3.6枚羽のクローバー
電車が止まる。
空気を吐き出す音とともに4つの扉が開く。
始発駅から数えて四つ目の駅。
東桜堀川台駅だ。
僕が降りる駅は新宿を抜け十二駅先の豊川坂駅なのでまだまだだ。
(おや?)
僕は思った。
青いベストの男が下車したからだ。
(こんな近場の駅で降りていたかな?)
以前、今日のように珍しく車中で寝ることもなく起きていたとき、彼はもっともっと先の代ノ前駅で降りていた。そんな記憶がある。
男はまっすぐ前を向いて改札へ向かっていった。
やがて、4つの扉が閉まり、電車が動き出す。
僕は4つの扉の中にいる。
どうでも良いことだ。
今日も穏やかに仕事が終われば、それでいい。
鞄を開ける。中には精神安定剤代わりの文庫本と妻が作った弁当が入っている。文庫本を取り出しページをめくっているうちにいつの間にか寝てしまった。
気がつくと豊川坂駅だ。外に出るとやっと太陽が昇り始めた空はまだ仄明るい程度だ。翔太と妻はそろそろ起きて小学校に行く準備を始める時間だろう。長男の秀人はまだ寝ているはずだ。通っている中学校が家のすぐ近所なので、まだまだ起きなくても十分間に合う。
妻は毎日翔太の手を引いて小学校に連れて行く。往復30分の道のりだ。翔太がぐずると連れて行くのも大変らしい。僕はそんな話を聞くと、少なからず後ろめたい気持ちになる
大変なことは妻に押し付け、僕だけが会社に逃げているような。だが、働かなければ生活できないのだ。それも現実だ。
とにかくストレスをためないように穏やかに仕事をして健康を維持することに専念すればいい。
「笹井さん、サーバがダウンしているみたいですよ」
出社と同時に誰かに声をかけられる。
まだ7時になったばかりだというのに、もう出勤している社員が何人もいる。営業日報システムの一部が動かないと言う。僕は席に着かぬまま、無表情を装ってサーバルームへ行き状態を確かめる。確かに稼動ランプの消えているサーバがある。パソコンがフリーズしているのと同じで、サーバを再起動すればたいてい正常動作する。この日もそれでおさまった。
僕の会社は社員400名たらずの衣料品を扱う会社で、出社定時は午前9時だ。
だが、営業社員が少しでも速やかに外に出て営業活動が出来るように、僕たちのような内勤社員は自主的に早朝出勤している。
特に僕の所属部署である情報システム部は朝早くからシステムが正常に動作していることを確認し、どんな不測自体にも対処できるように万全の体制をとっておく必要がある。システムは営業社員が朝一で顧客の照会をしたり、情報分析を行なったりして、営業用資料を作るための大事な裏方だからだ。
だから、情報システム部は会社のどの部署よりも出勤時間が早い。もちろん早朝勤務手当てなどつかないが、その点に不満はない。営業職に回されて休日までお得意先とゴルフ接待など今の家庭状況で出来るはずがない。
自席に着きパソコンを立ち上げようとすると、ディスプレイの前にどこか普通とは違うクローバーが置いてあることに、ふと気がついた。
(小山さんの仕業だな)
小山は30半ばの和風な顔をした小柄な女性社員で、何か珍しいものを見付けると僕に報告に来るのだ。 会社では常に平坦な感情しか表さない僕が、何かに興味を示す瞬間が楽しいらしい。
いつか会社で白いレンゲ草の話をしたことがある。レンゲ草と言えば赤紫色を思い浮かべるが、ごくまれに白いレンゲ草が生えることがあるのだ。
会社では、
「シロツメクサの間違いじゃないの?」なんて言われたりもしたが、これは本当の話だ。
だが、それ以来、何をどう誤解したのだか、小山は僕のことを珍しいものには目がない人間だと思い込んでいる。あえて僕も否定はしていない。
彼女は、つい先日も知人がツチノコを見たなんていう話を僕にしてきたばかりだ。白いレンゲ草とツチノコではまったく関係がないように思うのだが、そこは彼女にとってはどうでも良いらしい。
彼女は僕の右斜め前に座っている。彼女の机の卓上加湿器からは盛大に白い蒸気が出ている。彼女は人に小さな驚きをプレゼントする。そういう方法で周囲と関わることが彼女にとっての息抜きなのだ。
「小山さん。この四つ葉のクローバーはどこで見付けたの?」
僕は小山に問いかける。
「この間、シロツメクサの話をしてたでしょ?」
シロツメクサとはクローバーのことだ。
「いや、違うって。あれはレンゲ草のことだよ」
そんな僕の言葉は無視して小山は続ける。
「昨日、同期の子と会社の前の公園で見付けたんです。珍しいでしょ?」
「う~ん。珍しいかな。僕は田舎育ちだから子供のころはたくさん見つけて持っていたよ」
「笹井さん。よ~く見てくださいよ」
言われて良く見てみると、それは四つ葉ではなく六つ葉だった。
小さな三つ葉のまわりを一回り大きな三つ葉が包み込んでいるような形だ。緑ではなくピンク色なら花のようにも見える。
「あぁ!これは確かに珍しい」
「でしょう!クローバーの葉って羽みたいじゃないですか。鳥の羽じゃなくてヘリコプターの羽ですけど。それが倍ですよ。どこまでも飛んで行けそうでしょ?」
「なるほど、6枚羽のクローバーか。面白いね。ありがとう」
「いえ、お気に召していただければ・・・」
小山は勝ち誇ったような顔をする。
「しかし、これはヘリコプターと言うよりも・・・」
「ふんふん。ヘリコプターというよりも?」
「ヘリコプターって普通はローター、まぁ、羽や翼と言っても構わないと思うんだけど、4枚なんだよね。倍なら8枚」
「笹井さん、ケチをつけてます?」
「いやいやごめん。そんなつもりはないんだ。ただ、どちらかというと、ダ・ヴィンチの設計した螺旋形の翼を持つ飛行機械の絵に似ているなと思ってね」
「ダ・ヴィンチ?モナリザの?・・・なんですかそれ?」
「いや、翼というよりもネジみたいな形をした飛行機械で、実際に作ったんじゃなくて概念図だけを残してるんだ。16世紀の始めにそんなものをだよ。天才だったからね、ダ・ヴィンチは。それが今のヘリコプターを先取りしたようなものでね。上から見た形が少しこのクローバーと似ているなぁ、と思ってさ」
「ダ・ヴィンチのクローバーですか・・・。面白いですねぇ」
「いやいや、待てよ。これは天使の翼だよ」
「天使ってエンジェル?あの赤ちゃんの姿をした?でも、天使って翼は2枚でしょう?」
「現代の僕らがイメージする天使はそうだね。でも、セラフィムっていう天の使いは、翼を6枚持ってるんだよ。天使にも階級があってセラフィムは最上級の位に位置する天使だそうだよ。うん。このクローバーはそれだよ」
古いイコンに描かれたセラフィムは、三対6枚の翼を持っている。たいていは2枚で頭を、2枚で体を覆い、残り2枚の翼で羽ばたくような姿で描かれている。これは、旧約聖書の『イザヤ書』でセラフィムが登場した際の記述に由来する。
よくダウン症者のことを、天使のようだと表現する人がいる。知的な遅れがあるからかもしれないが、いつまでも子供のような無邪気さを保っているせいだろう。たしかに、彼らは本当にピュアに見える。
「笹井さんって、いろんなことを知ってるんですねぇ。なんだか話がどんどん膨らんできましたけど、予想以上に喜んでいただけたということかしら?」
僕は頷いて肯定した。
小山はおそらく翔太の翼のことは知らない。なぜならそんな話をしたことはないからだ。
― たとえ障がいがあろうと、大空へ羽ばたく道まで閉ざされてはいないはず。翔太一人で無理だというのなら、僕が大空へ連れて行ってやる ― 6枚羽のクローバーはその考えを具現化したもののように思えた。
だから、小山が珍しいクローバーを空高く飛ぶものに見立てたことに驚いた。
そして、それがダウン症者に対してよく使われる天使という表現にまで結びついたことにも。
一方でいつものように暗い考えが頭をもたげてくることを抑えられない。クローバーは三つ葉が普通であって六つ葉は健常ではない。僕は翔太に珍しいものを求めたわけではないのだ。
そのとき、突然、何かを思い出さなければいけないような気がした。小山が六つ葉のクローバーを持ってきたのは偶然なのか。彼女がそれを6枚羽にたとえたのは偶然なのか。6つの翼を持つ天使にまで空想の幅が広がったのは偶然なのか。
偶然なのだろう。なぜなら、彼女は僕の翔太に対する思いを知る由もないのだから。
『思い出せ』
今度は、誰かがそう囁いているような気がした。
誰かが遠い記憶を思い出すためのヒントを与えようとしている。
そんな気がした。