モロゾロクの雪車移動
ボオオオ……と耳慣れぬ、空気に揺蕩う喇叭か汽笛のような音が響く。
どうやらこれが、モロゾロクの鳴き声らしい。群れが一斉に、複数回鳴き交わし、その余韻が大気に反響する中、ゆっくりと移動が始まった。
モロゾロクが氷の上へ踏み出し、前へと体を押し出す。抵抗はなく、雪車はするりと滑り出した。更にまた踏み出す。徐々に速度が上がっていく。するすると勢いがついてきた頃、御者が再び合図を出した。
すると、モロゾロクは一斉に脚を畳んで、腹ばいの姿勢になった。そのまま停止したように動かない。にも関わらず、彼らも雪車も進み続ける。
「……すごい。どうなっているのでしょう」
独り言のように漏れたそれに、ユーリスが説明してくれた。
「……氷の上は摩擦が極めて少なく、小さな力で重量物を引くことができます。だからこそ加速しすぎないよう、ある程度は慣性で進むのです。動き始めだけ前に向かい、勢いに乗ったらああして腹を使って滑走するのが、氷獣の基本的な動き方です」
「ではああした動き方は、モロゾロクだけの特性ではないのですね?」
「ええ。まあ、空を飛ぶものはその限りではありませんが……他の氷獣も、すぐにお見せする機会があるでしょう」
そうしている内に、徐々に速度が緩まってきた。そうすると、また御者が合図を出してモロゾロクを立たせて、前方へ押し出させる。
モロゾロクを操って、前へ進ませる。勢いがつきすぎる前に、伏せさせて滑走させる。雪車の移動は、この繰り返しだった。
車は振動もなく、静かに滑って進んでいく。前でモロゾロクが、何度も立ちすわりを繰り返す。御者は巧みに氷を読み、モロゾロクの動きと統率を調整する。アンゼリカは目を輝かせてそれを見守った。
雪車は滑走を活かしているだけあって、移動速度や効率が凄かった。障害物や悪路がないこともあるだろう。見る見るうちに景色が流れていく。
「すごいですね、これ……普通の馬車の倍以上早いのではないですか?」
「ええ、間違いなく。ヴァイスではこの氷を使った交通が、生活と物流の要となっています」
「これならば、遠くにたくさんの物資を運ぶことができますね!」
「その通りです」
南方連合を思い出す。そこでは、舗装道路と馬車こそが文明の象徴と誇り、ヴァイスの氷上移動を未開の地の風習などと蔑む者も少なくなかった。
けれどいざ乗ってみると、それが間違いだと分かる。野蛮で未開だなんてとんでもない。むしろ下手な道路よりも効率よく、発展しているではないか。しみじみ感じ入るアンゼリカの横で、ユーリスは地図を取り出した。
「御覧下さい。これが妖精氷河、そして先ほど我々がついた河岸がこの辺りです。ここからこう進み、今日中にこのファゼルに入ります」
地図で詳しく説明を聞き、アンゼリカは改めて感嘆の息をついた。
「これだけの距離、馬車であったら三日以上はかかるでしょうに……」
ユーリスはそれに「そうでしょうね」と呟き、アンゼリカの顔を深くのぞき込むようにした。碧眼はヴァイスの空気に触れたからか、若干青を増して見える。
「馬も良い。しかし、氷の上では動けません。ヴァイスでは強い脚よりも、冷気に耐える体表、氷上を滑る腹、雪をかき分ける爪に価値がある。氷雪に馴染まぬものは、人も獣も生きておれません」
時折下される合図や号令以外は、驚くほど静かだった。肌寒く、清らかなほどに静まり返った空気。常に振動や物音があった馬車とは全然違っていた。氷の上を、一行はただ静かに進んでいく。
「……我々は妖精氷河に、妖精に守られています。ヴァイスはそういう国なのです」
言葉通り、日没前に雪車はファルゼに到着した。アンゼリカたちはロスニア辺境伯の城館に招かれ、滞在することになっていた。
中州に着くと、石造りの降り場に迎えられた。大地の色も見える。流石に雪はもう溶けているようだ。馬車から降りたアンゼリカたちを真っ先に出迎えたのは、辺境伯でも近衛でもなく、大きな銀青の毛並みだった。
「スヴェータ。来ていたのか」
先導していたユーリスがそう声をかけた。それを出迎える狼のような獣は尾を揺らし、嬉しそうに体を寄せる。緩やかにしっぽが揺れていた。それを受け入れながら、ユーリスは目線をアンゼリカに向け、簡単に解説した。
「これは氷狼といって……このスヴェータは、私の騎獣です」
「氷狼?」
「グレイサーとも呼ばれます。ヴァイスの、特に軍でよく活躍する氷獣です」
初めて見たグレイサーは、息をのむような美しい毛並みだった。もう一目見るだけでつやつやもふもふが伝わってくる。皇太子の騎獣であることを差し引いても、極めて美しく立派な獣だった。
大きさは馬と同じか、少し大きいくらいだろうか。青みがかった白銀の毛皮を靡かせ、威風堂々たる佇まいだ。がっしりした四本の脚には、大きな半透明の爪が備わっていた。
「……スヴェータ。この方は私の妃となる方だ。覚えておくように。アンゼリカ姫、良ければ挨拶をお願いできますか?」
「ええ、勿論です。……初めまして。スヴェータさん。アンゼリカです」
挨拶したアンゼリカを、静かな青い目で見つめ返す。あまり目を合わせないようにして、手のひらを差し出すと、スヴェータはそこに鼻先を押し当てた。匂いを嗅ぎ、少しだけ耳を立て、小さく喉で鳴く。
ルウウゥ……と、喉を震わすような鳴き声だった。狼のようであり、猫のようでもある。不思議な響きだった。
固唾をのんで一連を見守っていた護衛たちは、その流れに取り敢えず安堵の息をついた。そんな緊張を知る由もないアンゼリカは、改めて顔を上げて周りを見回す。
気づけばアンゼリカたちを中心に、貴族や近衛兵たち、そして知らない動物たちがぐるりと取り囲んでいた。彼らの姿を見つめて、アンゼリカは目を丸くした。




