表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/28

6.水辺の胡桃の木

 時を刻む音がまた聞こえた。

 場面が変わった。

 風が吹き抜ける。

 真冬の冷気を運んできた。

 目の前には、大きな川が見える。ここは田深(たぶか)川だ。家から砂利道を500メートルほど南へ歩くと田深川に出る。

 川の脇には一本の胡桃の木があった。

 そこには小学生の僕はいなかった。今の僕は本来の僕だ。僕は胡桃の木に抱かれるようにもたれかかった。


 僕は思い出す。

 小学生の僕と澪はここでよく遊んだ。

 母は少し前から、日曜日には生け花教室へ通うようになり、たまたま澪の母親も同じ教室に通っていた。同じクラスに子供を持つ母親二人はすぐに意気投合した。

 母は、澪と結婚すると言う僕の主張をよりによって澪の母にも面白おかしく話していた。

 僕は母のデリカシーのなさに失望した。心のそこから憤ったものだ。

 ところが、澪の学校での反応はそれまでと何も変わらなかった。

 幼い子供の言うことなど、澪の母が本気にするわけがない。ましてや面白おかしく澪本人に伝えるようなこともしなかったのだろう。

 そう思っていた。

 澪の母は賢いな、と思った。

 だが実は違っていたのかもしれない。

 それは、放課後の掃除当番でたまたま担任教師の梅沢(うめさわ)と二人きりになり、教室の机をきれいに並べなおしていたときだ。

 僕の中での中年女性のイメージどおりに丸々と太った梅沢が、眼鏡の奥から物分りのよさそうな目を装って、僕に言った。

「笹井君には好きな女の子がいるのかしら?」

 母から話を聞いているくせにと思った。だから別に隠すこともなかった。

「いるよ。澪ちゃん」と僕は答えた。

「良かったわね。」

 梅沢は言った。

「内緒なんだけど桜木さんも笹井君が好きだと言っていたわよ」

 澪には内緒という意味だったのだろうか。いずれにせよ、それが母親たちのおしゃべりが伝わった結果、澪に植え付けられてしまった感情だったのだとしても嬉しかった。

 実のところ、僕は自分が主張していれば良かっただけで、澪の気持ちがどうかなんて気にしたことはなかった。なぜなら、恋というものがお互いの気持ちの交流を前提とするものだと考えたことがなかったからだ。

 それほど、僕はまだ幼かったのだ。

 そして好きと言うことは将来結婚することと同じ意味だと思っていた。

 フナを3匹学校に持っていった日のことだ。


 母の生け花教室には初日からお供で同行していた。

 なんと言う流派かは知らないが、生け花の技法そのものは本格的なものらしかった。自宅である古風な造りの日本家屋で年配の女性が老後の道楽として、数人の主婦相手に少しばかりの月謝を取って教えていた。

 僕は、もちろん生け花に興味などなかった。だから見学に退屈すると外へ出た。そのたびに母はお小遣いを持たせてくれた。

 周辺にはこの町で唯一の文房具屋や本屋、レコード屋などがあった。生け花教室へのお供は、それらの店での買い物が目当てだった。

 担任教師の梅沢から澪の話を聞いたしばらく後、澪も彼女の母親のお供で生け花教室に顔を見せるようになった。その理由を尋ねると、澪は僕が来ていると自分の母親から聞いたからだと、まるでそれが当然であるかのような顔をして、なんでもないことのように答えた。

 僕は自分のことを、見た目も学業もとりえのない空気のような子供だと思っていた。だが、担任教師の梅沢が言っていたとおり、澪にはそうではなかったということらしい。

 梅沢の言葉の真実性を、澪本人から直接得られたわけだ。その事実は、僕をこの上もなく嬉しい気分にさせた。

 澪が顔を出すようになってから、僕は本屋や文房具屋に入り浸ることをやめた。それからは生け花教室が終わるまで、二人で周辺を散策するのが普通になった。澪のお気に入りの場所は、この胡桃の木だった。

 母はいつも「胡桃の木には近づくな」と言っていた。かぶれることがあるからだという。だが、僕の知るかぎり、胡桃にかぶれたのは母だけだった。

 胡桃は年に一回、通常5、6月頃に花を咲かせ実をつけ始める。

 ところが、この胡桃の木だけは特別で、秋の終わり頃にも花を咲かせ実を結ぶのだ。日当たりや地熱の関係ではないかと言うことらしかった。だから、胡桃の木の周りにはほとんど一年中実が落ちていた。時間が経つと外皮が剥がれ、小さな化石のような殻だけが残る。それが誰もが思い浮かべる胡桃の実だ。

 澪は胡桃の実を拾うのが好きだった。

 見つけるまで木の周りを歩き、何個か見つけても「今度来た時のために残しておくの」と言って、いつもひとつだけポケットに入れて持ち帰った。

 胡桃の実を拾うのは、食べるわけではなく、部屋に飾ることが目的だったらしい。

 僕は一緒に探すこともあれば、胡桃の木に登りそんな澪を見ているだけのときもあった。

 あるとき、胡桃の木を揺らして、その実を落としたことがある。そうすればたくさんの実を苦労せずに手に入れることが出来ると気遣ったつもりだったのだが、澪はそうじゃないと珍しく怒った顔をした。澪にとっては、自然のままに落ち、拾われるべき時を迎えた胡桃の実にこそ意味があったらしい。

 以来、僕は反省し、木を揺らすような無粋な真似はしなくなった。

 胡桃の木のすぐ下には浅い水の流れがあり、本流から多少離れているので、安全に水遊びすることができた。澪とは、そこでも良く遊んだ。

 少しだけ水面に手を入れて水を掛け合うとか、浅瀬に迷い込んだ魚を捕まえるとか、アメンボの数を数えるとか、そんなたわいのない遊びだ。


 僕はさらに思い出す。

 川向こうには国東消防署があった。ある日出初め式があり、僕と澪は色とりどりに着色した水流が何本もの消防ホースから空高く放水されるのを見た。

 そのうちの2本のホースから放たれた水は、上空で幅を拡げ左右対称の弧を描きながら、川面に霧雨のように降り注いでいた。

「天使の羽みたいな形ね」

 そう言いながら、澪は嬉しそうに手を叩いていた。

 そんな時間が、澪と僕を急速に結びつけていった。この時間は二人だけの秘密の時間にしようとお互いに約束した。

 澪はまるで意に介していなさそうだったが、何しろ澪は変わらず学校では人気の的なのだ。皆に知られたら、大声でからかわれたり、ねたまれたりするに決まっている。そんなことで澪との大切な時間を邪魔されたくはなかった。

 だがそれは、いつまで続くか自分たちでは決められない、はかなくもろい時間だった。

 でも、そんなことを幼い僕らは考えもしなかった。


 澪の家は僕の家からはずいぶん遠かった。いや、実際はそうではなかったのかもしれない。だが、小学生の僕の足では片道1時間近い道のりだった。

 小学4年生の頃、澪の家へ歩いて行こうとしたことがある。澪の家へ歩いていくのも、一人で行くのも、それが初めてだった。頼りは澪から描いてもらった大雑把な地図だった。

 僕の家から田深川へ向かう砂利道を歩いて、胡桃の木を左手に見ながら川と交差する大通りへ出て、その大通りを北に向かってさらに町の外れまで歩く。そんなことが絵と文章で表現された地図だったように思う。

 そこまで思い出した時、また空間が揺らいだ。

 僕は小学4年生の僕に同化した。

 今日は土曜日なのだろう。

 厚い雲を通して冬の空に降りて来た太陽は、それでもまだ午後の早い時間を示していた。僕は濃い青色のジャンパーを着て、当時の男の子の誰もがそうであったようにやはり半ズボンだ。

「ちょっと、遊びに行ってくるよ」

 僕は玄関の引き戸をガタガタと開きながら言う。

「今日は雪が積もるそうだから早く帰っておいで。雪だるま作れるかもよ」

 これはたった一人の姉、美子(よしこ)の言葉だ。

 姉は僕とは4つ違いの中学2年生で、僕の目から見ても色白で瞳の大きなしとやかな女性らしい女性だった。

 朝の登校時間には、姉の姿を一目見ようと大勢の男子生徒が窓から身を乗り出していたという話を、後日友人の兄から聞いたことがある。多少大げさな気もしたが、そんなことがあってもおかしくはなさそうに思ったくらいだったから、一般的にも美人の部類だったのだろう。

 姉は優しかったし、僕とはよく遊んでくれた。姉弟の仲はすこぶる良かった。そんな事情もあって少々後ろめたい思いを感じながらも、僕は適当な返事をして家を出た。

(姉さんごめんなさい。今日は雪だるまよりも大事なことがあるんだ)

 家を出て田畑の間の砂利道を田深川の方へ歩く。

 澪の家へ行くために。

 姉の言うとおり雪がちらついている。

 六角形の雪の結晶は、空から落ちてくる姿を見ている限りでは幾何学的な印象はない。ひんやりとした白い花が舞っている。そのように見えた。舞い降りる雪にも生命があり意思があるように見えた。

 雪はやがて本格的に降り始めた。

 田畑の積み藁が、瞬く間に白くなっていく。

 幻想的で美しい光景。

 この美しさが普遍的なものであることを僕はもっとずっと後になって知った。フランスの印象派画家のクロード・モネが季節ごとの積み藁を題材にたくさんの絵を描いている。その中に雪の日の積み藁を描いたものも数点ある。

 だが、キャンパスに閉じ込められた風景は決して現実の風景にはかなわない。


 僕は砂利道を歩く。

 雪の中を歩く。

 澪の家へ行くために。

 僕は考える。

 澪へのプレゼントは何がいいだろう。

 そうだ、胡桃の実はどうだろう。でも、さすがに特別な胡桃の木ではあってもこんな季節にまでその実が残っているだろうか。

 僕は雪で白くなりつつある砂利道をさらに歩く。

 目当ての胡桃の木が見えてきた。少しばかりの雪化粧をした胡桃の木のそばに、白いダッフルコートに淡い水色のスカートをはいた同年代の女の子が立っていた。白いミトンの手袋で包まれた両手を、祈るように胸の前に置いて寒さに耐えている。

 澪だった。

「家が分からないと困るから迎えに来たの」

 澪がにこやかに言う。

「大丈夫だったのに。地図を描いてもらったから分かったさ」

「でも、分からなかったら困るから。それにお父さんが迎えに行きなさいって」

そう言って少しだけ大通りの方へ顔を向けた。

「雪が降ってるんだよ。寒かったんじゃない?」

「大丈夫。胡桃の木が雪よけになってくれたから。それに見て」

 澪はコートのポケットの中を見せる。

 そこには胡桃の実がひとつ入っていた。

「プレゼントに探して持っていこうと思っていたのに、自分で見つけちゃったんだ?」

「いいの。胡桃の実は私が見つけなければならないの」

 その理由は言わずに、澪は砂利道の向こう200メートルほど先の大通りへ体を向けた。そこでは、澪の父親が車のタイヤに雪道チェーンを取り付ける作業をしていた。

 すでに母親同士が生け花教室で仲良くなっていたため、作りすぎた料理やどこかのお土産を持っていくなど双方の家庭での交流もあった。なので、澪の父親とも面識があった。澪の父親は垢抜けていて、いかにも裕福な家庭の大黒柱といった風情だった。

 僕は、これで行きも帰りも雪道を歩く心配をしなくて済むと安堵する。澪の父親はちょうどチェーンの取り付け作業が終わったようで、僕の姿を認めると、片手を上げて邪気のない笑顔を見せた。

 澪の父親から見れば、僕は害のない澪の幼いボーイフレンドといった印象なのだろう。

 確かにそのとおりだ。

「行きましょ」

 澪は大人びた口調で僕の手を引いて車の方へ歩き出した。


「寒くない?」

 そう言いながら僕はつないだ澪の手ごと自分のジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。

「暖かい」

 澪は歌うように言った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ