不穏のきざし
(うーーーん……)
かれこれ、遊覧船が出てから小一時間経過した。
アンゼリカは、早速見知らぬ貴族に絡まれていた。
船内を歩いていたら、「姫は、鱗粉をご存知ですか?」といきなり話しかけられたのだ。
「いや私も聞いたことがあるだけで、見たこともないのですが。しかしどうにも胡散臭いというのか……確かに有名なものですけれど、一体どれほどの効能があるものか。私等は懐疑的に見てしまうのですよ」
「はあ……そうですか……」
「しかしながら、妻がそれはもう煩いのです。しかし鱗粉は途方もなく高価である上、流通すらも希少。……ですがアンゼリカ姫ならば、鱗粉に接する機会にも格段に恵まれることでしょうなあ」
フローラスにつくまでにも、時々こんな言葉をかけられることがあった。妖精のことを聞かれ、鱗粉とか加護とか仄めかして、意味ありげな目配せをされる。
何度かこういうことを繰り返して、アンゼリカは一つの結論を得るに至った。
つまり彼らは妖精オタクだろう――と。きっと妖精が好きすぎて、その思いが深すぎるが故に、妖精関連のものが欲しくて欲しくてたまらないのだ。
美しく遊び好きで、気ままな妖精たち。人間世界から失われて久しいという、不思議な力も使えるのだとか。
しかも彼らが生み出す品々は、人間の技術では作れないものも多いらしい。
話に聞いただけでも実に神秘的な、浪漫の塊のような生き物である。お近づきになりたい気持ちは正直すごく分かる。
(ヴァイス皇家の方たちは年二回は必ず会えるって聞いたけど、それは特例だし……)
「ですからどうでしょう。我が国に鱗粉が融通されるよう、そちらから計らっては頂けないでしょうか。無論、ご出身国たるラスフィードに対して心ばかりのお礼をするつもりです」
現代では、北の大地の果てにある妖精郷にしか、妖精は生息しないとされる。
つまりそこが、ヴァイス帝国領の一部だ。詳しい位置は秘匿され、地図にも載っていないのだとか。他国の、しかも立場ある身では、実際に会いに行くのは至難の業だ。
それでもどうしても思慕は断ち切れない。むしろ困難であるからこそ燃え上がる。憧れの相手を思うよすがに、何か関連するものを持っておきたいのだろう。とても分かる。
「ええと、ですね……」
アンゼリカはこういう時のために、決まり文句を用意していた。これまでにも何人かに言ってきたそれをまた告げようと口を開いたその時――
「アンゼリカ姫」
後ろから、声がかけられた。穏やかで、美しい、何度も聞いたユーリスの声だ。けれど何故か、背中が寒くなった。
「何をなさっておいでですか?」
貴族は一瞬眉を顰めて、すぐに鉄壁のような愛想笑いを貼り付けた。そしてアンゼリカに口を開く間を与えず、
「実は、姫に道を聞かれておりまして。ですがユーリス殿下がいらしたなら、私がご案内するまでもない。邪魔者は速やかに退散するとしましょう」
「……え?いや、その……」
けれど、言い終わる前に相手はそそくさと去っていった。後にはユーリスとアンゼリカが残った。アンゼリカはそろそろと振り返り、後ろにいる皇太子を仰ぎ見る。
「行きましょうか」
そう微笑む顔は、いつもと同じのはずなのに、なんだか妙に恐ろしかった。
しかし断るわけにもいかず、アンゼリカは差し出された手を取ったのだった。そして歩き出し、数分が経つのだが――
(なんだか……何だろう……視線が、突き刺さるような……)
隣を行くユーリスの妙な威圧感に気圧され、俯きがちに歩を進めた。辿り着いた先は休憩室で、周囲に人気はなかった。
「アンゼリカ姫」
「は、はい。何でしょうか……?」
「身構えないで下さい。少し質問をしたいだけです。こちらにご着席を」
いや、そんな前置きをされること自体が結構怖いのだが……アンゼリカはおずおずと頷き、言われるがまま猫足の椅子に座った。
アンゼリカ:ラスフィード王国の姫。割と能天気。北のヴァイス帝国に嫁入りすることに…
ユーリス: ヴァイス帝国の皇太子。アンゼリカの婚約者。
皇帝ヴァルラス三世: ヴァイス帝国の宗主。
ラスフィード王国: 大陸南岸の漁業と造船で細々生きる海辺の小国。
ヴァイス帝国: 遥か北の荒野の覇者。氷と獣と妖精の国。
フローラス: 古い歴史と格式を持つ宗主国。首都はファルツ。
※火、木、土、日の昼に更新します。(2025年9月現在)
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