黄昏の邂逅
アンゼリカは半日かけて、転びまくりながら練習した。より具体的には、早朝から夕暮れまでだ。一度は明るく晴れたモロジンスクの空は、再び朝とよく似た薄紅色に色づいていた。
「……まあ、そこそこ動けるようになりましたかね」
「始めて半日とは思えないほどですよ。ですが姫、そろそろ戻りましょう。舞踏会の予定もありますし」
「はい。ありがとうございました」
いい時間なので、湖畔に向かっていた時だ。ユーリスは少し離れたところを滑っていた。懲りもせず、考え事をしていたせいか、アンゼリカはまたすてんと転んだ。ひんやりした氷の上で、暫しぼうっとする。
(……不思議。氷って、すごく綺麗)
つるつると滑らかに、まるで磨き上げられた鏡のように光っている。この氷が美しいのは、何も妖精の力だけではない。人間が細心の注意を払って手入れし、日々磨くためだ。
経済活動の核となる氷路の管理権。皇帝から預かったそれを完璧に磨き上げて維持することは、貴族の威信であり誇りだ。
この時の湖面も例にもれず、まるで鏡のように美しく磨かれていた。だから、アンゼリカはそれに気づいた。
「え?」
氷の表面を見て——小さく、ささやかな声が漏れる。それに反応したのはスヴェータだけで、銀青の氷獣は小さく耳を震わせた。だが、それ以上構おうとはしなかった。
アンゼリカはそれを見る余裕もなく、ただ氷に目を凝らす。
「……へ……?」
氷の中に、何かがいる。確かに、人影のようなものが見える。まるで鏡像のように――アンゼリカのすぐ下の氷に、見知らぬ誰かが映っている。ゆらゆら揺れていたその影は、徐々に輪郭を定めて鮮明になっていった。
少年のような小柄な影だった。暗い色のフードを深く被って、アンゼリカと同じく座り込んでいる。
逆光で全体に薄く影が落ちていて、俯いていることもあってその顔は見えない。フードを首元で止める金具は、見たことのない独特の意匠だった。
アンゼリカはまだ知る由もないことだが、それは樹氷を象徴した紋章だった。妖精の部族を表すものだと、ヴァイス人ならすぐに分かる。
それでも、そんな知識がなくても、その少年の周りに細かな光を散らしながら広がる翅を見れば、正体はすぐに分かった。
これは、妖精だ。
顔がはっきりと見えもしないのに。自然に、率直に、本能的な部分で、「美しい」と感じた。震えて息もできなくなった。神々しいとは、こういうことを言うのだろうか。
少年が顔の前に、細い指を当てる。何気ない癖かもしれないし、口止めの仕草にも見えた。ゆっくりと顔を上げ、白っぽい長い髪が揺れ、口元がかすかに見えた。
「————」
氷が魔法にかかったように、淡い金に染まってきらきらと光っていた。砂金が舞い散るような、ほんの短い間のことだ。時間にすれば、数秒だっただろう。
さあっと、風が吹く。ひそやかな笑い声のように。
少年は微笑んだ。氷の向こうから、アンゼリカに小さく手を振った。それを見て、アンゼリカも何だか、無性に嬉しくなった。彼女も笑顔で手を振り返して、そして――
「…………あれ?」
気づけば、その姿は幻のように消えていた。氷に映るのは、座り込んだ自分の影だけだ。
白昼夢か何かだったのだろうか。首をひねって立ち上がり、アンゼリカはそれに気づいた。
手の中に何か、固く冷たいものがある。顔の前で手のひらを開くとそこには――
「——ええ……?」
全く覚えのない、紋章入りの銀の指輪がひとつ。薄暮の中で、まるで生まれたてのようにきらきらと光っていた。
「本日、氷上においでになったと伺いました。如何でございましたか?」
その日の舞踏会では、早速ソフィアに話しかけられた。今日一日、辺境伯夫妻とは別行動だったが、話はしっかり届いていたらしい。
「とても素晴らしい、楽しい体験でした。妖精は思っていたよりも、ずっと優しいのですね」
アンゼリカは満面の笑みで話した。柔らかな空気の中を、風を切って滑る楽しさ。氷の上で何とか立って、進むことができた時感じた興奮と高揚を。それにソフィアも嬉しそうににこにこ笑う。
「何度も転ぶ内に、段々動き方が分かってきて……歩いて進むというより、押し出して、流れる感じで滑るのですね」
「ええ、その通りですわ。楽しんで頂けたようで本当に嬉しいです」
「南の方では、外国人が滑ったら妖精に拒まれると噂されていましたが、全くの誤解でした。とても楽しくて、面白くて……こんな世界を与えてくれる妖精は、本当に優しいと思ったのです。そしたら、最後の方で一瞬、氷の向こうにそれらしき姿を見て……」
そして話題は、黄昏時のことに移った。妖精らしき影を見たこと、けれどすぐに光とともに消えてしまったこと、そして気づけばこの指輪を握っていたこと――その流れをかいつまんで話した。
「私も最初は、白昼夢かと思ったのですけれど……気づくと手の中から、こんなものが出てきて。流石妖精が守る国、不思議なこともあるものだと思って……」
アンゼリカは何気なく、手に乗せた銀の指輪を見せた。それを見てソフィアは、さっと顔色を変えた。
「これは――……皇太子殿下にご報告なさった方がよろしいでしょう。お呼びして参りますわ」




