皇女アレクサンドラの帰還
日々を過ごすうち、皇女アレクサンドラの帰還予定日、そしてユーリスとの結婚式も近くに迫っていた。話によると、冬に入る前には挙式を終えたいとのことだった。アンゼリカもそれを見据えて、準備や勉強に追われていた。
時々あらぬ方から、皇帝らしき雄叫びや哄笑、謎の悲鳴や泣き叫ぶ声が聞こえてきたりもしたが、概ね平和に過ごしていた。そんなある日のことだ。
「あいた……っ!わ、こんなとこに木の根っこが」
気晴らしに散歩していたアンゼリカは、見えづらく根を張っていた木に足を取られ、転んだ。やってしまった。幸い、挫いてはいないようだ。
「これなら、医務室には行かなくていいかな……」
立ち上がろうとしたその瞬間だ。背後から、凄まじい絶叫が聞こえた。何かの断末魔のようなそれにぎょっとして振り返ると、
「その、その木は……!!幼い頃、私が泣きながら植えたのに……!!」
喪服姿の人影だった。全身を黒く打ち沈んだ色彩で覆い、顔にもヴェールを深く下ろしている。それでも、美しい人であると分かる。普通に話せば美しいだろう声は、取り乱した絶叫でひっくり返っていた。
「私の涙で水をやって育てたのよ!!何年も耐え難い嘆きを吸ってくれた……私の分身、いいえ子供なの!!それが足蹴にされたわ、なんてこと!!」
「え?えっ?何かすみません!泣き止んでください!ていうか、誰ですか!?」
「分からないわ!!どうしてそんな残酷なことができるのよ!?みんなみんな!!」
その時、向こうからユーリスがやってきた。
「何の騒ぎ——……ああ。落ち着きなさい、リュドミラ」
(りゅ、リュドミラ様!?この方が……!?)
エリザヴェータの妹であり、アレクサンドラの姉。三人の皇女の中間に位置する彼女は、ヴェールの下で底光りする目を向けてきた。
「でも、お兄様。お兄様はお分かりではないわ。このひとは私の記憶を崩壊させたの。彼女の一歩でどれだけの嘆きが手折られたと思うの?お葬式、お葬式をしないと……来て下さるわよね?」
「私は早急に、姫に伝えたい要件がある。後で、落ち着いてから話を聞かせてほしい。ここは譲ってくれ」
「……分かりましたわ……それでは、ご機嫌よう、お兄様……」
リュドミラはアンゼリカを一瞥もせず、ふらふらと去っていく。アンゼリカは呆然とそれを見送ってから、
「……ありがとうございました、ユーリス様。ところで、伝えたい要件というのは……?」
「……はい。先ほど知らせが届いたのですが、アレクサンドラが明朝戻るとのことです。つきましては姫に、迎えをお願いしたいと思いまして」
「……アレクサンドラ様が?以前、もう少しかかりそうだと仰っていませんでしたか?」
「どうも予定を繰り上げたようなのです。本日は重要な用事がありませんし、良ければ挨拶も兼ねて迎えをご一緒しませんか?……紹介しておきたい者もおりますし」
そう言ってきたユーリスに、アンゼリカは一も二もなく頷いた。
「分かりました!よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ。……それにしても、短期間でヴァイス語も上達なさいましたね」
「ソフィアさんが、親身に教えてくれますから。とても助かっています」
最近は、部屋でもできる限りヴァイス語で話すようにしていた。分からないことはその都度聞く。その日も頑張って話をしつつ、玄関で待機していたら、庭の向こうからそれがやってきた。
(あの中に、アレクサンドラ様が……)
雪車……というか、最早輿と呼んだ方が良いような壮麗な車が、ゆっくりと進んでくる。牽いているのは勿論モロゾロクだ。
悠然と進んできた車は、やがて玄関の前で停止した。辺りに沈黙が降りる。アンゼリカも目を見開いて、車の降り口を見つめていた。
しかし中にいるはずの貴人は、いつまで経っても降りてこない。段々と周囲の空気が緩み、ざわめき出した。やがて騎士の一人が、丁重に声を掛けてから車の扉を開く。
「い、いらっしゃいません……!アレクサンドラ殿下は、一体どこへ……」
その言葉通り、そこには誰もいなかった。ただ季節外れの白夜の雫が、一輪だけ中に落ちていた。
他には何も無かった。
静まり返った庭園で、花がそよそよと揺れていた。
ヴァイスは厳しい気候の国で、作物もあまり実らない。だが、一部地域は妖精の加護によって、本来育たない作物が育ち、草花が咲く、そんな場所がある。皇都もその一つだ。特に皇城の庭園は、四季折々の花が咲き乱れる国内最大の庭園との誉れ高い。それが皇城の特権の一つでもあった。
ここから見えるだけでも、様々な花が夏の風に優しく揺れていた。正統派の薔薇に百合に菊に……中には妖精の悪戯心か、剽軽な、面白おかしい形の謎の花もある。
夏の終わりに、妖精郷から帰還したアレクサンドラ皇女。彼女が乗っていたはずの車は、いつの間にか無人になっていた。
だが出迎えに来ていた者たちは、それにさほど動じなかった。ざわつきこそしたが、大騒ぎに発展したりはしなかったのだ。むしろどこか想定内のような顔をして、一人二人と解散していった。アンゼリカも訳が分からないながら、隣を見上げる。
「ユーリス様……戻りますか?」
「……いえ。これから約束している相手がいますので、もうしばらくお付き合い願えますか」
「それは勿論良いですけど……」
そう答えた時だ。ぶわっと、視界が青色に埋め尽くされた。空の色よりもずっと深い、真っ青な色彩。白っぽいものが多いヴァイスでは、猶更鮮烈だった。驚いて立ち尽くしたが、すぐに知った香りが漂っていることに気づく。これは薔薇の花だ。でも突然、どこからこんなにいっぺんに――
「待ちかねたよ、ユーリス」
深みのある美しい声が、上から響いてくる。呆気にとられたアンゼリカが顔を上げると、そこに薄紫色の髪をした妖精が佇んでいた。
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アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの夫。
ソフィア:ロスニア辺境伯の妻。ユーリスの従姉妹。アンゼリカに好意的。
皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。ユーリスの父。
カサンドラ:ヴァイス帝国の皇妃。
エリザヴェート:ユーリスの姉。
ペネロペ:ヴァイス帝国の元皇妃(故人)。ユーリスとエリザベートの母。
リュドミラ:ユーリスの異母姉。なぜか喪服を着ている。
アレクサンドラ:ユーリスの異母姉。
ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。




