いざ、遊覧船へ!
アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの婚約者。
ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。
※火、木、土、日の昼に更新します。読んでいただけたら嬉しいです!!
(2025年9月現在)
どうも、馬車が動かないようなのだ。泡を食った様子で御者が詫びに来る。
「申し訳ありません。馬を変えますので、車内でお待ち下さい」
「…………」
「……フローラスの人たちにも、こんなことがあるのですね」
「……ええ。時間に遅れそうですが、仕方ありません」
沈黙が流れた。アンゼリカはそわそわし始めた。やはり気になる。ユーリスに「ちょっと失礼しますね」と断って、馬車から降りた。
「……よしよし、よーし、どうしたんですか」
馬に近づき、のんびりと話しかけた。馬は何か訴えるように、首を振って前掻きする。それを見つめて頷いていたアンゼリカは、少ししてから口を開いた。
「首のところの革が、少しきつくて苦しいそうです。つけ直してもらえますか?」
アンゼリカは、きらびやかな頭絡をつけた顔の辺りを指し示した。
それはいかにも儀礼用といった感じの、金銀宝石をあしらったほぼ芸術品だ。
貴賓の馬車を引く時しか使用されないようなもので、人も馬も装着に不慣れだったのだろうと私見を伝えたところ、あっさり問題は解決した。
「申し訳ありません。このような不手際を……!」
「いえいえ。じゃあ、ローラ湖までお願いしますね」
恐縮する御者と、調子の戻った馬の両方に声を掛けて、馬車に戻ったアンゼリカは、目を瞬かせる。
結局馬車から出ずに待っていたユーリスは、そんな彼女に観察するような目を向けた。
「アンゼリカ姫は、馬とお親しいのですか?」
「親しい?いえ、特には」
「それにしては、随分心安い様子でしたが。あの馬と接したのは初めてでしょうに、驚きました。……もしや、動物がお好きなのですか?」
「はい、そうです」
動き出した馬車の中で、会話が始まる。ユーリスが興味を示したので、アンゼリカは山の友人たちの話を聞かせた。
話しながら、懐かしい気持ちになって微笑む。先ほどの馬のことを思い出すと、また優しい気持ちになった。
贅沢な名所巡りも面白かったが、やはりこういうのが肌に合っていると再認識した。肩肘張った席は少々疲れる。
「きらびやかな観光も面白いけど、やっぱりこういうのが性に合うというか……私、こんな風に動物と触れ合う方が好きです。ずっとそうしてきたので」
「…………」
それにユーリスは、何故か少し黙り込んだ。
ローラ湖は、王都郊外に広がる巨大な湖である。その広さ大きさは、国中どころか大陸を見回しても上から数えた方が早いほどだ。
アンゼリカは船と聞いて、故郷で使っていたようなものを想定していた。つまり漁船だ。アンゼリカにとって、船とはつまり漁船である。そう思い込んでいたのだが――
「アンゼリカ姫、どうぞお手を」
(……これ、何?)
呆気にとられる彼女の前にそびえ立つのは、それはそれは優美な、小さな宮殿のような遊覧船だった。
屋根にも手すりにも芸術的な彫り物がされて、内部も一流の調度で固められている。小規模ながら個室やホールまであるようだ。
澄んだ美しい水面の向こうには木々や花が見える。惜しむらくは、まだ蓮が咲いていないことだ。夏はさぞかし見事な景色だろうと思わせた。
アンゼリカたちは、明日の昼までここで過ごす。この船で一日過ごして、戻ってリハーサルをして、休憩して、そしたらもう本番なのだった。
手すりも柱も、ため息の出るような彫刻に彩られている。
(……すごい。水面が近い……)
引き込まれるように水面を覗き込む。きらきらと反射して揺れる光が、とても繊細だ。
聞きなれた潮騒はなく、ただ静謐な昼下がりだ。辺りに流れる香りも花や香が混じった、得も言われぬ芳しいものだった。
(おっかしいなー……船ってもっとこう、血なまぐさいもののはずじゃ……)
船に揺られるアンゼリカの脳内を占めるのは、故郷の漁船との落差だった。
投網を直すのはしょっちゅうだったし、手伝いで漁船に乗り込んだことだってある。血抜きや解体はお手の物だし、マグロと添い寝したこともある。
そんな彼女にとって、この船は別世界の代物だった。まあ今に始まったことではないが、やはり船となると何だかこう……
何とも言えない気分で黙り込むアンゼリカに、ユーリスが声を掛けた。
「……私はあまり船に乗ったことはありません。我が国は水よりも、氷の方が多いくらいですから」
「ああ、妖精氷河……」
「やはり、その名で知れ渡っているのですね」
アンゼリカの呟きにユーリスは微笑んで、水に手を入れる。そんな些細な仕草すら一幅の絵のようだった。




