炎帝の嘆き
かと思えば、炎帝はよろよろと肖像画に歩み寄り、滂沱の涙を流し始めて、
「ペネロペ……何故だ……何故私を置いていった……?其方の愛した庭園も湖も薔薇もそのままだ。なのに何故、其方だけがいないのだ……?世界は与えたのか?それとも奪ったのか?其方の葬儀の朝、氷吟の音色が私を嘲った。お前がかつて奪ったように、お前もまた全てを失うのだと。だが認めぬ。死如きに我らが引き裂かれて良いはずがない……!」
炎帝はペネロペの肖像画の前で膝をつき、噎び泣きながら語り掛ける。そしてまた突然激高し、叫び出した。
「そうだ、何故、何故だ!!何故彼女のいない世界がまだ動いているのだ!?彼女の面影は最早この世のどこにもないのか!?いやそんなはずはない!私は求めた、娶った、繰り返した。だが誰もが違う……!笑みが違う、歩き方が違う、息の仕方すら違う!世界が私を愚弄しているのだ!!」
耐えかねたように炎帝は杖を投げ捨てる。元の重量に腕力が勢いを乗せて、凄まじい勢いで叩きつけられた杖が盛大な音を立てて跳ねた。慌てて侍従の一人が回収し、点検するのが視界の端に見えた。
一方炎帝は肖像画を仰ぎ、両手を組む。そして思い出話を延々と語り始めた。
「あの日……薔薇の庭で風が吹いた。彼女は花を提げていた。彼女が花を選んだのではない、花が彼女を慕ったのだ。露が光を放っていた。彼女は言った。『あなた、また泣いていたの』と……あれほどの香は無かった……彼女の通った後は空気が和らぎ、剣先は鈍った。平和とはペネロペの足跡のことなのだ――」
こんな調子で、炎帝は完全に自分だけの世界に入ってしまい、周囲は大混乱に陥った。アンゼリカは動くに動けず、困った顔で立ち尽くしていた。先日のエリザヴェータの時もそうだが、アンゼリカは社交的な機微は分からないものの、「ここで動いたら死ぬ」という直感は働くのだ。
後方では役人や貴族たちが慌ただしく動いていた。書記官たちは必死の形相で、怒涛のような言葉を書き留めている。と思ったら、一人が泡を噴いて倒れた。大臣は完全に諦め顔で待機しつつ、折を見て辺りの者たちに指示を出す。侍従たちは炎帝の身振りによって乱れた装束をさっと直したり、涙を拭いたり、絶妙なタイミングで飲み物を捧げたりしていた。炎帝の所作を妨げず、また被害も蒙らない、まさに達人の身のこなしだった。
そんな周囲のことなど一切気に留めず、炎帝は号泣、怒号、回想、詩吟、哄笑、また号泣と繰り返す。アンゼリカの記憶が正しければきっかり五周して、そうこうする内にとっぷり日が暮れていた。
暗くなった回廊で炎帝はいよいよ泣き崩れ、留まるところを知らない世界への怨念と妻への哀惜を語った後、周囲にこう命じた。
「其方がいないだけで、世界は敵に変わるのだ。それでも構わぬ。青の霊廟は未だ成らぬ。絶えず改築し続けよ。私が生きている限りは……ペネロペの静穏を――帝国の栄耀を……」
そして最後に、逃げずに大人しく聞いていたアンゼリカの方を向いて、
「…………香を焚け。貴様のその嗅覚で、彼女の残り香を宿すものを探せ」
という謎の命令を残して終了した。当然のことながら、エリザヴェータから与えられた指令は果たせなかった。アンゼリカはしこたま叱られて、夜明け近くまで冬華殿の柱磨きをさせられることになった。




