フローラスへの花嫁道中
アンゼリカ ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ラスフィード王国 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
ヴァイス帝国 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
フローラス 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。
大陸の南側は、連盟によって結びついた小規模な国家群である。これを南方連合と呼ぶ。
今はそれほど力はないが、かつて存在した大帝国の流れを継ぐ地であり、その由緒と文化は誰もが一目置いている。
中でもフローラスは、特に古い歴史と格式を持つ宗主国であった。比べてラスフィードは、漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
つまりフローラスから命令されれば、ラスフィードには固辞する術がないのだった。たとえそれが、北の暴君との縁談を押し付けられるようなことであってもだ。
「アンゼリカ姫、そろそろ到着致します」
「……ありがとうございます」
アンゼリカがフローラスの首都ファルツに入ったのは、それから何だかんだを経た半年後のことだった。
フローラスは春の盛りを迎えようとしていた。あちこちから花の香が漂い、一年で最も美しい季節だ。
アンゼリカは間もなくここで結婚する。ヴァイスの君主、歴代随一の暴君と謳われる男、敵味方問わず逆らう者を尽く滅ぼし、最大版図を実現した皇帝ヴァルラス三世――通称炎帝と挙式することになっている。
「お母さまに直接挨拶と、後をお願いできなかったのは心残りだけど……」
帰りを待つ時間がなく、急遽出立させられたので、どうしようもなかった。あの後アンゼリカは押し切られてしまい、都で採寸だの儀式だのを経て盛大に送り出された。
半年前、突如縁談を持ちかけた父を前に、アンゼリカも最初は渋った。住み慣れた故郷を離れたくはないし、縁談相手だというヴァイスの君主は暴虐非道の帝王と名高い。広大な大陸の北端と南端という遠さでも、その悪名は聞こえてくるほどだ。しかし――
「頼む頼む頼む!お前しかいないんだよ!!この父を助けると思って!!幸いあの女に似てお前は顔は良い!!そして中身もあの女より幾分まともだ!お前ならやれるったらやれる、むしろお前しかいない自信を持て!!!」
「……自信以前に、やる気が出るかどうかの問題ではないですか?」
「そう言わずに!人生で一度は行ってみたい名所ナンバーワン、皆の憧れファリアール大聖堂で結婚式挙げられるぞ!」
「興味ないです」
「毎日ドレスと宝石に囲まれて過ごせるぞ!!ご馳走だって食べ放題だ!」
「どうでもいいです」
「そう言わずに頼むよおおおおおおおお!!!」
身も世もなく泣き喚いて懇願する父を前にしては、それも長く続かなかった。
何でも、花嫁を出さないとラスフィードが大変なことになるらしい。
宗主国フローラスのお達しとあれば、末端で零細の属国に逆らえるはずもなかった。
そうなるまでの成り行きについては、話が難解で良く分からなかった。だがまあ、何だかんだこの年まで好きにさせてもらったのだし、これも一種の親孝行と割り切ることにした。
段々と事情が分かってきたのは出発してからだが、その時にはもう引き返せる状況でもなく……
(それにしても、馬車移動がこんなにも疲れるものだとは……)
ここまでの旅で、一番堪えたのはそこだった。海国育ちのため船は慣れているのだが、思えば馬車に乗ったことはほとんどない。
船の揺れとも違う微妙な振動、一日の大半を狭い空間に押し込められる閉塞感。海辺育ちのアンゼリカには、これだけでも結構参った。
大陸の片隅たるラスフィードを出て、ひたすら北上して北上して北へ北へと向かい続け、そしてやっとフローラスの国境を超えたのが半月前である。
ここまでにも色々あった。会う人ごとに色々言われ、何とも言えない目を向けられ。事務的な関所の役人も、歓待してくれた領主も、財宝を持たせて送り出してくれた王族たちも、一様に同じような顔をした。
「ああ……貴女がヴァイスにお輿入れされる、アンゼリカ姫……」
「貴女の偉大なるご献身は、歴史に刻まれることでしょう」
「……くれぐれも、お気をつけて」
ヴァイス帝国。遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
その国について、アンゼリカはおぼろげな知識しかない。だから、どうしてそういう反応をされるのか良く分かっていなかった。生来呑気な性質なもので、ことの重大さもあまり分かっていなかった。
それでも北に向かえば向かうほど、肌に刺す空気は冷たくなっていく。あまり考えず安請け合いしてしまったアンゼリカだが、こうなると流石に不安になってくる。
馬車のままファルツに入ったアンゼリカには、大勢の視線が向けられた。その多くは、多分に同情が含まれていた。
哀れな姫よと、南方連合を守るためにヴァイスに捧げられる生贄だと、アンゼリカはそう思われているのだ。アンゼリカも、細かい機微は分からないながら、何やらただ事でない空気を感じて視線をうろつかせるのだった。