アンゼリカ、幼獣に陥落する
「……願いとは他でもありません。貴女様に、西の獣舎へとおいでいただきたいのです」
ヴァイス帝国では、氷上交通をどれだけ使いこなせるかが、財力や社会的地位に直結する。
商品や荷物を素早く大量に運搬するために、車や氷獣が必須であるからだ。雪車やモロゾロクの二三頭は、余程の貧乏か田舎住まいでもなければ、誰もが交通手段として所有している。
大商人や貴族となれば、何十頭、何百頭の世界だ。代々交配させて伝えてきた血統の氷獣を所有している。そして、その能力を最大限に引き出す人員もそろえている。ブリーダー、調教師、獣医などがこれに当たり、腕のいい者はそれに見合う恩恵と庇護を受ける。
そんな彼らの領域は、街の一部を占領して成立していることが多い。今回のジヴェリニツァの場合、西側に独立した区画があり、そこが氷獣たちの生活空間となっていた。
「春先にここの獣舎で生まれた、グレイサーの赤子たちがおりまして……良ければそちらにも、お心をかけては頂けませんか」
もちろん断る理由などあるはずもなく、アンゼリカは浮き浮きと獣舎に向かった。前を辺境伯や家臣が先導して案内する。もちろん、ユーリスとカテリナも一緒である。
道中で、搾りたての氷獣の乳も二種類ご馳走になった。どちらも同じような色合いだが、味は全然違っていた。
片方はまったりとコクの深い味わい、けれど不思議とくどさはない。片方は爽やかですっきりとした味わいだが、淡い甘みが舌に残る。
「どちらも、とてもおいしいです」
「どちらがどちらのものか、お分かりになりますか?」
「え、うーん……爽やかな方がグレイサー、濃厚な方がモロゾロク……でしょうか?」
「正解です」
そうしている内に到着し、出迎えの人員に敬礼されながら中に入った。
「どうぞ、むさくるしいところですが。……ほら、あれが赤子たちです」
現れたその幼獣たちは、まだ短い脚を懸命に動かして、一心に駆け寄ってくる。まだ犬くらいの大きさで、見ただけで抱きしめたくなるような愛らしさだった。目を輝かせるアンゼリカの横に、そっとあるものが差し出される。
「これは?」
「雪苺の霜蜜漬けです。氷獣の大好物ですよ。……あげてみて下さい」
壺に入った小さなそれは、かちかちに固まっている。結晶状の表面のそこかしこから、赤色が覗いている。それを掬い上げて差し出すと、そこに幼獣がわらわらと殺到した。無くなれば、また壺から掬い上げる。大きめの壺の中身は、ものの数分で無くなった。
「ご、ごめんなさい。もう無いみたいで……」
それでも、幼獣たちは離れない。まだ未練が残っているようだった。もう何も失くなった掌を、一匹はぺろぺろと名残惜しげに舐める。一匹は甘えるように鼻面を押し付ける。トドメに、心做しか潤んだ上目遣いでじっと見つめられた。
「…………!」
ずきゅんと、胸に矢が突き刺さる音がした。気づけば叫んでいた。
「すみません、もう一杯頂けませんか?」
「何今の、か、かわいい……もう一杯だけ!」
「あ、まだこの子が食べられてません!」
「すみませんが、もう一杯!」
「こ、これで終わりですから!」
無我夢中だった。そんなことを何度も繰り返して、
「……どうか、その辺りで。それ以上食べると、太って今後の生育に差し支えます」
結局ユーリスにそう制止されるまで、貢いでしまったのだった。
最後に近づいてきたのはスヴェータだった。若干気だるそうな顔をしている気がする。アンゼリカはちらりとユーリスを見る。ユーリスは幼獣たちとの距離が充分に開いてから、もう一壺雪苺を持ってこさせた。
「スヴェータさん、あの、良ければ……」
アンゼリカはそれをすくい、おずおずと差し出した。食べてもらえるだろうかと、少し緊張する。スヴェータは氷獣の中でも飛び抜けて賢くて、そしてユーリス以外に淡泊な印象がある。
「スヴェータ」
「…………るぅ」
——やれやれ。そんな感じで尻尾を揺らしたスヴェータは、アンゼリカが差し出した手をぺろりと舐め上げたのだった。アンゼリカはやや目を見開き、そして笑みを零した。
柔らかい日差しと、獣たちのぬくもりに包まれた、穏やかな夏の一日だった。
――それはアンゼリカが皇都に入る、五日前のことだった。




