国境を超えて氷の国へ
その夜、懐かしい夢を見た。
「……お母さま、妖精の話聞かせて」
幼い頃、そう何度も母にねだった。アンゼリカにとって、ヴァイスという国はお伽噺の舞台だった。遠く離れたその場所を、わくわくと胸弾ませて何度も思い描いた。
雪還り。金色の虹。霧の歌。白夜と極夜。不思議と神秘が色濃く残る北の最果て。妖精が息づく秘境。憧れたお伽噺の世界。
嘘か本当か、過去か今か分からない色んな話を、寝物語に良く聞かされた。いつか行ってみたいと、そう思っていたのは本当だ。
けれど、計算外のこともあった。最初にぶつかった壁は寒さである。夏でこの気温とか、正直信じられない。冬を思うと早くも不安になる。
「ヴァイスの皇城は狂気が支配する魔境です。踏み入る覚悟がないのなら、私は貴女を城に入れるわけにはいかない。国のためにも、貴女のためにも」
あの言葉の真意も、夫となった相手のことも、良く分からないままだ。
予想外のことは、他にもたくさんあるだろう。これからどうなるのか——期待と不安が様々に錯綜して、どきどきと緊張する気分で、アンゼリカは目を覚ました。
「……朝、か」
アンゼリカは起き上がった。部屋の様子を見るに、ユーリスは昨夜、この部屋に来なかったようだ。
そういうことは、これまでにも度々あった。それが何故なのか、ユーリスが何を考えているのかはよく分からないが、気楽であることは確かだった。
懐かしい夢を見た。そう思いながら、ちらりと窓辺を見た。まだ薄暗いので、侍女たちが来るまでには少しかかりそうだった。呼び鈴を使えばすぐに誰か来るだろうが……特に頼みたい用事もない。
「……そういえば」
昔母が指輪をしていたことがあった。珍しいと思って聞いたら、妖精が作ったものだと言って見せてくれたのだった。
妖精が作ったものなど高級品だから、それはそれは驚いて、祖父母の家の家宝かと聞いた。そしたら、贈り物だと言われた。
思い返せば母は、普通よりも妖精に対して好意的だった。
「あの指輪、今どこにあるんだろうなあ……」
きっと今も、母とともにどこかを旅しているのだろう。懐かしい気持ちに浸りながら、日が出るのを見守った。今日は晴れそうだと思った。
思った通り、空は突き抜けそうなほど青く晴れた。よく晴れて、空気も澄んで、お陰で景色がよく見える。旅立ち日和、入国日和と言えた。
フォールスに見送られて、いよいよ馬車は国境を越えた。そのまま半日もしない内に、それは見えてきた。
「ユーリス様、もしかしてあれが……」
「はい。妖精氷河ですよ」
真昼の光の中で見たそれは、太陽の光を弾き返すかのように、絢爛なほど壮麗に輝いていた。まるで、自然が磨き上げた鏡のようだった。
フローラスの、人間が創り上げた華麗さとは違う。大自然の美だ。妖精の恩寵だ。
ここは妖精の国なのだと――どのような言葉よりも雄弁に、その景色は語っていた。
「…………すごい」
アンゼリカの口からは、思わずそんな言葉が零れ出した。
百聞は一見に如かずとはこのことだ。これまでに彼女が予想していたよりも、それははるかに美しく、荘厳で、圧倒的な眺めだった。
ヴァイス人は他所から、一種の羨望と軽蔑を込めて、「妖精に愛された民」と呼ばれる。彼らは誰よりも妖精と近しく、古代の契約によってその力と恩恵を受け続けている。妖精と人間が断絶した現代でも、その恩寵は続いている。
その最たるものが国境を守る大河、妖精氷河である。この川は妖精の加護によって一年中凍結し、侵略者を阻むヴァイスの砦として機能してきた。過去の戦争でヴァイスに攻め入ろうとした軍隊、その殆どがここで殲滅された。
妖精氷河はヴァイス人と妖精の契約、共存共栄を象徴するものだ。あまりに広く、長いこの川には、中洲が幾つか存在する。その一つに、辺境の都市ファゼルがある。城塞を中心としたこの街は、領主であり将軍たるロスニア辺境伯が守っているのだという。
「お待ちしておりました。この度の御婚礼、心よりお慶び申し上げます」
その辺境伯本人が、家臣を引き連れて河岸で待機していた。アンゼリカは注目される中、ユーリスに続いて挨拶を述べた。
「早速ですが、ここで車を乗り換えます。あの馬車ですと、氷の上では進めないので。……辺境伯、準備はしてきてくれたか」
ユーリスの言葉に、辺境伯も深々と礼をして応じた。思っていたより若く、これまた綺麗な青年である。
「無論でございます。お二人とも、どうぞこちらの雪車へお移り下さい」
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アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの婚約者。
皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。ユーリスの父。
ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。




