皇妃カサンドラ
(何だろう?応接間から……?)
応接間は、居間と廊下の間にある間だ。侍女たちの控えの間とも繋がっている。そこから、聞き覚えのない声が聞こえてくる。
扉にそっと近寄り、装飾のように空いたのぞき穴から外を見る。
そこにいたのはソフィアと侍女数名と、もう一人。見慣れない顔の、しかし一部の隙もない身なりの侍女だった。彼女は深々と頭を下げ、言った。
「カサンドラ皇妃殿下がお呼びでございます。恐れ入りますが、皇太子妃殿下においでくださいますようお願い致します」
なんと、自分のことだった。アンゼリカは一瞬ぽかんとしてから、応対しているソフィアを見た。美貌の貴婦人は、微妙に迷ったような表情で佇んでいた。
一瞬だけ目が合う。
「いえ……ただ、その……本日は皇太子殿下がお留守でいらっしゃいますし、皇太子妃殿下もご休養の予定でして。異国暮らしを始めたばかりで、お疲れも溜まっておいでですし」
ソフィアはどこか困り顔だ。返答も歯切れが悪い。だがアンゼリカはそれに気づかず、あっさりと部屋を出て、「私は大丈夫ですよ」と声を掛けた。
「たしかに、直接のご挨拶がまだでしたね。喜んでお伺いしますとお伝え下さい」
案内されたカサンドラ皇妃の部屋は、他とかなり雰囲気が違っていた。アンゼリカに知識があれば、それが東方帝国の伝統的な趣であることが分かっただろう。
東方の調度や模様に埋め尽くされ、香が充満し、窓は閉じられて暗く影の淀んだ空間だった。
作法通り挨拶を述べたアンゼリカに、部屋の奥でゆらりと動く影が応じる。ぼんやりとした光と影のあわいに曖昧な輪郭が溶けている。聞こえる声も、くぐもった不思議な響きだった。そしてその声が名乗った名は、カサンドラではなかった。
「ようこそお越し下さいました……ラエル王国第二王女、ルイーゼと申します」
アンゼリカが挨拶に用いたヴァイス語ではなく、フロレ語だった。それを言うだけで消耗したように、肩を震わせる。アンゼリカはそれに瞠目したが、
「……それでは、ルイーゼ殿下。お目にかかれて嬉しいです。アンゼリカと申します。よろしくお願いします」
合わせてフロレ語に変え、再び挨拶し直した。だが返事はなく、陰気な部屋は沈黙に閉ざされる。アンゼリカは言葉を待ちながら、どうしたのだろうかと思っていた。
(侍女が呼びに来たんだから、何かしら要件があるはずだけど……)
「………………私は、カサンドラなんかではないのよ。そんな、そんな名前……」
そして、せきを切ったように溢れ出したのは、延々続く恨み節と怨恨だった。東方の言葉や難解な言い回しも多く、アンゼリカには半分以上分からなかったが、どうやらここにいることは彼女の本意ではないらしい。
「お父様は誑かされて正道を見失ってしまわれたの。それが破滅の始まりだったのよ。ラエルは小さいけれど歴史があって、それに相応しい伝統と誇りがあったのに。羽つきの混ざりものなんかではない、伝統ある東方帝国に忠誠を誓っていたのに……それがエリザヴェータのせいで、何もかも壊れていったわ。今でも覚えているの。美しかった後宮が腐り落ちていく姿を。お父様が堕落していって、判断を誤り続ける様を。ヴァイスの野望なんて、誰の目にも明らかなことだったのに……案の定ラエルは対処を間違えたせいで、他のどこよりも滅茶苦茶にされてしまった。国土はヴァイスの食料庫となり、民は一人残らず奴隷に堕した。炎帝に情なんて、そんなものあるはずがなかったのに……!!」
「……は、はい……?あの……?」
ルイーゼが吐き出したのは、誰にも言えない憤懣だった。初対面の人間にぶつけることではないが、それだけ彼女も限界に達していた。
東方帝国というのは、大雑把に言えば大陸の東側を指す言葉だ。そして狭義としては、東方の中核となるレダ帝国を表す。つまりここがヴァイス因縁の敵であるわけだが、直接戦力をぶつけ合ったことは殆ど無い。
距離がありすぎるからだ。互いの間には大量の山や河川、そして国家が横たわっている。ここを攻略しないことには、ヴァイスは東方に進出できない。
互いの中間に存在する国家群の舵を奪い合うこと。それがヴァイスと東方帝国の戦の実態であり、炎帝が何十年と続けてきた政策だ。
※毎日、昼に更新します。
面白いと思っていただけたら、リアクション、ブクマをいただけたら嬉しいです!!
アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの夫。
ソフィア:ロスニア辺境伯の妻。ユーリスの従姉妹。アンゼリカに好意的。
皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。ユーリスの父。
カサンドラ:ヴァイス帝国の皇妃。
ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。




