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アンゼリカの日常(一例)

 数日の間は、何事もなく過ぎた。予定も順調に進んでおり、数日でファルゼを出立することになっていた。


 それからは、ファルゼから北へ伸びる氷路に乗って、いくつかの街を経由して、皇都に向かうことになる。


 アンゼリカが寝起きする部屋は、城館でも特に格調高い部屋だ。伯爵以上の貴族の家には、最上階にこういう部屋が必ずあって、皇家の者を迎える時にしか開かれないのだとか。


「おはようございます、皇太子妃殿下」


 朝になると侍女たちがぞろぞろと入ってくる。先頭に立って挨拶を述べるのはソフィアだ。その中で顔を洗い、髪を梳かされながら一日の予定を聞くのが最近の習慣だった。


「では、髪の毛をおつけしますね」

「はい、お願いします」


 髪の束が結いつけられ、途端に髪が腰を越すほどの長さになる。慣れてきたが、それを見るたび不思議な気持ちになる。


(なんか、わさわさして変な感じ)


 アンゼリカはそもそも、髪を伸ばしたことがない。髪など、あまり長くても邪魔だからだ。肩くらいで切りそろえるようにしていたし、今も地毛の長さは鎖骨辺りまでしかない。なのでとりあえず、付け毛で格好をつけている。


 明るい茶色の髪が継ぎ足され、結われていく。鏡の中の自分が瞬く。大分面変わりしたが、ヘーゼルの瞳の色だけは前と同じだった。


 故郷にいた頃は日焼けしていた肌も、来る日も来る日も美容液とか美白クリームとかを塗りこまれ、随分と白くなった。手入れの甲斐あって、髪や爪もつやつやだ。


「これからは伸ばした方が良いでしょうね。防寒のためにも。それに、ヴァイスの装飾品や髪型は、多くが長い髪を前提としていますので。お嫌でなければですけれど……」

「はあ、まあ、分かりました……」


 嫌なわけではない。ないが、あまりそういう発想をしたことがなかったので、戸惑っているというのが本当だ。その日もソフィアや、侍女たちの手を借りて身なりを整えた。


 この数日でアンゼリカは、辺境伯家やファルゼの面々とそれなりに打ち解けることに成功していた。

 並行してソフィアを師に、ヴァイス語の学習も進めていた。学習時間だというのに、アンゼリカは彼女に見とれてしまうこともしばしばであった。


「……ヴァイスには美しい方が多いというのは本当なのですね。特に、辺境伯夫人ほどお美しい方は初めて見ました」


 授業の合間に、そう言ったことがある。それにソフィアは「まあ……」と息を零すように笑った。少女のような仕草ではにかんで、


「勿体ないお言葉です。ですが、お恥ずかしいですわ。皇城ではわたくしなど、物の数にも入りませんもの。皇太子妃殿下の御心も、すぐに塗り替えられてしまいましょう」


「そんなことはありません。このファルゼでのことは、きっと忘れません。異国にやって来て、皆様に歓迎して頂けて、とても嬉しかったんです」


「それは、皇太子妃殿下がわたくしたちを先入観なく好んで下さるからですわ。皇城から来た方たちも、領民も、勿論わたくしも喜んでいます」


「……その、皇太子妃殿下って、毎回言いにくくありませんか?私、本当にアンゼリカで良いんですけど……」


「畏れ多いことです。けじめは必要ですわ」

「でも……落ち着かなくて」


 それにソフィアは頬に手を当て、困り顔で考え込んだ。しばらく押し問答をした後、結局「ソフィアさん」「アンゼリカ殿下」と呼び合うことで落ち着いた。


 ヴァイス人は元々閉鎖的な国民性で、余所者に簡単に心を開かない節がある。これまでの、ヴァイスを軽んじ拒絶した使節や貴族や妃たちの先例もある。他国人、特に南方の人間を「お高くとまっている」と忌避する者も少なくなかった。


 だがアンゼリカは、紹介されたヴァイス人やヴァイスの文化を物怖じせず、嫌悪も恐れもなく受け入れた。その態度によって、身構えていたヴァイス人の心情も解れつつあった。

 従者の視線も、当初の冷ややかなものから変化しつつあったが、アンゼリカは変化自体に気づかずのんびり楽しんでいる。


「……それでは、予定まで少し時間もあるので、勉強を進めましょうか」

「はい、今日もよろしくお願いします」


 アンゼリカはヴァイス語でそう言い、続いて侍女たちにも礼を言う。ソフィアの教えもあり、「こんにちは」「ありがとう」といった簡単な言葉は、もういくつか使えるようになっていた。


「いきなり、複雑な語彙や会話を駆使する必要はありませんわ。ただ一言だけでも、殿下にお声がけ頂ければ、わたくしたちはどんなに嬉しいことでしょう」


 ソフィアは莞爾としてそう言う。そのそばにはユーリスもいた。時間の隙間に、様子を見に来てくれたのだった。


「お城にいる方の殆どはフロレ語を話せますから、焦る必要はありませんけれど……やはり、話せた方が打ち解けやすいのは、間違いありませんわ。特に皇家の方々とは、ヴァイス語でやり取りできた方が良いでしょう」


 優しく笑うソフィアに、アンゼリカも聞き返す。少し年上の、美しく優しい教師に、彼女は数日ですっかり馴染んでいた。


「皇家の方々と言いますと……皇帝陛下ですか?」


「勿論陛下もですけれど、皇女殿下方もおられますわ。現在の皇城には、エリザヴェータ様、リュドミラ様、アレクサンドラ様の三名がいらっしゃいます」


 ソフィアはにこにこ笑って言ったが、場の空気にはわずかな緊張が走った。そこまでは黙って見ていたのに、不意に口を挟んでくる。


「……エリザヴェータ姉上は私と同じく、ペネロペ皇后を母としています。妹のリュドミラとアレクサンドラは、母の死後に陛下が娶った皇妃の子です。その辺りでも、入り組んだ事情がありまして……」

「はあ……」


 アンゼリカは、良く分かっていない表情で曖昧に頷く。だが、現皇家の状況はかなり複雑かつ深刻だ。主に皇帝のせいである。


 ヴァルラス三世。武勲赫々たる皇帝、敵味方に畏れられる苛烈な指揮官であり、十四回も結婚を繰り返した男性。


 現皇妃カサンドラを除いた十三人の妻たちは、その多くが悲劇的な末路を辿っている。自殺したり、幽閉されたり、出家させられたり、処刑された者すらいる。


 彼女たちとの間に儲けた子すら、無事に育った者は少なく、皇城に残った者は更に少ない。皇帝がそのような暴走を始めた要因の一つは、ペネロペ皇后の死であろうと誰もが囁く。


 ペネロペ皇后は、ヴァイス皇帝ヴァルラス三世の最初の、最愛の妻であったとされる。彼女を失って以来度々、狂気に駆り立てられたような振る舞いをするようになった――そう言われている。


 アンゼリカも勿論、こういう事情を耳に挟む機会はあったのだが、すっかり忘れていて思い出せなかった。そのため事態を正しく把握せず、のほほんとした顔つきのままで質問を重ねる。


「それで、その皇女様たちは、具体的にどういった御方なのでしょうか?」

「……………………会えば分かります」


 ユーリスはたっぷりと沈黙してから、不気味なほど抑揚のない声でそう答えた。



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