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7.ひとつ後ろの車両にて

 また空間が揺らいだような気がした。

 時を刻む音が止まった。

 目の前には東桜若宮駅の改札が見える。改札周辺は早朝の暗さの中でそこだけ明るい。何もかもが止まっているように見える。

 恐る恐る僕は足を一歩踏み出す。急に周囲の音が耳に入り込んできた。

 空気が動き出す。

 携帯の時刻を見る。午前5時30分。

 すぐに表示が変わる。午前5時31分。

 動いている。

 空は真っ暗だ。

 僕は改札をくぐると、会社とは反対方向、自宅駅方面のホームへ向かった。何がなんだか分からない。そんな気持ちで出勤できる自信はなかった。取り急ぎ、落ち着いて考える時間が必要だ。

 まず僕は、僕自身がしっかりと自分の意思で歩いていることを確かめた。右足を出し、左足を出し。・・・確かに僕はここに居る。

 今、僕は間違いなく駅のホームを歩いている。

 よし、大丈夫だ。

 そうして僕はホームの中央に設置された待合室に入り、硬い椅子に座った。

 ここで目をつぶってはいけない。そうすると正常を求める無意識の思考が、無理やり僕を眠っていたことにしてしまうに違いない。先ほどの体験を、うたた寝の夢として納得させようとするだろう。そうさせるわけにはいかない。

 少なくとも、僕は何らかの原因で意識を失って倒れたりしていたわけではなかった。そうであれば駅員や乗降客が騒いでいたはずだ。僕はごく自然に改札口前にいたのだから。

 そして今現在の自分がそうであるように、僕はうたた寝していたわけでもなかった。

 よし、ここまでは大丈夫だ。

 では、白日夢を見ていたのか・・・。そうかもしれない。

 白日夢とは目覚めた状態にありながら、現実味を帯びた幻覚を見ることだという。しかもその幻覚は願望から形成されるのだという。

 確かに今の僕は、切ない夢から覚めた後のように心があの場所に残されたままだ。こんな状態を考えれば、あれが願望の現われだったということにも納得がいく。

 でも、あれは驚くほどの現実感を持っていた。あれが白日夢だというのなら、今僕のいるこの世界も白日夢ではないのか。

 しかもあれは実際に過去に起こった出来事だった。それを、まるでその場にいるかのようにトレースしたのだ。まだ、フラッシュバックだったと言われた方が、説得力がある。

 しかし、青いベストの男はどこへ行ってしまったのか。僕は彼を追いかけていたはずなのだ。

 また混乱が始まる。

 とにかく今日は会社を休もう。

 考えるのはまた後にしよう。


 翌日。

 始発神林(かんばやし)駅のホーム。

 心療内科や精神科の病院へ行くべきか、多少の迷いはあった。だが、結局、妻に理由を打ち明けて変な心配をさせるのはまずいと判断した。それならばいっそあのベストの男に、何が起こったのか問いただした方が早い。

 彼が僕を普通じゃないと言ったのならば、しかるべき医療機関に症状をうったえ治療してもらえば良い。そう結論した。

「すみません!」

 僕は狂人扱いされることを覚悟の上で青いベストの男に声をかけた。

 彼は振り返ると何事かと言う表情で僕を見た。それから自分の服のポケットすべてに手をあて、何か落し物をしたのではないか確かめるような仕草をした。

「いえ、落し物ではありません」

 我ながら間抜けな台詞をかぶせて弁解しながら、思わず名刺を差し出した。会社での癖が出てしまった。

「伺いたいことがあります!」

 これでは新興宗教の勧誘か、怪しい教材の売りつけ営業だと思いながらも他に言うべき言葉が考え付かなかった。

 青いベストの男はあからさまに警戒の色を示したが、名刺を受け取るとじっと見つめていた。僕が、少なくとも宗教勧誘や営業目的で声をかけてきたわけではないことを理解したらしい。こんな早朝に勧誘や営業もあるまい。そして落し物でもないとすれば切迫した用件があって声をかけてきたはずだ。僕がおかしな人間でない限り。

 彼は即座にそう考えたようだ。見た目の印象よりも、彼はずっと聡明な人間だ。おかげで助かった。

「何かお困りごとですか?」

 彼は僕に聞いてきた。アメフトか格闘技でもやっていたかのような体格からは想像できないような静かな話し方だった。

 僕は素直に「はい」と答えた。

 何しろ、昨日からずっと自分はどうなってしまったのか真剣に悩んでいたのだ。

 もし僕が精神に異常をきたしているのだったら、翔太は、そして翔太と過ごす妻や秀人はこの先どうなってしまうのだろう。生活の支えを失うと同時に、僕と言う厄介者を背負うことになるのだ。これが困りごとでなければ、何が困りごとだというのだろう。

 僕は名乗ると同時に切り出した。

「いきなり奇妙なことを伺います。私が発狂していると感じたのでしたら無視してください。実は昨日あなたの後を歩いて東桜若宮の駅を出たときに、幻覚を見てしまいました」

 尾行の真似事をしていたことはあえてぼかしておいた。誰だって気分の良いものではないだろう。

 僕がそこで一呼吸つくと、明らかに彼の表情が変わっていることに気づいた。まるで古い知人にでも出会ったかのような、そんな表情だ。僕は少し心強くなった。

 僕は続けた。

「その幻覚というのは、過去の光景がまるでその場にいるかのように見える幻覚です。私には幻覚というよりも時間をさかのぼって過去の自分に乗り移ったかのようなリアルなものです。この件で、もし思い当たるようなことがあれば・・・」

 先を続けようとする僕をさえぎるように彼は言った。

「自分は山崎健一(やまさきけんいち)と言います」

 彼は律儀にフルネームを名乗った。

 僕の身長が170センチそこそこなのに対し、彼は185以上あるだろう。だが彼は僕に威圧感を与えないように、少しかがんだ姿勢になっていた。彼は名刺を取り出すと僕に差し出した。

「一応名刺を渡しておきます。自分は町田で輸入雑貨の店をやってます。営業は午前10時から午後8時ですけど、海外との取り引きは時差の関係で夜中なんですよ。だから帰宅はこんな時間です。あっ、自宅は代ノ前駅にあります。ちなみに笹井さんはこれから出勤ですか?」

 僕は答えた。

「ええ。会社まで遠いものでして」

 そう言ってから山崎の顔色を見た。昨日、僕が東桜若宮駅で降りたのは山崎を尾行していたのだと言ったに等しかったからだ。

「じゃあ、夜にでも会いませんか?笹井さんの話には心当たりがあるもんで。実は自分も同じような体験を繰り返してるんですよ」

 山崎は気分を害した様子もなく提案してきた。

 僕はその言葉に安心した。同時に正気を失ったのは自分一人ではないことも分かって思わず声が出ていた。

「良かった・・・」

 おそらく、山崎の先ほどの表情は、僕を不思議な体験を共有できる仲間と知った安堵感から来た表情だったのだ。彼もまた、不安だったに違いない。

「とりあえず電車に乗りましょう」

 山崎の言葉にはっとして、僕らは急いで電車に乗り込んだ。いつもよりひとつ後ろの車両だ。

 すぐに印象的な短い音楽が響く。

 人々の動きがあわただしくなる。

 すぐそばで空気を吐き出す音がする。

 扉が閉まり、風笛の音がゆっくりと和音を重ねていく。

 電車が動き出す。

 僕は山崎と並んで4つの扉の中に座っていた。

「私の体験は山崎さんの力によるものですか?」

 そんなことが出来るのだったら山崎は人間ではなく神か悪魔だ。しかし、神や悪魔が町田で雑貨店を営むとも思えない。これもまた我ながら間抜けな質問だとは思いながらも聞かないわけにはいかなかった。

「いやいや、違いますよ。自分もその謎を知りたい側の人間です」

 屈強そうな体格に似合わぬ小声で山崎は言った。

「笹井さんの見た過去の光景というのは、思い出のシーンってやつですか?」

「そうなんですよ」

「その思い出のシーンに完全に入り込んじゃう感じですか?」

 山崎はあくまで軽い口調だ。

 だが、口調とは裏腹に自身の体験と対比させながらどこまで僕に話すべきか推し量っているように見える。

「笹井さんは、何か悩み事を持ってますよね?」

「つまり、現実逃避の結果、幻覚を見たんだと?」

「違います!違います!あれはリアルなのものです。で、何か悩み事を持っていますね?」

 こちらから、声をかけたのに、逆に質問攻めに会うとは。そう思いながらも、隠す必要も感じなかったので率直に答えた。

「はい。私にとっては深刻な悩みを持っています」

「深刻さの度合いなんて他人には分かりませんよ。悩みの深度には個人差がありますからね。ただ深刻と言うからには、今の笹井さんの生活を脅かすくらいの悩みですよね」

「脅かす?そうですね。そうとも言えるような気がします」

 山崎は納得したという顔をすると、何かを決めたような表情になった。

「笹井さん。この話はあまり電車の中でするようなものじゃないですよね。おかしなやつらと見られるのがオチです」

「ええ、そう思います」

「でも嬉しいですね」

「嬉しい?」

「そりゃあ、自分と同じ種類の人がいるというのは心強いですからね」

 若作りをしているので30代後半に間違われることも多いが、僕は全体的に細くやせて青白い顔をした40半ばに手が届きそうな男だ。一方で、彼はボディーガードでも勤まりそうなほど屈強で、たぶん僕よりかなり若いだろう。はたから見れば同じ種類の人間には到底見えるはずもない。

 だが、日常とは異なる部分で共有しているものがある。それが、嬉しいのだろうか。

「今日は何もなければ、お互い途中下車せずに目的地に行きましょう。自分は帰って寝ます。笹井さんは会社へ行ってください。自分のことを話すには心の整理が必要なんすよ」

 その言葉で山崎が、何かつらいものを背負っているのだと察した。おそらくそれは、山崎の日常から人並みの幸せを奪って行った何かなのだろう。そうしたものを僕もまた持っていることを、山崎は確かめようとしていたのだ。

 それで、僕から予想通りの回答を得ることが出来た。だから同じ種類の人間だと表現したのだろう。

「わかりました。では今夜7時半に神林駅で待ち合わせできますか?静かな場所がいいですよね?」

僕はそういうと神林駅前のオルナツ珈琲館という喫茶店を指定した。


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