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8.オルナツ珈琲館

 オルナツ珈琲館は夜の11時まで営業している山小屋風2階建ての今時珍しい喫茶店だ。1階が厨房になっており、ギャルソン、いわゆる給仕は呼び出しボタンを押さない限り2階席にはほとんど上がってこない。客も1階席の方が圧倒的に多く2階席はがらがらだ。多少、妙な話をしたところで人から奇異な目で見られる心配はまずない。

 僕は会社を定時の午後5時きっかりに退社し、午後7時20分にはオルナツ珈琲館へ着いた。

 いつもと同じ青いベストに淡いピンク色のシャツを着て山崎はすでに僕を待っていた。手入れされた口髭がいかつい顔に良く似合っている。そう思いながら、やや緊張した面持ちでテーブルについている山崎の前に腰掛けた。

 呼び出しボタンを押す。黒い制服のギャルソンが静かに2階席へ上がって来る。

 山崎はすでにホットコーヒーを注文していたので、僕も同じものを注文する。僕のコーヒーが運ばれると同時に山崎は口を開いた。

「同じ電車に乗っている人でね。両腕に腕時計をしてる女の人がいるんですよ。年齢は20代後半かなぁ。笹井さん知ってます?」

「いえ、知らないですね。気づいたことはないです」

「その女の人がね。時々変な駅で降りるんですよ。たぶんね、自宅か勤め先は笹原(ささはら)じゃないかと思ってるんですけどね」

「笹原と言うと、代ノ前の2つ先の駅ですね。尾行したんですか?」

「まあ、尾行というと聞こえが悪いですが、似たようなもんです。ただ、自分もこんなナリをしてるでしょう。だから普通に追いかけちゃうとあからさまに目立つんで、何度か寝過ごしたふりをしてどこで降りるのか確かめたわけです。はははは」

「なるほど。山崎さん目立ちますもんね。それで、その女の人が降りた駅で神林から一番遠いところが笹原だったということですね?それで笹原をその女の人の目的地だと推察したと?」

「そういうことです。だからその先は分からないんですが、まあどうでもいいことです。問題は笹原以外のいろんな駅で下車することがあるって事なんですよ。そんな姿を何度も見かけているうちに好奇心がわいてきましてね」

「それは私が山崎さんに興味を持ったきっかけと同じですよ」

「ははは、やっぱりそうでしたか?こんな目立つナリですからね。そういう人がいてもおかしくはないです」

 山崎の言う目立つナリというのがファッションなのか体格なのか良く分からなかったが、おそらく両方のことだろう。

 そこまで話すと山崎はズボンのポケットから大事そうに小さな布製の巾着袋を取り出した。中には子供用の腕時計が入っていた。

 やや擦り切れたピンクのベルトに文字盤には有名なウサギのキャラクターが描かれている。文字盤表面のガラスには一部ひびが入っている。一見して小さな女の子用のものだと分かる。

「自分もね。輸入雑貨をやってますから両腕に時計をしてるとかね。そんなことなら気にならないんですよ」

「それは貿易関係の仕事に熱心な人なら、左腕は日本時間で、右腕の時計はパリ時間なんてこともあるという意味でしょうか?」

「そうそう。そういうことです。それにちょくちょく途中駅で降りるなんていうのも、パニック障害なんていうこともあるじゃないですか」

「ああ、地下鉄サリン事件の被害者の方は長時間電車に乗っていられないなんて話を聞いたことがあります。お気の毒ですね」

 実は僕にも、時おり電車に乗っていられなくなる時があった。通勤電車の中では、大勢の人に囲まれながらも基本的には孤独だ。そうすると嫌でも自分と向き合う時がある。

 つい翔太の将来や妻の心の内を思う。いくらでも悪いシナリオが頭に浮かんで来る。

 それで落ち着いていられなくなるのだ。一人でいることが不安で息苦しくなるのだ。

 そんな時は電車から降りて、深呼吸代わりに自分流の儀式を行い外の空気を吸う。そうすれば、少しだけ落ち着くのだ。

「で、その女の人ですが、両腕の時計が違うわけですよ。左腕はビジネスでも使える女性用のフォーマルなものです。おそらくロレックスとかそれなりのブランドものですよ。ところが右腕の時計がね。なんというか女子高生が持つようなキャラクターものの時計なんですよ」

 僕は思わず山崎の出したピンクの腕時計を見つめる。悲しい話が出てきそうな予感がした。

 人は人として生きている限り、悲しみの一部を手放せない。悲しみが、この世界から失われた人間に起因するものならば、なおさらだ。

「自分には6歳の娘がいるんですよ。女房とは事情があって最近別れてしまいましたがね」

「では、その腕時計は娘さんの?」

「そうです」

 時計の針はちょうど5時を指している。秒針は動かない。

「止まっていますね?」

「そうです。でも笹井さんも行ったあの世界では動くんですよ」

 僕は不意にとんでもなく切ない気分になった。忘れかけていた悲しみが襲ってくる気配を感じた。

 そっと胸元に手を当てる。

 山崎はそんな僕の様子に気づいていないのか話を続ける。

「娘はね。半年前に行方不明になったんです」

 思ったとおり、悲しい話が顔を出してきた。この先の話をするために、山崎には心の整理が必要だったのだろう。

「その日は家の近所で、娘と女房と3人で外食したんです。落ち着いた雰囲気の『静かの海』って言うそこそこ高級なレストランでね。いつか食べに行こうって皆で話していたんですよ。で、ちょうどその日が娘の6歳の誕生日でね。予約して行ったわけですよ」

 僕は黙って頷いた。山崎の話をちゃんと受け止めながら聞いていることを態度で表したかったからだ。

 だが、こちらからも聞かないわけにはいかなかった。

「娘さんのお名前は何と?」

里奈(りな)です」

 気づかれないように僕は安堵のため息を漏らした。くるみという名前が出てくるのではないかと思ったからだ。山崎の話を聞いているうちに、誰かに僕と山崎の運命をもてあそばれているのではないかという考えがふと頭をよぎったのだ。

「食事が終わってレストランを出て一瞬なんです。里奈がはしゃいで駆けて行ったんですよ。里奈の誕生日に高級レストランで食事です。里奈は上機嫌でしたよ。だから嬉しかったんですよ。はしゃいで駆けて行ったんです」

 僕はテーブルの上に置かれたままの時計に視線を落とした。

 やや擦り切れたピンクのベルトに文字盤には有名なウサギのキャラクターが描かれている。文字盤表面の ガラスには一部ひびが入っている。

「そうです。この時計が誕生日プレゼントだったんです。里奈は腕時計をしてはしゃいでました。女房が会計をしている間、自分と里奈が先にレストランの外に出た一瞬です。里奈がはしゃいで駆けていってしまったんです」

 山崎はこれから口に出す話への助走をつけるかのように、同じ言葉を繰り返した。

 僕は黙って頷いた。

「家の近所ですしね。よく知ってる道です。だからそんな心配なんてしてないですよ。で、里奈は駆けて行って路地を曲がったんです。自分は走ると危ないよとかなんとか言いながら里奈の後を笑って追いかけました。里奈が喜んでくれたのが、本当に嬉しかったんです」

 さらに山崎は話を続ける。

「それで里奈の走っていった路地を自分も曲がりました。里奈とはそんな距離じゃないですよ。自分が走ればすぐにでも追いつける距離だったんです。でも路地の先に里奈の姿はありませんでした。最初は自分を驚かすために隠れているんだと思ったんですよ。でも、隠れてなんかいませんでした。そこにはこの腕時計だけが残されていました。里奈とはそれっきり会えないままです」

「誰かに誘拐されたんでしょうか?」

 聞くべきではなかった。会えないままになってしまった理由など、山崎はこれまでに死ぬほど考えてきたはずだ。考えて考えて悩んで悩みぬいたことだろう。

 そして、なんとか自分の心と折り合いのついた表現が『里奈とはそれっきり会えないまま』という言葉だったのだろう。

「そうかもしれませんし、そうじゃないのかもしれません・・・」

 山崎の声が震え始めたことに気づく。すでに山崎は涙ぐんでいた。ひとしずく、ふたしずく山崎のほほに大粒の涙が伝い落ちる。

(彼のような屈強そうな男でも人前で泣くことがあるのか)

 一瞬でもそう考えた自分の不謹慎さを恥じた。涙を持たない者などいるだろうか。

 言葉が思いつかない。僕はだまって山崎を見ていた。後は大体想像がついた。

 たぶん、山崎の妻は里奈から一瞬でも目を離した山崎を責めたに違いない。そんな日々が続いて別れ話に発展したのだろう。

 山崎は里奈がいなくなった責任を、この半年間ずっと感じずっと背負って生きてきたのだ。心を何度も壊しながら、そうやって過ごしてきたのだ。

 山崎は涙を拒めないままの声で続ける。

「その日はね。自分も目いっぱいおしゃれしてたんですよ。青いベストに淡いピンクのシャツでね。ヒゲも伸ばし始めてやっと生え揃ったところでね。ちょうど今笹井さんが見ている自分の姿ですよ。」

「それでね。里奈が言ったわけです。里奈が迷子になるなんてありえないねって。どういうことかというとですね。パパの姿があんまり目立つから、どこにいても探し当てられる。だから迷子になんてなりようがないってことなんです」

 山崎の生き方は僕と似ている。山崎の言うとおり僕と山崎は同じ種類の人間だ。彼も過去を向いて歩く人間なのだ。

「山崎さん。ではそのファッションは」

「娘・・・里奈とのきずなです」

 “会えなくなった”里奈の存在を忘れないように、そのとき計を肌身離さず持っている。

 里奈がいつでも自分を探し出せるように、どんなに寒くなってもその日の服装やいでたちを変えることはない。たぶんすぐに洋服屋で同じ服を何着か買い求めたのだろう。毎日同じ服装でいられるように。

 僕が職場の制服ではないかと思っていた山崎のファッションは、彼が人並みの幸せを求め、取り戻すための細い絆だったのだ。

 彼は気楽な自由人などではなかった。山崎は悲しい決意を持って、ずっと半年間生きてきたのだ。彼もこれ以上の不幸が忍び寄ってくることにおびえていた。かたくなに、いやむしろ強迫観念に近いほどの義務感を持って自分の生活スタイルを守り通して生きてきたのだ。

 沈黙が流れた。

 僕は多少落ち着いてきた山崎に言った。

「山崎さん。いつか里奈ちゃんが、あなたのその良く目立ついでたちを見つけてくれるといいですね」

 何の深みもない言葉だ。だが、思い浮かんだ精一杯の言葉だった。

 山崎の「ははは」と無理にあわせて笑う姿が、その屈強な体格からは想像できないほど小さく見えた。

 彼は、テーブルの上の、里奈の壊れた腕時計に、じっと視線を落としている。

 無意識なのだろう。

 その指先が、ひび割れたガラスの縁をなぞっている。壊れた時間を修復しようとするかのように、何度も、何度も繰り返される。

「なんだか、自分の身の上話になってしまい、すいません。おかげで少し楽になりました。自分はずっと考えてたんですよ。女房も自分と結婚しなければ里奈と会えなくなるような運命を歩まなくて済んだんじゃないかってね」

 彼の声には、抑えきれない自責の念が滲んでいた。

 山崎の苦悩は、以前から僕が抱いている気持ちと同じだ。彼もまた、人並みの幸せを失った痛みを抱え込んでいる。

 だから、その後の山崎の行動も想像がつく。山崎の頑固なまでの装いに僕の心が共鳴したように、山崎は、両腕に異なる腕時計をつけた女性に自分を重ね合わせたのだ。そして、彼女の右腕の時計を、手放せない悲しみの一部だと推測したのだ。

 結果、その女性の後を尾行し、僕と同じように過去の世界へ戻った。その場所はおそらく、山崎にとってもっとも幸せだった過去なのだろう。

「山崎さん、私が声をかけたばかりにつらい経験を思い出させてしまい申し訳ありませんでした」

「いやいや、面目ない。気にしないでください。自分こそ取り乱してすいませんでした。」

 山崎はまた謝る。見た目とは違い、繊細で本当に気持ちの良い男だ。こんな山崎に、なぜ不幸せが忍び寄って来なければならないのか。

 人並みの幸せを手に入れるのは本当に難しい。あらためてそう思った。

「自分が思うに、過去に戻るきっかけとなるのは背負ってしまった苦悩です。それが一定量を超えてしまうと、あの世界への扉が開いてしまうのではないかと」

 山崎は自説を語る。まるで、オカルト本のネタになりそうな話だ。だが、僕自身の心の内や昨日の体験を思えば、軽々しく否定などできるわけがない。

「それで、今朝私に深刻に悩んでいることがあるだろう?と聞いてきたのですね?」

「そうです。ずっと悲しみや苦しみや後悔の中を惰性で生きているような状態のときに、まったく正反対の幸せだった過去を見せられたんです。誰がやっているのかはわかりませんが粋な計らいじゃないですか。自分は喜んで甘えることにしましたよ。生きる意味はともかく、生きてきた意味がそこにはあるわけですから」

「なんとなくは分かりますが・・・」

「いや、良いんです。自分だって理路整然と説明できるものじゃないって分かってますから。言いたかったことは、なにか背負ったものの分量が関係しているんじゃないかと考えられるってことです。だからこそ、自分の心を覆った悲しいことや苦しいことから話し始める必要があったんです」

 僕は山崎の説を尊重し、頷くだけにした。

「といってあの世界は決して現実逃避の結果じゃない。あの世界もリアルな現実世界なんですよ。朝も言ったとおりです。そしてその証拠が里奈の時計なんです」

 僕はまた、テーブルの上に置かれたそのとき計に視線を落とす。

 やや擦り切れたピンクのベルトに文字盤には有名なウサギのキャラクターが描かれている。文字盤表面の ガラスには一部ひびが入っている。

「さっきも言いましたが、あの世界に行くと里奈の時計が時を刻み始めるんです。それは一度につきおおよそ1時間くらいです」

 僕は独り言のつもりでつぶやいた。

「客観的な証拠もある・・・、ということか」

「そうです」

 ふたたび僕はとんでもなく切ない気分になる。忘れかけていた悲しみが襲ってくる気配を感じる。

 そっと胸元に手を当てる。

 確かにあの世界にいたとき、時計の音が聞こえた。そして間違いなく携帯の時計は止まっていた。そもそも僕の携帯には時間を刻む音の設定などしていない。

 僕は無言で何度も頷く。今日はこれだけ分かれば十分だ。まずは差し迫った懸念が解消されたのだから。少なくとも僕が発狂してしまったわけではないことが分かった。まずはそれが分かれば良い。これまでどおり翔太と家族を守っていくことが出来る。

 それに、過去を追体験することは僕にとっても歓迎すべきことだ。あんなに穏やかな気持ちを再び味わえるのなら、この現象を引き起こす原因などどうでも良い。それが狂気の結果でないとさえ分かれば、原因などどうでも良い。

 どうしても原因が気になったのなら、腕時計の女性に聞いてみることも出来るではないか。そうした上で、総合的に山崎の仮説の正否を考えれば良い。

 それに、僕と山崎はいつでも朝の電車で会えるし、これからも必要に応じてオルナツ珈琲館でじっくり話すこともできる。

 物事にはそっとしておいた方が良いこともある。揺さぶり起こせば、人並みの幸せが逃げてしまうこともある。

「山崎さん。あなたとは今後も連絡を取り合いたいのですがいいでしょうか?出来れば携帯電話の番号を教えていただけますか?」

「ははは、すいません。自分は携帯電話が嫌いなもので持ってないんです。今朝、笹井さんに渡した名刺は持ってますか?」

 僕は山崎の名刺を名刺入れから抜き出して山崎に渡した。

「裏面に自宅の電話番号を書いておきます。店か自宅に電話を入れてもらえれば連絡取れますよ」

 そう言いながら山崎は自分の名刺を僕に返すと、僕の名刺を差し出してきた。僕は自分の名刺の裏面に僕の携帯番号を書いてまた山崎に渡した。

 今時、携帯を持たないというのも珍しいが、そこには山崎なりのこだわりがあるのだろう。とりあえず、これで僕らは何かあれば早朝の神林駅でその姿を探すまでもなく連絡が取り合えることにはなったわけだ。


 帰り際。

「オルナツ珈琲館のオルナツってどういう意味なの?」

 山崎がレジを打っているアルバイトらしき若い女性店員に聞く。

 思えば、オルナツというのは確かに良く分からない言葉だ。珈琲館と後ろにつくと、その前につくのは創業者やオーナーの苗字であることが通例だ。

 しかし、カタカナだから苗字ではないのだろう。どこか南方の国の珈琲に関わる言葉だろうと漠然と思っていた。

「はい。オルナツというのはウォールナッツのことです。ただ、ウォールナッツですと語呂も悪いですし、呼びにくいのでオルナツにしたということです」

 「どういう、センスなのさ」山崎はそう言って笑っていた。

 見ればレジ横のケースには、ウォールナッツとチョコレートのタルトなどのスイーツが並んでいる。


 誰だろう。

 少なくとも僕の運命をもてあそんでいる者がいる。

 ウォールナッツとはくるみのことだ。

 『思い出せ』

 また誰かがそう囁いているような気がした。

 誰かが遠い記憶を思い出すためのヒントを与えようとしている。

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