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懐かしの味

 久しぶりの生魚は本当においしかった。堪能した。だからこそユーリスが謝ってきた時、何のことか分からなかった。


「報告を聞きましたが、今日は大変なことがあったそうですね。姉上が失礼を致しました…………私からお詫び申し上げます」

「え?ユーリス様、どうしたんですか?何も失礼なことなんてされていませんよ!むしろ嬉しかったです!」

 アンゼリカはぱたぱたと手を振ってから、うっとりとした目で笑った。


「私、生魚が大好きなんです!」


 ……あれは忘れもしない、九歳の秋。世界中を旅して回っている行商人から、雑談で話を聞いたことが発端だった。

 何でも、遠い遠い東の国では、魚を生で食べる食文化があるのだという。それを聞いて、アンゼリカは仰天した。

 魚を生で食べるなんて、普通ない。ありえない。九年間で培った常識と理性はそう訴えた。

 けれど、好奇心には抗えなかったのである。


 それからすぐ、アンゼリカは好機を得た。魚河岸で新鮮な魚を締めて、手早く解体していくのを、そわそわと見守り、ちょこまかと働いた。そして、こっそり取れたての一切れを海水で洗って口に運んだ。

 その時の衝撃は、今も忘れられない。

 鼻に抜ける磯の香り。仄かな海水の塩味と、噛むほど溶けだす旨味と脂。舌の上でとろけるような、それでいて弾力に富んだ食感。普段から頂いている魚の生命力を、とびきり純粋なまま凝縮させたような味わいだった。

 秋の魚が美味であることを差し引いても、本当に本当においしかった。火を通したのでは失われてしまう、唯一無二の食味だった。


(生魚があんなにおいしいだなんて……!)

 歴史的な発見をしてしまったという興奮で、その夜は寝付けなかったほどだ。そしてその翌朝一番に、アンゼリカは母の元に駆け込んで世紀の発見を報告した。


「……落ち着きなさい、アンゼリカ。何か行動を起こす時は、それが齎すかもしれない影響について考えるべきだ。常々言っているだろう?」

 母は逸るアンゼリカを穏やかに、けれどしっかりと諭した。


「魚は加熱して食べるべきとされているのは、何も故なきことではない。食中毒の危険があるためだ。事によっては死もあり得る。お前が人に軽々しく生食を勧めて、それで誰かが倒れたら責任が取れるのか?」

 生魚がいくら旨くても、鮮度と流通の問題から、食文化として定着させるのは難しいこと。事故が起きたら取り返しがつかないこと。危険性を懇々と説かれて、アンゼリカはしゅんとして謝った。


「良く分かりました。軽はずみなことをしてごめんなさい、お母さま……」

「分かったのならいい。そう、だからアンゼリカ――……」

 母はふっと、慈愛に満ちた目で微笑んだ。

「…………食べる時は自己責任でな?あと今度私にも食わせろ」

「お母さま……はいっ!」


 幼いアンゼリカは、大喜びで母に飛びついた。秋晴れの空の下のベンチで、母娘は秘密の共有者となり、仲良く笑い合ったのだった。


 以来こっそりと、人に隠れて嗜んできた。秘密の趣味であり、贅沢でもある。人に知られれば、奇異の目で見られることは分かっていた。

 だが、それでもアンゼリカは言いたい。声を大にして。

 私は生魚が好きだ、大好きだ――と。


「だからエリザヴェータ様が気を使って下さって、私、とっても嬉しかったです!」

「…………」

 一頻り語り終えたアンゼリカは両手を合わせ、満面の笑みで言った。それは至って自然で、純真で、無理や演技をしている様子は全くない。


「喜んで頂けて何よりですわ。皇家の方々は式典や宴で薄氷食を食べることがありますので。アンゼリカ殿下は柔軟なのですね」

「はい!魚だけでなく、獣肉を凍らせたものもあるのでしょう?それも楽しみです!」


 ソフィアは驚いた様子もなく、にこにこと嬉しそうだった。二人が笑いあうところを見ると、ユーリスはどう対応したものか分からなくなってくる。 


「………………」

 ただ、どこかで何かが動いた気がした。


 薄氷食を出すことは、元々は炎帝が支配を迫る常套手段だった。

 外国の使節がこれを出され、食べろと迫られているところは、彼も何度か見たことがある。

 彼らは一様に蒼褪めた顔だった。ある者は、何とか食べずに切り抜けようと口を回した。それで炎帝に睨まれ雪吹雪の中放り出された。ある者は無理矢理食べたが、その食べ方が不敬と言われ攻め込まれた。


 ユーリス自身、他国に出向した時に薄氷食は野蛮だと揶揄されたことが何度もある。そもそもヴァイス人ですら、「未開時代の食べ物」と忌避する者も多いほどだ。

 それを笑顔で讃えてくれる外国人がいるなど、思いもしなかった。


「……アンゼリカ姫」

「はい?」

 呼んだものの言葉は続かず、結局彼は「お疲れさまでした」と言って締めくくった。


※毎日、昼に更新します。

面白いと思っていただけたら、リアクション、ブクマをいただけたら嬉しいです!!


アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…

ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの夫。

ソフィア:ロスニア辺境伯の妻。ユーリスの従姉妹。アンゼリカに好意的。

皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。ユーリスの父。

カサンドラ:ヴァイス帝国の皇妃。

エリザヴェータ:ユーリスの姉。

リュドミラ:ユーリスの異母姉。なぜか喪服を着ている。

アレクサンドラ:ユーリスの異母姉。

ペネロペ:ヴァイス帝国の元皇妃(故人)。ユーリスとエリザベートの母。

ベイルリス:妖精族。樹氷の部族長の兄


ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。

ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。

フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。



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