三皇女の日常・前
皇女エリザヴェータの朝は早い。夜の闇が薄れ出した頃、冬華殿の主寝室にて、彼女の意識は覚醒し始める。まだ薄暗い部屋に侍女たちがしずしずと入り、香を焚き、煩くない程度の音楽を奏で、本格的な覚醒へ促した。
「おはようございます、エリザヴェータ様」
「………………」
エリザヴェータはベッドの中から、侍女たちを無表情で睥睨した。いつものことなので、侍女たちは粛々と起床の手助けを行う。
薬湯で顔を洗い、美容水を広げながらマッサージしていく。並行して髪の手入れも進めていく。櫛で、一時間以上かけて梳らせる。黄金の髪は、ますます艶を増して美しく輝いた。
そして恭しく差し出されたのは、妖精の鱗粉を混ぜた白粉だ。
ヴァイスの白粉は、滅多に出回らない希少にして高価な化粧品である。大陸中の者が喉から手が出るほど欲し、流通すれば凄まじい高値がつく。鱗粉含有率が一割以下の最低品質のものでも、裕福な平民の年収ほどの値段はする。皇女たるエリザヴェータが使う白粉は、何と九割近く鱗粉が占めたものである。その価値たるや、値段をつけることすら難しい。
それをたっぷりと含ませ、白い顔に乗せ、丹念に化粧を仕上げる。それは殆ど、芸術品を完成させる作業と等しい。侍女たちは一様に緊張を浮かべ、それでも淀みない連携で動いていた。
エリザヴェータは、決して慈悲深い主人ではない。僅かでも不満や不足を感じさせたら、無事では済まない。
化粧を仕上げ、ドレスを着付け、髪を結いあげる。金色の髪は、緩やかに巻いて一部を結い上げ、残りを流してある。鮮やかな青い瞳は宝石のようで、傲然とした目線すら絵になる眩さだった。
そうして出来上がる麗姿は、それこそ、人間とは思われないほど美しい。差し出されたスノーク羽の扇を広げ、やっとエリザヴェータは口を開いた。その刺すような視線は、一人の侍女に向けられていた。
「お前、肌が荒れているわね。見苦しいわ。三日以内に戻らなければ、二度と宮廷に姿を見せるな」
身なりが整うと、順番待ちをしていた公達が入ってくる。彼らに囲まれたエリザヴェータは傲然と、そして退屈そうに微笑んだ。
霜雲殿に住まう皇女リュドミラは、毎日のように葬儀を開く。
その日も彼女は朝一番に鏡を見て、甲高い絶叫を響かせた。つんざくような声は壁や戸を突き破り、外にも響き渡ったが、行き来する務め人たちは毎度のことなので顔色も変えなかった。
「この鏡は私を裏切った!!私の片眉を食らおうとしたわ……!」
叫びながらリュドミラは拳を振り上げ、鏡を叩き割った。破片が手に刺さり、血を流す。素早く駆け寄って手当をした侍女たちに目もくれず、暫し肩で息をしていた皇女は、やがて陰鬱に呟いた。青白い頬に、はらはらと涙が降りかかる。
「……私の、私の失われた左眉を、弔わなければ……」
リュドミラはさめざめと泣きながら、そう宣言した。
かき集めた鏡の破片を天鵞絨張りの箱に入れて、その箱を棺に納める。それなりに大きな鏡だったので、棺は結構な大きさと重さになった。準備が整った頃、騎士たちがやって来た。
「おはようございます、皇女殿下」
――皇城にて皇族に使える近衛騎士。彼らは大半が貴族の出身であり、氷上移動、武術、学術、容姿、礼法、忠誠心、精神力と、あらゆる水準をクリアし、選び抜かれた者たちである。帝国軍においても生え抜きの人材たちである。そうであるのだが、彼らは現在、その名誉と能力に見合わない職務に従事していた。
制服を麗々しく着込んだ騎士たちは、棺を恭しく持ち運ぶ。静かに悲し気に、さりとて無機質過ぎず、陰鬱過ぎない絶妙な表情だ。この際、少しでも嫌気や不満を表に出せば、「この冷血漢」と罵られる。
誰に?もちろんリュドミラにである。
リュドミラは喪服姿である。ヴェールの陰に隠れたその眉は、肌と同化していた。元々薄い眉の部分に、白粉を塗りたくって隠しているのである。部分的な厚化粧を命じられ、何故かと質問した侍女に、リュドミラは啜り泣きながら答えた。
「これは芸術よ。失われた美を悼むために、おなじく美しいものを手向けるの」
そういうことなのである。霜雲殿では全ての物事が、リュドミラの命令通り行われる。
「うっ……うう……」
そして今、リュドミラは肩を震わせながら、弱弱しい足取りで棺の少し後を歩く。騎士たちはその歩調にも最大の注意を払い、棺を運ばなければならない。早すぎても遅すぎてもいけない。足並みがわずかでも乱れれば、「葬儀を乱された」と罵倒される。
ちなみに、侍女たちは哭き女をさせられる。棺の少し後を、弱弱しい足取りで付き従う。ありもしない謎の死を嘆き悲しみ、時には倒れ伏してみなければいけない。主人の悲嘆と最大限同調することが彼女たちの義務であった。
広く、塵一つない美しい中央廊下を、仰々しい葬列が練り歩く。これが霜雲殿の朝の習いであった。
回廊を一周してから、霜雲殿の外庭に出る。仰々しい葬儀を終えて、掘られた穴に棺が埋められた。少しずつ土を被せられ、棺は地中に埋もれていった。
その直前、リュドミラははらはらと涙を零しながら、墓に白薔薇の花弁を降り注いだ。
リュドミラはいつでもこうである。やたら白薔薇を持ち歩き、事あるごとに噎び泣きながら巻き散らす。しかし、夜にはそれを焼いてしまう。そしてできた薔薇の灰を使って入浴する。何の意味があるかは本人以外誰も知らない。
尚、埋められた穴は今日中に掘り返して棺も回収することになる。明日は明日の葬式があるからである。
「誰も私を愛していない。だからお葬式をするの。私を受け入れてくれるのは、死んだ者だけだわ……」
尚、失われた眉は夕方には戻っていた模様である。
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アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの夫。
ソフィア:ロスニア辺境伯の妻。ユーリスの従姉妹。アンゼリカに好意的。
皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。ユーリスの父。
カサンドラ:ヴァイス帝国の皇妃。
エリザヴェータ:ユーリスの姉。
リュドミラ:ユーリスの異母姉。なぜか喪服を着ている。
アレクサンドラ:ユーリスの異母姉。
ペネロペ:ヴァイス帝国の元皇妃(故人)。ユーリスとエリザベートの母。
ベイルリス:妖精族。樹氷の部族長の兄
ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。




