遊覧船の夜明け前
その夜は、舞踏会が開催された。
アンゼリカも注目の中、不慣れなステップを披露する羽目になったが、ユーリスが上手だったので恥をかかずに済んだ。
そこではフローラス名産の金蜜酒が振る舞われて、船にはほろ酔い気分が満ちた。心做しか、貴族たちの表情も和らいでいる気がした。
けれど、ユーリスは変わらず端然としたもので、一部の隙もない佇まいを通していた。
そんな彼は、貴族たちからは懐疑と揶揄の的になっていた。ユーリスはそれほどフローラスとの交流は多くないため、未知数の存在ではある。しかし、炎帝の息子なのだ。どれほど優雅で非の打ち所がない振る舞いでも、そのレッテルがつきまとって、「暴君の血」「蛮族の国の世継ぎ」「二面性があるのでは」などと囁く声は絶えなかった。
アンゼリカは、少し複雑だった。というのも、一緒にいればいるほど、婚約者のことが分からなくなるのだ。万事如才なく、丁寧で、安定している。苦手なものもなく、全て上品で嫌味がない。
しかも予期していた炎帝その人ではなく、年の近い美男子だ。申し分ない相手だと思うべきなのかもしれない。けれど、何かを隠されているような、そんな気がしてならない。どこがどうとは言えないのだが、何かが引っかかるのだ。
(ここまで聞いたのは、全部噂。所詮は噂だけど……)
そのまま遊覧船で一晩を明かして、まだ夜が明けない時間にアンゼリカはふっと目覚めた。
二度寝する気分でもなくて、上着をかけて外に出る。昨夜の騒ぎが嘘のように、船は静まり返っていた。辺りに満ちるのは水の香りだ。
甲板から見える湖面はまだ薄暗いが、朝日が昇れば鏡のように輝くだろう。これから陸に戻って、更に一夜明ければ、いよいよ式当日である。
「…………」
そこから動かず、客室に戻ることもせず、アンゼリカはぼうっとしていた。まだ暗く、周囲は見えづらいが、水面が揺れているのが分かる。
心が静まって、空っぽになっていき、この静けさが永遠に続きそうな気がした、そんな時だった。
「そこに誰かいるのですか?」
ユーリスが、後ろからそう言ってきた。手には明かりを持っている。暗がりに慣れていた目には眩しくて、アンゼリカは顔を反らした。
「……アンゼリカ姫?」
「っあ、その、おはようございます……?」
何を言えば良いのか分からず、ただ笑った。ユーリスは少し驚いた様子だったが、すぐに穏やかに微笑する。手に持った明かりを下げて、少し後方に引き、アンゼリカに非礼を詫びた。
「失礼しました、姫」
「いいえ、そんなことは……」
それきり言葉が繋がらず、互いに黙り込む。どうしたものかと思っている内に、少しずつ空が白んできた。少しすれば、陸地も見えてくるだろう。
「……もうじき陸に戻りますね」
「は、はい……」
ユーリスは暫し、一つの方向を見つめていた。答えてから、アンゼリカは気づく。彼が見ているのは湖岸のある方角だ。
「……私たちの婚姻は国家間で決められたこと。貴女は勿論、私にもそれを変える力はありません。大陸の秩序のために、どうしても、誰かがヴァイスに嫁がなければならないのです」
何を言いたいのだろう。アンゼリカは首を傾げたが、黙って言葉を聞き届けた。
「しかし、訪れる不幸は少ないに越したことはない。そのために今聞いておきたい。姫がこの結婚において、最も不安に思うことは何ですか?」
「不安に思うこと…………」
アンゼリカは考えて、言った。
「それは、はい、あります」
「お聞かせ下さい。できる限り寄り添いたいと思いますので」
アンゼリカは数秒逡巡したが、相手の真剣さに根負けした。
「……ヴァイスって、とてつもなく、寒いのですよね……」
「……?」
ユーリスは、虚を突かれたように目を見開いた。それに気づかず、更に続ける。
「ご存知でしょうが、私の故郷はとても南の、温暖な地域でして……正直春のフローラスも、結構肌寒いなと感じます。ヴァイスはそれより更に、ずっと寒いのでしょう?そこに私が行ったら、凍って動けなくなってしまうのではないかと、そこが心配で……」
「ふ」
小さく笑い声が聞こえた。アンゼリカは瞠目した。ユーリスが、笑っていた。
笑顔自体は何度も見たことがある。けれどその時は、今までとは違う顔だった。秀麗な顔を緩めて、おかしそうに、少し気が抜けたように笑っている。
息を呑む。まじまじと見惚れる。初めて、飾らない感情を見せてもらった気がした。
「あ、の……」
「ああ、申し訳ない。馬鹿にしたわけではないんです」
でもそれも、ほんの束の間のことだった。すっと笑みが消えて、更に問いかけられる。
「貴女は……私の父を、恐ろしいとは思わないのですか?ここまで、散々脅かされてきたでしょうに」
「たしかに、色々と耳に入りますが……私は実際にお会いしたことはありませんし。噂を囁く人も、広める人も、多くはご本人を知っているわけでは無いでしょう?」
「会ったこともない相手を、伝聞のみで判ずるのは早計だと?」
「まあ、そんな感じです」
その答えをどう思ったのか、「そうですか」と唇に笑みを刷いたまま、ユーリスは思案する。ややあって、
「それでは、息子である私が断言しましょう。飛び交う噂に虚偽はほとんどありません。実態は、噂より更に酷いと言って良いほどです」
流れ出した声は、それまでのものと明らかに違っていた。物柔らかさの中に、冴え渡った怜悧さがある。アンゼリカはただ息を呑んだ。
これがこの人の本質なのだと、直感的に感じた。
「ヴァイスの皇城は狂気が支配する魔境です。踏み入る覚悟がないのなら、私は貴女を城に入れるわけにはいかない。国のためにも、貴女のためにも」
アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの婚約者。
皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。ユーリスの父。
ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。
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(2025年9月28日現在)




