アンゼリカ、走る
時間が経つほどにざわめきが広がり、彼らは顔を見合わせる。
「……どうしたことだろう」
「……何かあったのでは……」
ユーリスは眉を顰め、すぐに部屋に人を向かわせた。すると、とんでもないことが判明した。アンゼリカは昼から、部屋にいなかったというのだ。連れて来られた侍女は、蒼白な顔で一部始終を説明した。
「申し訳ございません……!フィアールカ様が窓から飛び立ってしまい、皇太子妃殿下もそれを追われて……」
侍女たちも追いかけたが、何分アンゼリカの足が速すぎた。すぐに見失って、そのまま撒かれてしまったらしい。
「そのままお部屋にお戻りにならなくて……!フィアールカ様も見つかりませんし、どこにいらっしゃるのかも分からず……」
気の毒な侍女は、今にも泣き出しそうだった。だが、それを気遣ってやる余裕はなかった。
「あ、アンゼリカ殿下はどちらに……」
ソフィアが心配そうに首を巡らせる。その周囲で、護衛たちもざわつき始めていた。
「…………」
嫌な予感に、ユーリスは顔を強張らせる。これまで不穏な事例は幾つもあったからだ。
皇城は伏魔殿だ。誘い出された者が密室に閉じ込められたり、ならず者を差し向けられたり――慣れない者が一人でうろついていいところではない。
炎帝は、アンゼリカを特別敵視している素振りはなかった。極夜の公務にしても、「貴様らに任せる」と言った。その気性からしても、一度言った言葉を翻して、裏から陰湿に手を回すとは考えにくい。
けれど、側近の誰かが「気を利かせる」ことは充分に考えられる。背筋が冷えた。
守りたいとは思っている。ずっと。
けれど、守り切るとは言えないし、約束も保証もできはしない。
アンゼリカを迎えたことで何が起きるか、どのような反応が起きるか、それは全くの未知数だった。力及ばなくとも仕方がないと、割り切らねばならないと。結婚が決まった時点で覚悟はしていた。
「とにかく、捜索を。場合によっては陛下にも連絡を入れて……」
「――……リ……ま……!」
不意に、冷え込んだ空気を声がつんざいた。
「ユーリス様ーーーー!!」
それに驚いて、ユーリスは振り返った。
視線の先では、庭の一角を分断する氷の道が伸びている。それは通路として、皇城の中心部へ繋がっていた。その向こうから、人影が近づいてくる。
「……アンゼリカ姫、」
「あ、良かった!会えました!遅れてしまって……!」
氷の上を全速力で駆けてきたアンゼリカは、地上に移ろうとして思い切りバランスを崩した。勢いがついていたため、一気に前方に倒れこむ。
「…………!」
ユーリスは咄嗟に進み出て、倒れ掛かった体を受け止めた。
下は地面なので、巻き添えを食うことはない。アンゼリカの頭が胸にどんとぶつかって、そして止まった。
「…………あ、アンゼリカ姫……」
どう声をかけたものか迷って、ユーリスは結局名前を呼んだ。
抱えられたアンゼリカは少しの間、肩で息をしていたが、やがてがばりと顔を上げた。
「ごめんなさい、やっぱり私離宮には行けません!!」
紅潮した顔のままで、そう宣言した。
ユーリスは呆気にとられた顔だったが、すぐに気を取り直す。
「アンゼリカ姫、よくご無事で……その恰好は一体……?」
アンゼリカはどうしたことか、下働きの着るような服を着ていた。活動的で汚れに強いが、高貴な身分の装いに相応しいとは言えない。それもそのはず、本物の雑役婦と取り替えたのだった。そう促したのは、エリザヴェータの命令である。
「あ、すみません!ちょっと色々ありまして……フィアールカの羽毟られちゃったら大変なので!」
「羽?毟る……?」
一体全体何があったのか。把握できずに当惑するユーリスに、アンゼリカは口早に説明した。
「ちょっとごたごたあって、エリザヴェータ様にご迷惑をかけてしまって……それで、約束の時間に来れませんでした!本当にごめんなさい……!」
「いえ、ご無事ならそれでいいのですが…………姉上と、何か……?」
「はい!ちょっと叱責されてしまって、ちょっと抜けられない雰囲気だったんですけど。思い切って言ってみたら、この服に着替えれば席を外しても良いと言ってもらえて!エリザヴェータ様はお優しい方ですね」
「お、お優しい……?」
ヴァイスの、というか大方の宮廷文化は、厳格な身分制度に貫かれている。尊い者が人前に出る時は、相応の装いをしなければいけない。服装は己の、そして家門の尊厳を象徴するものである。上は皇族から下は雑役まで、宮城に出入りするのなら誰しもがその自覚を持っている。
そんな宮廷で身分にそぐわない格好をさせるのは、ましてそれで往来を歩かせるのは、侮辱以外の何物でもない。
「はい!エリザヴェータ様はお優しいですね」
ところがアンゼリカは「動きやすい服を貸してもらった」くらいの認識で、エリザヴェータに感謝すらしていた。
「ですが叱責されたと、先ほど……とにかく、何があったのか教えてもらえませんか?」
「……そう、そうなんです!ちょっと、エリザヴェータ様を怒らせてしまいまして!」
改めてアンゼリカから一部始終を聞き出す内、ユーリスの顔からは血の気が引いていった。だが、アンゼリカはけろりとしたものだった。
「————」
「それで、フィアールカの羽で扇を新調したい、みたいなことを言われてしまって!」
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アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの夫。
ソフィア:ロスニア辺境伯の妻。ユーリスの従姉妹。アンゼリカに好意的。
皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。ユーリスの父。
カサンドラ:ヴァイス帝国の皇妃。
エリザヴェータ:ユーリスの姉。
リュドミラ:ユーリスの異母姉。なぜか喪服を着ている。
アレクサンドラ:ユーリスの異母姉。
ペネロペ:ヴァイス帝国の元皇妃(故人)。ユーリスとエリザベートの母。
ベイルリス:妖精族。樹氷の部族長の兄
ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。




