第一話 パリンプセスト ——優しさとの出会い
薄明かりの差し込む狭い物置。埃の匂いが鼻をくすぐる。
濡れ雑巾を手に棚を拭こうとしたとき、テオの視線はふと、埃の抜けた四角い跡――不在の痕跡に引き寄せられた。そこにあったものの輪郭だけが、いまもなお、存在の名残のように沈黙していた。
記憶を失い、森の中で倒れていた彼は、近くの砦――といっても見張り台と石垣があるだけの小さな砦――に駐屯していた青年カイルに拾われた。彼の勧めで、砦の敷地内にあるこの物置にひとまず身を寄せることになったのだ。
いまは、その埃まみれの空間をどうにか住める状態にしようと、カイルとその親友ユーリの手を借りて掃除をしている最中だった。
テオが手を止めていると、カイルが声を掛けた。
「どうした?」
テオは振り返る。人懐っこい光を宿した柔らかな瞳がこちらを見ていた。
カイルは、少し心配そうに眉を寄せていた。
「ここ、何か置いてあった?」
カイルがテオの隣に歩み寄る。
棚の上を覗き込み、怪訝そうに首を傾げた。
「……さあ? 箱か何かじゃないか?」
「なあ」と同意を求めるように、カイルは後ろで床の埃を掃いているユーリを振り返った。
戸口から差し込む光が、ユーリの明るい髪に淡く滲んだ。
その瞳が一瞬だけ揺れたように、テオには見えた。
*
肌に触れる地面の冷たさが、骨の奥までじわりと染み込んでくるようだった。瞼の裏には、うっすらと赤い光が滲んでいる。
目を開ければ、何か恐ろしいことが始まってしまいそうで、彼は背中を地面に預けたまま、呼吸を整えるようにそっと目を閉じていた。
金の髪が、陽を受けてかすかに煌めく。
まだ少年の面影を残す横顔に、意志の色が差す。瞼を開くと、翠の瞳にまぶしい光が飛び込んできた。太陽は、彼の真上にあった。
「おい、大丈夫か」
誰かの気配が駆け寄ってくる。草を踏みしめる音とともに、逆光の中に人影が浮かんだ。
ゆっくりと身体を起こすと、そのすぐ近くで膝をついた青年と目が合った。彼よりいくつか年上に見える、栗毛の青年だった。
「お! 起きたか! よかった……」
安堵したように笑いながら、青年は身をかがめ、少年の顔を覗き込んだ。
「目は見えるか? どこか痛むところは?」
少年が首を横に振ると、青年は再び柔らかく目を細め、「よかった」と呟いた。
頭の奥に靄がかかったように重く、青年の声もどこか遠くから聞こえるように感じられた。
「……あなたは……ここは……?」
掠れた声が喉から漏れる。問いかけというより、呟きに近かった。
「俺か? 俺はカイル。お前こそ、どこから来た?」
眉を寄せたカイルの口調には、心配が滲んでいた。
少年は、カイルの鳶色の瞳に映る自分の姿を見つめる。記憶を手繰ろうとした瞬間、頭の中に黒い霧が押し寄せ、目の奥に鋭い痛みが走る。そこに思い出したくない何かがあるのかさえ、彼にはわからなかった。
目をしばたきながら、小さくこぼす。
「……わからない」
「わからない? 名前も?」
少年は、ゆっくりと頷いた。
「おっと。それは困ったな……。立てるか? 手を貸すぞ」
カイルは立ち上がり、手を差し伸べた。
少年は戸惑いながらも、その手を取る。掴んだ手は、温かかった。立ち上がろうとすると、ぐらりと視界が揺れた。地面を踏む感覚が曖昧で、足元の草の感触すら頼りなかった。
「ゆっくりな。土の上に寝転がってたから、泥だらけだ。いつからここにいたのかも、わからないのか?」
少年の肩を支えながら、カイルが尋ねる。
先ほど彼が何かを思い出そうとして顔をしかめていたのを見ていたカイルは、思い直したように続ける。
「いや、無理に思い出そうとしなくていい」
彼はさっと少年の全身に目を走らせ、安堵したように笑った。
「昨日の晩は、魔物がやけに騒がしくてさ。襲われたのかと思ったけど……見たところ、怪我はなさそうだ。運がよかったな」
笑いかけるカイルの顔を見ながら、少年は眉を顰めた。
「……魔物?」
「ああ。忘れたのか?」
もし知らないなら、この辺の人間じゃないのかもしれない――カイルはそう呟き、続けて説明した。この森には、普通の動物とは違う、禍々しい怪物が棲んでいるのだと。
そして彼は歩き出しながら、明るい調子で話題を切り替えた。
「それにしても、名前がわからないのは不便だな。何か呼び名がほしいな」
「呼び名……」
「そう。なんでもいいぜ。食いもんでも、動物でも、なんでも」
少年は、森の奥――そのずっと先を見つめて、ぽつりと呟いた。
「……じゃあ、“テオ”」
不意に言葉を放った少年に、カイルは少し驚いたような顔をしながら、やがて口角を上げた。
「テオ、か。うん、いい名前だな。それじゃあ当面はそれでいこう。よろしくな、テオ」
カイルの笑顔に、テオはようやく、小さく微笑んだ。
森を抜ける道は、ぬかるみと低木の茂みで歩きにくかった。
カイルは何度も振り返っては、テオの歩幅に合わせて歩き、時折冗談を挟んで場を和ませた。
「ほら、もう見えてきた」
坂道を登ると、ぱっと視界が開ける。その先に現れたのは、灰色の石壁に囲まれた、小さな砦だった。
見張り台のような塔が一つ建ち、石の隙間からは雑草が伸びている。かすかに家畜の鳴き声が聞こえていた。
無言で砦を見上げるテオを気にしたのか、カイルが肩越しに苦笑まじりで言った。
「“忘却の砦”。このあたりの人間は、そう呼んでる」
“忘却”という言葉に、胸の奥がわずかに疼く。テオはそっと、カイルへと視線を移した。
「……どうして“忘却”なんて名前が?」
「戦の名残だよ」
カイルは短く答えたが、テオがなおも問いかけるように見つめているのに気づき、わずかに目を伏せて続けた。
「昔な、帝国が隣の国からここを奪ったんだ。それで、俺たちの祖父母の代が森を切り拓いて、村ごと移ってきた」
そう言って、カイルは再び歩き出し、坂を登りながら語り継ぐように言葉を続ける。
「でも小競り合いはずっと続いてるし、この十年で魔物まで出るようになった。国にも見放されてさ。今じゃ地図にすら載ってないって話だ」
その声は明るさを保っていたが、どこか乾いた皮肉が滲んでいた。
坂を登り切った先に、崩れかけた石垣に紛れるように石段が口を開けていた。その奥に、砦の門がひっそりと続いている。
門をくぐると、内側は思いのほか広く開けていた。カイルの視線を追って兵舎の方を見やると、その奥に洗濯物を干す人影があった。
「おーい、ユーリ!」
カイルが声を上げると、その人影が振り返る。
明るい髪の、大人しそうな少年だった。彼は少し戸惑いながらも、遠目にカイルとテオを見比べていた。




