表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/59

遊覧船の夜明け前

 その夜は、舞踏会が開催された。

 アンゼリカも注目の中、不慣れなステップを披露する羽目になったが、ユーリスが上手だったので恥をかかずに済んだ。


 そこではフローラス名産の金蜜酒が振る舞われて、船にはほろ酔い気分が満ちた。心做しか、貴族たちの表情も和らいでいる気がした。


 けれど、ユーリスは変わらず端然としたもので、一部の隙もない佇まいを通していた。


 そんな彼は、貴族たちからは懐疑と揶揄の的になっていた。ユーリスはそれほどフローラスとの交流は多くないため、未知数の存在ではある。しかし、炎帝の息子なのだ。どれほど優雅で非の打ち所がない振る舞いでも、そのレッテルがつきまとって、「暴君の血」「蛮族の国の世継ぎ」「二面性があるのでは」などと囁く声は絶えなかった。


 アンゼリカは、少し複雑だった。というのも、一緒にいればいるほど、婚約者のことが分からなくなるのだ。万事如才なく、丁寧で、安定している。苦手なものもなく、全て上品で嫌味がない。


 しかも予期していた炎帝その人ではなく、年の近い美男子だ。申し分ない相手だと思うべきなのかもしれない。けれど、何かを隠されているような、そんな気がしてならない。どこがどうとは言えないのだが、何かが引っかかるのだ。


(ここまで聞いたのは、全部噂。所詮は噂だけど……)


 そのまま遊覧船で一晩を明かして、まだ夜が明けない時間にアンゼリカはふっと目覚めた。


 二度寝する気分でもなくて、上着をかけて外に出る。昨夜の騒ぎが嘘のように、船は静まり返っていた。辺りに満ちるのは水の香りだ。


 甲板から見える湖面はまだ薄暗いが、朝日が昇れば鏡のように輝くだろう。これから陸に戻って、更に一夜明ければ、いよいよ式当日である。


「…………」


 そこから動かず、客室に戻ることもせず、アンゼリカはぼうっとしていた。まだ暗く、周囲は見えづらいが、水面が揺れているのが分かる。


 心が静まって、空っぽになっていき、この静けさが永遠に続きそうな気がした、そんな時だった。


「そこに誰かいるのですか?」


 ユーリスが、後ろからそう言ってきた。手には明かりを持っている。暗がりに慣れていた目には眩しくて、アンゼリカは顔を反らした。


「……アンゼリカ姫?」

「っあ、その、おはようございます……?」


 何を言えば良いのか分からず、ただ笑った。ユーリスは少し驚いた様子だったが、すぐに穏やかに微笑する。手に持った明かりを下げて、少し後方に引き、アンゼリカに非礼を詫びた。


「失礼しました、姫」

「いいえ、そんなことは……」


 それきり言葉が繋がらず、互いに黙り込む。どうしたものかと思っている内に、少しずつ空が白んできた。少しすれば、陸地も見えてくるだろう。


「……もうじき陸に戻りますね」

「は、はい……」


 ユーリスは暫し、一つの方向を見つめていた。答えてから、アンゼリカは気づく。彼が見ているのは湖岸のある方角だ。


「……私たちの婚姻は国家間で決められたこと。貴女は勿論、私にもそれを変える力はありません。大陸の秩序のために、どうしても、誰かがヴァイスに嫁がなければならないのです」


 何を言いたいのだろう。アンゼリカは首を傾げたが、黙って言葉を聞き届けた。


「しかし、訪れる不幸は少ないに越したことはない。そのために今聞いておきたい。姫がこの結婚において、最も不安に思うことは何ですか?」


「不安に思うこと…………」


 アンゼリカは考えて、言った。


「それは、はい、あります」

「お聞かせ下さい。できる限り寄り添いたいと思いますので」


 アンゼリカは数秒逡巡したが、相手の真剣さに根負けした。


「……ヴァイスって、とてつもなく、寒いのですよね……」

「……?」


 ユーリスは、虚を突かれたように目を見開いた。それに気づかず、更に続ける。


「ご存知でしょうが、私の故郷はとても南の、温暖な地域でして……正直春のフローラスも、結構肌寒いなと感じます。ヴァイスはそれより更に、ずっと寒いのでしょう?そこに私が行ったら、凍って動けなくなってしまうのではないかと、そこが心配で……」


「ふ」


 小さく笑い声が聞こえた。アンゼリカは瞠目した。ユーリスが、笑っていた。


 笑顔自体は何度も見たことがある。けれどその時は、今までとは違う顔だった。秀麗な顔を緩めて、おかしそうに、少し気が抜けたように笑っている。


 息を呑む。まじまじと見惚れる。初めて、飾らない感情を見せてもらった気がした。


「あ、の……」

「ああ、申し訳ない。馬鹿にしたわけではないんです」


 でもそれも、ほんの束の間のことだった。すっと笑みが消えて、更に問いかけられる。


「貴女は……私の父を、恐ろしいとは思わないのですか?ここまで、散々脅かされてきたでしょうに」


「たしかに、色々と耳に入りますが……私は実際にお会いしたことはありませんし。噂を囁く人も、広める人も、多くはご本人を知っているわけでは無いでしょう?」


「会ったこともない相手を、伝聞のみで判ずるのは早計だと?」

「まあ、そんな感じです」


 その答えをどう思ったのか、「そうですか」と唇に笑みを刷いたまま、ユーリスは思案する。ややあって、


「それでは、息子である私が断言しましょう。飛び交う噂に虚偽はほとんどありません。実態は、噂より更に酷いと言って良いほどです」


 流れ出した声は、それまでのものと明らかに違っていた。物柔らかさの中に、冴え渡った怜悧さがある。アンゼリカはただ息を呑んだ。


 これがこの人の本質なのだと、直感的に感じた。


「ヴァイスの皇城は狂気が支配する魔境です。踏み入る覚悟がないのなら、私は貴女を城に入れるわけにはいかない。国のためにも、貴女のためにも」



アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…

ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの婚約者。

皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。ユーリスの父。

ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。

ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。

フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。


※毎日、昼に更新します。読んでいただけたら嬉しいです!!

(2025年9月28日現在)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ