること。テオは自分の手のひらを見下ろす。自分の中にも、魔物が潜んでいるのだろうか。彼のようにやがて目覚めるのだろうか。

けれどユーリは微笑して首を横に振った。


「君も化け物だって意味じゃないよ」


テオは顔を上げた。


「僕も、自分がどこから来たのかわからない」


それだけ言うと、ユーリはふいに顔を伏せ、喉の奥で息を震わせた。ほんの一瞬、何かを振り払うように肩が強張る。テオがそっと肩に手を置くと、ユーリは少し寂しそうに微笑んだ。そして、何も言わずに走り出す。追いかけるテオの胸には、言葉の棘が静かに刺さっていた。


ランタンの灯りは森の深い闇に溶け、数歩先すら見えない。木の根や枝が行く手を阻み、息をするたび湿った土の匂いが喉に刺さった。魔物の気配から逃れて森を転がり下りたときよりも、砦ははるか遠くにあるように思えた。


 やがて、森を抜ける最後の斜面に差し掛かったとき、視界がふいに開けた。空が赤い。


「そんな……!」


眩しいほどの炎が砦を呑み込んでいた。轟音とともに火柱が立ち上り、崩れかけた石垣に黒い影が何十も蠢いている。テオの胸が鋭く締め付けられた。テオは炎から目を逸らすこともできなかった。だが、拳を握り直し、喉から言葉を絞り出す。


「僕は行くよ。君は?」


テオはユーリの顔を見た。見返すその眼差しに、迷いはなかった。


「本は——僕の寝床の、毛布の下に隠してある」


ユーリは言った。


「僕が道を開けるから、テオ、君は本を探して」


彼の瞳は澄んでいて、炎を映す光だけが揺れていた。


「でも」


テオはユーリの腕に浮かぶ鱗を見た。彼はその視線に気づき、苦笑する。


「元に戻れるかはわからない。でも、カイルを助けられないよりはましだ」


テオの胸がずきりと痛んだ。それは不安ではない。彼をひとりで行かせまいとする気持ちが込み上げたからだ。言いかけたテオの言葉を、ユーリがかすかに笑って遮った。


「戦うよ。僕も、“今の僕”を証明したい。君みたいに」


テオは、そんなふうに言われる自分を想像していなかった。なぜか胸に鈍い痛みを覚え、うまく返せなかった。


 二人は低木の陰を伝い、砦へと近づいていった。魔物たちは石垣の周囲を落ち着かない様子で徘徊している。ふとユーリが眉を寄せ、テオの耳元でささやいた。


「何かを恐れてるみたいだ。君も感じる?」


テオは頷いた。砦に近づくほど、肌の上を這うような痺れが強くなっていく。


「もっと大きな何か……強い魔物がいるのかもしれない。だから、気をつけて」


ユーリは声を落として言った。


「必ず二人で戻ろう」


テオはユーリの顔を見て、そっと返した。


 砦の石垣の陰に身を寄せた。燃え盛る炎が唸りを上げ、砦の一角が赤々と照らされている。崩れ落ちた屋根からはしきりに火の粉が舞い、夜の空に渦を巻いて昇っていった。どこかで木材が弾け、乾いた破裂音が響く。


「……倉が燃えてる。あの建物はもう駄目だね」


ユーリが息を潜めて呟く。

魔物たちは火を避けるように砦の東側へ偏っており、うろつきながらも近づこうとはしない。だが燃え盛る炎の向こう側、暗がりの奥には、ひときわ重い気配が蠢いていた。

テオの肌に、粟立つような寒気が走る。先ほど森で感じたものとは比べものにならない。胸の奥で脈が速く打ち始めた。


「テオ、行って」


囁くような声だったが、その声には迷いの欠片もなかった。

テオが顔を上げると、ユーリはすでに片手を石垣に添え、こちらとは反対側へと体を向けていた。薄闇の中で、その腕に淡い鱗光が滲んでいる。指先がわずかに爪のように尖って見えた。


「僕がこっちを引きつける。その通路なら、兵舎まで行ける」


呼び止める間もなかった。ユーリは石垣から身を翻し、魔物たちのいる東側へ駆け出した。ユーリが走るたび、足元に散った火の粉がぱちぱちと弾ける。魔物たちがその気配に気づき、一斉に低い唸りを上げた。


「こっちだ!」


炎が燃え盛る轟音にも負けない声が響いた。魔物たちが牙を剥き、ユーリへ殺到する。

テオは喉が焼けるような息を吐き、拳を握り締めた。胸の奥でひそかに疼く恐怖を押し込み、通路へ身を滑らせた。兵舎へ続く裏道は、炎の明かりが届かず真っ暗だ。足音を殺しながら、テオは駆けた。燃え盛る砦の轟音が背中を追ってくる。

その音の向こうに、もうひとつ、獣の吠え声と、ユーリの叫びが混じった。テオは振り返ることなく走った。

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