氷上舞姫
パレードや挨拶回りを挟んでの北上は順調に進んでいった。ファルゼでの最後の日、街を挙げた歓迎の締めとしてそれは持ち掛けられた。
「今宵はソフィアによる氷上舞をご覧に入れましょう」
「氷上舞……?」
辺境伯の聞きなれぬ言葉に、アンゼリカは首を傾げた。覚えのない言葉に、一体何をするのかと戸惑う。そんなアンゼリカに、ユーリスが説明をしてくれた。
「氷の上で行う舞ですよ。ヴァイスには、そういう舞踊文化があるのです。ソフィアの舞を見るのは私も久しぶりですから、楽しみです」
「そう仰って頂ければ、妻も喜ぶでしょう。ただでさえ張り切っておりましたし」
そして、夜になってから導かれたのは、庭園の端にある小さな湖だった。その水面は完全に凍結していて、どうやら妖精氷河につながっているようだ。
その周りを囲うように、灯り付きの柵が設けられ、更にそれを囲うように席が用意されていた。客席の円は、アンゼリカから見て対岸の辺りで一部だけ切れている。
月明かりが眩しいほどで、氷は自ら光を放っているように見える。暗いはずなのにそこだけ明るくて、幻想的に夜に浮かんでいた。それだけで驚くほど美しかったのだが、本番はそこからだった。
合図のような笛の音が響いた。その数秒後、対岸からお揃いの衣装を着て、花輪を被った少女たちが滑り出してくる。二人の少女はまず、アンゼリカたちの席に向かって、ちょこんと裾をつまんで一礼した。それとほぼ同時に、明るい音楽が流れだす。
音楽に乗って、二人一組の少女は手をつないで舞った。花輪を使って、春の香りを振り撒くように氷上を滑る。時に互いの花輪を交換する。
姿勢も動きも左右対称で、二人でぴたりと揃えている。体格や顔も似ているし、姉妹だろうか。花に戯れる蝶のように仲睦まじく舞うさまは、見ているだけで笑みが零れる愛らしさだった。
最後に、少女たちは近づいていく。螺旋を描いて中央に来てから、互いの花輪を外した。そのまま氷上で、向き合うように跪く。そして、花輪を氷の上に置いて、彼女たちは祈るように頭を垂れた。
音楽が転調する。再び立ち上がった少女たちが滑ってきて、花輪をユーリスとアンゼリカに差し出した。戸惑って瞬きするアンゼリカに、辺境伯が促す声をかける。
「どうぞ、お受け取りを」
「……はい。ありがとう」
小さく、覚えたてのヴァイス語で伝えると、少女は嬉しそうに笑った。同じく隣で受け取ったユーリスも、微笑んで花を膝の上に置く。透明な硝子細工のような花と、小ぶりの白薔薇で飾った、清らかで愛らしい花冠だった。
「素晴らしかったですね」
「……本番はこれからですよ」
そして、少女たちと入れ替わるように滑り出してきた人を見て、アンゼリカは驚きで声を上げそうになった。
出てきたのはソフィアだった。金の光沢を持った、薄青のドレスを着ている。その手に持った細い棒の先端からは、長いリボンが流れている。半透明で、青みを帯びた銀色の光沢をしていた。ソフィアがそれを胸に抱えて、アンゼリカたちに一礼するとともに、新たな曲が流れだした。
ソフィアは衣装を翻して滑りながら、リボンを回し始めた。それは意志を持った生き物のように空へと伸びていく。やがて、重力で降りてくる。とても軽い素材なのだろう、それはそれはゆったりと。まるで月が零したため息のように、氷の上でたゆたい流れる。
音楽は、非常にゆったりとしたものだ。それに合わせた舞も、同じく緩やかなものだった。とても静かに、螺旋を描くように滑る。同じ位置でゆっくりと、何秒もかけて一回転する。その周りをリボンが揺蕩い、流れる。それを繰り返す。先端が氷に触れそうになった瞬間、足首を返してリボンを持ち上げる。
それは雲のような、煙のような、或いは水の中にいるかのような動きだった。その動きは遅いのに、どこにも崩れたところや乱れがない。極めてたおやかに、優雅に、時の流れを緩めたように舞い続ける。
妖精の手助けを得ているのではないか、氷上では重力が、時間の流れが変わっているのではないか——観客にそう思わせることこそが、名手の証だ。
リボンを使うものに限らず、動きが遅ければ遅いほど、或いは早ければ早いほど、舞の難易度は跳ね上がる。絡ませることも、氷につけることも許されない。
ソフィアは身の丈以上の長さのそれを、手足のように完全に統御していた。氷の上を流れ文様を描くリボンは、一寸の乱れも危なげもなく、ただ美しい。
次第に音楽が早まっていく。それに合わせ、舞も早くなっていく。リボンの動きも激しくなる。はらはらして、一瞬も目を離せなかった。
最後は殆ど竜巻のようだった。どう動いているのかも良く見えない。その周りでリボンは激しく渦を巻き、乱れ飛ぶような勢いで旋回する。
最後に鳴り響いた一音とともに、やっとその嵐は止まった。ソフィアは動きを止め、リボンを手元に巻き取る。銀色が、螺旋を描いて持ち主のもとへ帰っていく。その残像が残っているように、氷上には数秒間、霧の名残が漂っていた。
アンゼリカはすっかりその世界に呑まれ、舞が終わった時には涙すら浮かべていた。妖精に愛され、氷に守られた国。その意味が改めて、そして本当に分かった気がした。
氷獣の演習を見た時とも違う。感激で胸が一杯になり、はち切れそうな高揚感が、つい体を動かした。それは、フローラスの歌劇座で感じたものと良く似ていた。アンゼリカはほぼ無意識に、拍手を送りそうになって――
「拍手はしないで下さい」
ユーリスに止められた。ひやりとした手が遮るように割り込み、そのまま抑え込まれる。その温度に頭が冷え、目を見開いた。低く静かな声で、言葉は続く。
「ヴァイスには、拍手という文化がないのです。特に氷上舞においては――優れた舞手には無言の賛美を。それが最上の礼です」
そんな二人を、密かに観察する者も多かった。アンゼリカが何をしようとしたか悟られたのだろう。ひそひそした声や、くすくす笑いが聞こえてくる。先程まで歓迎や値踏みを浮かべていた視線が、侮蔑と好奇に取って代わる。和やかだった空気がゆっくりと冷えていく。
「…………?」
アンゼリカは、その細かい変化までは分からない。ただ、場の何かが変わったのを感じ、取り分け隣の夫が少し張り詰めているのに気づき、首を傾げた。




