山盛り刺繍
それから一夜が明けきらぬ間に、アンゼリカはまた冬華殿に赴いた。エリザヴェータの要求は全く緩まず、むしろ激化した。昨日で下調べは終えたら、今度は限界を見極めて攻めてくるわけである。
二段階目では、一段階目を維持したまま、更に追い打ちをかける。事あるごとに相手を呼びつけ、用を言いつける。「一日も早くこの皇城に慣れて頂きたいから」という名目で色々と雑用をさせ、僅かに残る休む間も精神的余裕も奪っていく。
翌朝のアンゼリカの前に立ちはだかったのは、丸テーブルから溢れんばかりの大量の布地だった。
「アンゼリカ姫。今日の要件だけど、ここにある布に刺繍をしてほしいの」
「分かりました!いつまでにすればいいでしょう?」
「明朝までに。必ず時間は守りなさい」
「この量は私一人ですと時間的に無理なので、お城の人にお手伝いをお願いしてもいいですか?」
「……好きになさい」
エリザヴェータは嘲笑しつつ認めた。今この皇城でアンゼリカに手を貸す人間など、数えるほどしかいないだろう。地位だけで下々が従うと思ったら大間違いだ。今のアンゼリカは、何の実績もない外国娘でしかなく、庇護も見返りも期待できない。出身も世界の裏側の弱小国で、後ろ盾はないも同然。助けて欲しいと声を上げて、それで何人が応えるものか。
ヴァイスで最もきらびやかなこの皇城は、気を抜けば失墜する伏魔殿なのだ。利益に繋がらない者は相手にされない。カサンドラを含む、かつての皇妃たちもそうだった。
昼には解放されたので、アンゼリカは布の山を抱えて輝月殿に戻り、早速作業を始めた。早い帰りに驚いていたソフィアも、事情を聴いてすぐに人を呼びに行ってくれた。
「……お呼びでしょうか、皇太子妃殿下」
「ソフィア様のお召で参りました」
「あ、助っ人の方ですか?ありがとうございます、早速ですがお願いします!」
助けに来てくれたのは、主にソフィアや侍女たちの家所縁の者、また伝手のある家の者たちだった。エリザヴェータの根回しもあって、腰を上げたのは十名前後といったところだった。しかし、専門のお針子も混じっていて、作業は彼女たちを中心に進められた。
「皇太子妃殿下、お上手ですね……畏れながら、手際が大変良くて驚きました」
裁縫が上手い者は沢山いるが、素早くできて尚且つ上手い者は珍しい。お針子からの賛辞に、アンゼリカは嬉しそうに胸を張った。
「ふふ、これでも地元にいた頃は内職色々してたんです!」
「内職?皇太子妃殿下は、王女様でいらしたはずでは……?」
「そこはまあ、色々ありまして……」
侍女や、彼女たちの伝手で来てくれたお針子たち。彼女たちと話し合いながら、作業を進めていった。ソフィアは作業には加わらなかったが、その分人を集めたり、お茶菓子で労ったりしてくれた。彼女たちからヴァイスのことや皇城の話を聞き、また聞かれたら母国の思い出話もする。最近は中々なかった、楽しい時間だった。
「申し訳ございません、皇太子妃殿下。最後までお手伝いできず……」
「いえいえ、ありがとうございました!このお礼はいづれさせて下さい。お気をつけて!」
助っ人たちを笑顔で見送ってから、アンゼリカは改めて気合を入れ直した。
「…………」
「……アンゼリカ殿下、そろそろお休みになった方が良いのでは……」
「いえ、まだ終わっていないですし!できるだけ進めてしまいたいですから!」
その答えに、ソフィアは顔を曇らせた。
「申し訳ございません、わたくしがお手伝いできれば……昔から針仕事はどうにも不得意で……」
「いえいえ、助けを呼んでくれただけで充分すぎるくらいです!私に付き合うことは無いので、もう休んで下さい!」
ユーリスは今夜、酒宴に呼ばれているとかで、遅くまで帰ってこないはずだった。ソフィアもそれ以上止めようとはせず、引き下がって静かに控えた。
「……」
「…………」
だが、終わらない。助っ人たちの尽力もあって、半分以上は片付いたが、それでも終わらない。
「あら?アンゼリカ殿下……?」
「…………」
いつの間にか、アンゼリカは寝入ってしまっていた。ソフィアはその様子を見つめるが、すぐに起きる様子はないのを確認する。危険な針などをアンゼリカから遠退けて、音を立てずに立ち上がった。
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アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの夫。
ソフィア:ロスニア辺境伯の妻。ユーリスの従姉妹。アンゼリカに好意的。
皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。ユーリスの父。
カサンドラ:ヴァイス帝国の皇妃。
エリザヴェータ:ユーリスの姉。
リュドミラ:ユーリスの異母姉。なぜか喪服を着ている。
アレクサンドラ:ユーリスの異母姉。
ペネロペ:ヴァイス帝国の元皇妃(故人)。ユーリスとエリザベートの母。
ベイルリス:妖精族。樹氷の部族長の兄
ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。




