彼女の事情
炎帝は勝ち続け、東進し続け、幾つもの穀倉地帯や戦利品を手に入れた。それによってヴァイスは豊かになったが、当然裏で失墜した者たちもいる。
そしてラエル王国も、六年前その火に呑み込まれた。破滅が迫り、最早これまでと悲観した王家に、炎帝が持ちかけたのが――
「私が、レダの皇帝の血を引くから……私はここでずっと踏みにじられてきたの。故郷の生贄として。ああ、ねえ、でも……やっと、優しい人に会えたかもしれないわ……ルイーゼと呼んで。私と話をして」
過呼吸気味のルイーゼは身を乗り出してくる。底光りする目が近くに迫ってきて、異様な迫力だった。アンゼリカは目を白黒させるしかない。
「ねえ。あなたはラスフィードの王女なのでしょう。もとは南の国にいたのに、こんな北の果てまで連れてこられたのよね。きっと帰りたいわよね?私だって帰りたいのよ。だから私たち、助け合わないと」
アンゼリカには半分以上意味が分からなかった。だが取り敢えず「助け合う」という部分は聞き取れたので、頷いておく。
「え、えっと……その、ええ、はい。そうですよね。ルイーゼ殿下にお助け頂ければ、嬉しいです」
「故郷を、愛していたの……故郷に帰りたい。でも、私を切り捨てたから憎い。でも、私が帰れば滅びるわ」
ぶつぶつと、聞き取れないほどの声で言葉を連ねる。アンゼリカはびっくりしながら耳を傾けた。そしてやっと聞こえてきたのは、絞り出したような怨嗟の声だった。
「エリザヴェータが、あの悪魔が……私から何もかも奪っていったのよ……!!」
それからアンゼリカは、度々カサンドラに呼び出されるようになった。それは彼女にとって負担ではなく、むしろ気持ちを切り替える切っ掛けになってくれた。
(故郷を離れた人間同士、色々話し合えることもあるし……)
部屋の調度などから、東方の文化などを解説してもらえるのも面白かった。
正直、一日休んでいいと言われても、どう過ごせばいいか分からない。アンゼリカとしては、忙しくてもやることがあった方が落ち着くのだ。故郷では色々手伝っていたから、その影響かもしれない。
その日、アンゼリカは隙間時間に、東の庭を散歩していた。
ここには凍結した小川があり、少しなら滑ることもできる。少しでも練習して、氷上移動に慣れておこうかと思ったのだ。
その河岸でアンゼリカは、見知った顔を見つけた。彼はたしか、ユーリスの従者の一人だ。
「あ!あなたはたしか……ルカさんですよね?」
「……皇太子妃殿下」
一頭のグレイサーを連れた、幼さの残る面差しの青年は、それに顔を強張らせた。
アンゼリカはそれに気づかず、ルカに近づいていく。あまり話をする機会はないので、できればこういう時に親しくなっておきたかった。
「早いですね。グレイサーに乗って、どこかへ行くんですか?」
「……皇城近辺の氷の点検に行くんです」
それでも話しかけると、答えてくれた。それに少し安堵する。彼らはユーリスに所属しているので、一緒にいる時間は多いのだが、関わる機会が少ない。
アンゼリカもできる限り声をかけたり、顔を覚えたり、距離を縮めようと尽力しているつもりだが……あまりはかばかしくなかった。
「氷獣は……特にグレイサーは、人間よりずっと耳が良いんです。氷の遥か下を流れる水音、些細なひび割れの音、遠方の雪崩の気配……人間には気づけないような氷の異変を、いち早く察知します。
氷を安全に維持するために、城の者はグレイサーを連れて定期的に巡回と確認をします。
彼らが危険だと合図したら、その辺りは通行止めにして、詳細に調査しなければいけません。事故が起きてからでは取り返しがつきませんので」
その話を聞いて、アンゼリカはしみじみ感嘆した。
「そうなんですか……素晴らしいことだと思います。妖精に任せきりにするのではなく、人間も注意を払っているのですね」
「当然です」
そっけなく答えたルカだが、数秒の後ばつが悪そうに顔を曇らせた。
「貴女は……悪い方では、ないのでしょう。あんな遠い国から来て下さって……ずっと笑顔で、この国の色んなことを楽しんで下さって。……それは分かっているんです」
ルカはぐっと唇を結び、目をそらした。
「ですがそれでも……貴女がこの皇城で生き延びられるとは、皇太子殿下に相応しい方だとは、僕には思えません」
「え、ええ……」
「皇太子殿下の足枷になる前に…………早く離宮にでも行って下さい」
困惑するアンゼリカを、ルカは殆ど睨みつけるように見据えて、
「よりによってカサンドラ皇妃に近づくなんて……何を考えているんだ……!!」
「え、ちょっと。それはどういう……」
追おうとしたものの、経験値の差の前にあえなく敗北を喫した。氷を味方につけて、すごいスピードで遠ざかっていく背中に追い縋るほどの技術はまだない。
「えー……」
アンゼリカは訳が分からず、暫し立ち尽くした。
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アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの夫。
ソフィア:ロスニア辺境伯の妻。ユーリスの従姉妹。アンゼリカに好意的。
皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。ユーリスの父。
カサンドラ:ヴァイス帝国の皇妃。
ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。




