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22.クリスマスパーティ

 開いた4つの扉の内側から外をぼんやり眺める。

 僕は扉の外を行く人たちを眺めながら考える。

 彼は見たことがある。

 彼女ははじめて見る。

 ・・・

 そのうち印象的な短い音楽が響く。

 人々の動きがあわただしくなる。

 すぐそばで空気を吐き出す音がする。

 扉が閉まり、風笛の音がゆっくりと和音を重ねていく。

 電車が動き出す。

 いつもと同じ駅。いつもと同じ電車。いつもと同じ車両。いつもと同じ席。いつもと同じ光景。

 今日はクリスマスイブだ。過去の扉はもう開かない。

 いつもと同じ光景。そこに山崎の姿は無い。

 いつもと同じ光景。少しだけ空気が軽くなったように感じる。

 向かいの席に座る女性。何度か見かけたことがあっただろうか。

 膝の上には、真新しいビジネスバッグ。その上に、使い込まれた子供向けの小さなぬいぐるみが載っている。

 彼女は、時折そのぬいぐるみに手を置いていた。

 そのことに、今日、初めて気がついた。

 相変わらず、会社では無理をしない程度に仕事をこなしている。相変わらず、家族を養う目的以上の欲は湧いてこない。僕は人並みの幸せと笑顔が手に入ればそれで満足なのだ。

 だが、なぜか自分がすでにそれを手に入れているような気がしていた。ただ、そう思えるのだ。

 もちろん、翔太は障がいを背負ったままだし、僕ら家族にも将来の不安があることに変わりは無い。

 翔太のダウン症が転座型であったことから、秀人の子供に遺伝することだってまったくその心配が無くなったわけではない。

 しかし、どうするかは秀人自身が選択することだ。自らが遺伝カウンセリングを受け、その結果が悲観的なものであったとしても、新しい命を求めるかどうかは秀人と秀人の将来の伴侶が選択すれば良い。

 言葉にすれば、それだけのことだ。

 家族をずっと見てきた秀人なら、きっと正しい選択をするだろう。


 僕は、ダウン症者への職場提供という計画を、具体的に練り始めた。幸い同じダウン症の息子を持つ香山清美の応援もあり、賛同者も集まり始めている。

 つい先日、リサイクル事業で全国展開している大手企業に直接出向き、企画書のプレゼンも行なった。

 当然、その企業にとっては収益の見込めるような提案ではない。それでも社会貢献上、福祉事業にも力を入れるべきとの考えを持つ企業は結構存在する。同社もそのうちの一つだった。結果として、同社の福祉事業活動の一環として、店舗運営のノウハウを提供してもよいとの返事を取り付けることが出来た。

 まだまだ多くのハードルがあるにせよ、翔太が大人になるまでには何とか形にしたい。少しずつ翔太の、いやすべてのダウン症者の翼を羽ばたかせるための環境を整えたい。

「ハッピーサイクルいう名称はどうかしら?」

 香山清美が言う。

「う~ん。悪くは無いですけど、ちょっと語呂が」

「たしかにね。それにリサイクル業ではなく自転車屋さん?って思われそうだわね」

「そうですね」

「じゃ、リバイブは?物の命を復活させるイメージがあるでしょ?」

「Revive・・・。くりかえす命とも受け取れますね。いいじゃないですか。実はこれが本命ですね?」

「バレました?主人にも協力してもらってやっと思いついたのよ」

「うん。すごく良いと思います。有力候補として残しておきましょう」


 澪の発案で、クリスマスイブの今日、澪の両親を我が家へ招待してディナーパーティーを開くことになった。

 料理はイタリア料理。全部澪の手作りだ。メニューまで手書きで拵える凝り様で、澪の純粋で実直な性格がこういったところによく表れている。

 秀人は時おり澪に、

「お母さんにはサプライズがないんだよね」などと生意気なことを言う。

 買い物に行ったときなど、澪は予定したとおりの品物しか買わない。予定外の菓子類やアイスクリームなど、秀人が思わず喜んでしまうような品物にまでは、なかなか気を回さない。それを少しばかりの批判を交えて揶揄した表現だ。

 澪はこういった秀人の言葉に不満なようだが、僕はこれを褒め言葉として澪に使っている。家計を守ることを考えれば当然だし、何より、こういった実直さがあったからこそ、澪はずっと僕を想っていてくれたのだ。


 翔太は出来上がってゆく料理を見て上機嫌だ。すべてを食べきれるわけではないのに、すべての料理が自分のものだと思っている。

 澪は忙しく、出来上がった料理をパーティー部屋へ運んでいる。

 翔太も澪の真似をして、台所とパーティー部屋の間を忙しそうに行き来している。

 時おり料理をのぞき見てはにんまりし、また、ドタバタと真剣な顔で行き来する。

「翔太。お母さんの邪魔になるからこっちにおいで」

 僕が言う。

「翔太もお手伝いしてるつもりなのよ。だから、いいの」

 澪が翔太の頭をなでながら言う。

「そうかぁ。翔太はえらい子だなぁ」

 澪の父が上機嫌で言う。


 医師から告知があったその日、翔太がダウン症だと桜木家に告げに行ったのは僕だった。何しろ出産の翌日のことなのだから、澪はまだ入院中だったのだ。

 僕は澪の父の顔を見たとたん、澪の前では平然を装って強がっていた心の糸が切れた。まるで、水道の蛇口を最大限までひねったかのように涙が猛烈に溢れ出した。泣きながら、翔太を健常に誕生させられなかったことを詫びた。

 澪の父は、

「笹井くん。家族が一人増えたのに泣いたらだめじゃないか」、「おれの?」、「これは嬉し涙だよ」と言って、僕の肩を両手でがっしりと掴んで泣きながら笑って見せた。

 あれから8年経ったクリスマスイブ。きっと、誰もが翔太と同じように嬉しくてたまらない。

 料理をにぎやかに食べ終わってひと段落がついた頃、澪は手作りのクリスマスケーキを出してきた。

 翔太は我慢しきれず、飾られた苺を一つ摘んで口に放り込んでいる。こういうときの翔太は本当に素早い。

 蝋燭に火を点し、部屋を暗くする。蝋燭を吹き消すのは翔太の役だ。翔太は喜びを抑えきれない様子で、キャッキャッと妙な声を出しながら、それでもふぅふぅと息を吹きかける。しかし、風量が足りないせいで、蝋燭の火は揺れるだけで消えるまでには至らない。 

 それでも翔太はふぅふぅやっている。見かねた秀人が、翔太の後ろに隠れこっそりと大きな息を吹きつける。蝋燭の火が消え、翔太は自分がやったぞと得意げだ。

 ケーキを切り分け、珈琲を飲みながら少しずつ食べていると、翔太が声をかけてきた。

「ね、ねぇ。」

「うん?なに?」

「アーパド」

 僕はいつものように、タブレット端末が十分に充電できていることを確かめてから、翔太に渡す。

「何をする気なのかしら?」

 澪が言う。

 翔太はさらに部屋の中を歩きまわり、何かを探している様子だ。そのうち、発表会の小道具だったオモチャの時計を探し当て左手につけて戻ってくると、慣れた手つきでタブレット端末を操作し、お目当ての楽曲をタップした。

 これは12月5日の発表会で、翔太がふてくされて“死体のマネ”をしただけで終わった演目の曲だ。自分にとってもそれは不本意な出来であったと考えていたのか、翔太は再チャレンジするつもりのようだ。

 澪の両親、つまり翔太のおじいちゃんとおばあちゃん、澪と僕、秀人、5人の観客の前で、翔太がスタンバイする。

 前奏が始まり、テンポの良いリズムにベース音が重なる。

 翔太はまっすぐに立って腕を組み、リズムに合わせて首だけを前後に振る。

 歌が始まる。

 それと同時に、翔太は両手を前に突き出し、上下に振る。次に右を向いて同じ動作を繰り返し、同じように左を向いて同じ動作を繰り返す。

 それが終わると、腰を振りながら両腕を胸元で上下に何度もあわせるような動作をする。

「ウォッチィ!」

 翔太は体をひねらせて時計を見る決めポーズをとった。

「あら、完璧じゃないの?」

 澪が嬉しそうにつぶやく。

「うん。完璧だった」

 僕も嬉しさに涙ぐんでいたことが恥ずかしくて、顔を隠しつつ同意する。

 僕の目には、翔太の背中に生えた翼が不器用ながらも羽ばたこうとする様子がずっと見えていた。

 澪の両親も、

「翔太はこんなに上手に踊れるんだねぇ」と驚いている。

 秀人はというと大笑いしながら

「すごい!すごい!」を連発しながら手を叩いている。

「翔太にとっての本番は今日だったのかぁ」

 秀人がまだ笑いながらそう言った。

 翔太は得意げな顔をして、拍手に答えるかのように一礼した。


 僕は信じる。

 翔太には健常児と変わらぬ翼がある。

 それは、まだまだ小さなものだが、いずれは大空へ羽ばたくことのできる翼に違いない。翔太はゆっくりではあるが着実に成長している。今日あらためて実感した。

 くるみの短かった命を失ったときの悲しみを、やっと乗り越えられたような気がした。

(申し分のない幸せじゃないか)

 幼い頃から約束した女性と家族になり、くるみを亡くしたことによって共に泣いた日々。

 翔太を守ることを自覚し、その年齢にしては家族思いの長男である秀人。生まれたときから家族であったかのように接してくれる澪の両親。羽ばたきの真似事を始めた翔太の背中の小さな翼。それは、くるみからのクリスマスプレゼントだったのだろうか。

 そして、翔太の翼をさらに羽ばたかせるために始めた仮称リバイブの充実感。

(申し分のない幸せじゃないか)

 人並みな幸せを手に入れることは難しい。ずっと、そう思ってきた。だから、用心深く生きてきた。でも、そんな必要などなかった。考えてみれば、「人並みな幸せ」の基準など、僕の中にすらなかったのだから。

 それぞれの人が、自分らしい幸せを感じることこそが、人並みな幸せだったのではないか。悲しいときは悲しみ、苦しいときは苦しみ、くじけたときはくじけ、笑いたいときは笑う。ただ、顔を上げて自然に生きていれば、それで良かったのだ。

 難しいと思うときもまた来るのかもしれない。それでも、少しづつ顔を上げ、前を向いて歩いて行きたいと思った。


「今度は、別府のご両親も呼んだらどうかしら?」

 澪が言う。

「だって、意地を張っているだけで、今となっては何の確執もないんでしょ?お義母さんだってきっと喜ぶと思うわよ」

 澪の楽しそうな顔を見ながら「そうだね」と僕は答えた。僕は選択を誤ってなどいなかった。澪も同じ思いでいてくれたなら嬉しい。

 僕は変わらず澪の楽しそうな横顔を見ていた。

 ふと、僕の視線に気づいた澪がこちらを見る。

 そうして、ほんのりと微笑んだ。

 幸せはすでにここにあった。

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