20.見守る瞳
報せは翌朝の通勤電車の中でやってきた。大原野駅で降りる。
ぼくは目を閉じる。
ゆっくりと開ける。
スーツの左胸の内ポケットから時を刻む音がする。
風が吹き抜ける。
夏草の匂いを運んで来る。
故郷の香りがした。
そのとき、僕は長い年月を経て国東を訪れていた。小学校6年生の終わりに澪と離れ離れになった川辺に居た。
澪の父は、若い頃東京の大学に進学し、そこで澪の母と出会った。そのまま東京で大手銀行へ就職し、澪が3歳のころ生家のある大分へ転勤となった。
ただ、次男だったことと、澪の母の実家が東京だったことから、ゆくゆくは東京へ移り住みたいと考えていた。そんな理由から、澪の進学とともに東京本店への異動を希望し、澪が大学3年生になったとき、それが叶った。すぐに、神奈川県に隣接した東京郊外に一戸建て住宅を購入し、澪も学生寮を出て自宅から大学へ通うことになった。
まだ新築の匂いがする桜木家に澪から招かれた時、澪はかんたんに「シュウくん、連れて来た」と、母親に告げただけだった。確かその日は日曜日で、澪の父も家に居たのだが、僕はその気軽な物言いに驚いたのを覚えている。
だが、澪のまっすぐな性格を考えれば、僕と再会したことや、昨日はどこに行ったとか、今日は何の映画を見たかなんてことを、両親に臆すことなく話していたとしてもまったく不思議ではなかった。だから、澪としては、子供時代と同様に今の僕のことも、両親にとっても特別な来客ではなく、当然の存在だと感じていたのだろう。
それでも澪の両親は、僕を見ると、ずいぶんと懐かしがってくれ、今また澪と二人一緒に居ることに改めて深い感慨を抱いた様子だった。
僕はそれからも頻繁に澪の家を訪れ、まるで最初から家族の一員だったかのように食卓を囲んで談笑した。そんなふうだったから、僕が東京で就職して24歳になり、桜木家に澪を貰い受ける挨拶に行った時もまったくいつもどおりだった。
「笹井くんのことは子供の頃から知っているからね。反対も何もあるわけないよねぇ。娘をもらいに来るって時にも緊張しなくて済むなんて良かったなぁ」
澪の父はのんびりとした口調でそう言った。
「シュウくんはちゃんと、かしこまって来てくれてるんだから、もう少し、緊張して欲しいんだけどね」
澪が苦笑をまじえながら言った。
「笹井くんが別府へ引っ越してから、澪はよく泣いていたわね。そんなにつらいのだったら、別府へ会いに行きなさいって何度も言ったのよ」
澪の母も言う。
「だって、どうやって別府まで行くのよ。電車もないし、バスだってどうやって乗り継いで行ったら良いか分からなかったんだから」
まだ子供だったのだからという意味も込めたのだろう。澪はむくれた顔で拗ねたふりをしながら言う。
「お父さんがね、何度も別府へ連れて行ってやるかって言っていたのよ。でもねぇ」
澪の母が笑いながら言う。でもねぇのあとには、時間とともに僕の気持ちが澪から離れているかもしれない。だから、先方にも迷惑だろうし、娘を更に悲しませたくもなかったからだという理由が続く。ふと、僕の母も、澪の母と実は同じ思いを抱いていたのかもしれない、という考えが浮かぶ。
「こうなって本当に良かったわねぇ」
そうして、僕らは結婚した。
澪は100個近い胡桃の実を持って、僕と暮らし始めた。すぐに長女が生まれ、僕らを結ぶ象徴だった国東の特別な胡桃の木にちなんで、くるみと名付けた。
ゆったりとした時間が流れ始めた。人並みな幸せは、ずっとこのまま僕らの元にいてくれるものとばかり思っていた。何かを失う運命が訪れることなど、考えることすら出来なかった。
相変わらず母とはうまくいかないままだったが、だからといって孫の顔を見せに帰らないほど僕も頑固ではなかった。澪の希望もあって、くるみが2歳になった頃、会社の夏季休暇を利用して別府へ帰省した。
その折に、僕は15年ぶりに国東へ立ち寄ったのだった。家族3人で父の車を借り、片道1時間半ほどの距離を運転する。あの頃は月と地球ほどに思えた国東と別府の隔たりも、大人になるとこんなに容易く克服できるものだったのかと驚いた。
国東はあまり変わっていなかった。ただ、木造だった小学校が鉄筋コンクリートのどこにでもある校舎に造りかえられていたことがとても残念だった。
僕と澪はくるみを連れて、田深川沿いの胡桃の木のある場所へ行った。
「ねぇ、今日は胡桃の実は拾わないの?」
胡桃の木の周りを、よちよち歩くくるみの手を引きながら僕はわざと澪に尋ねた。
「ばかね。もう拾う必要なんてないわよ」
澪が笑いながら、くるみを見ている。胡桃の実は二人が心を通わせあった象徴だった。今はその確かな証として、くるみが僕らの間に居る。
僕はずっと、この胡桃の木のある場所で澪を見てきた。そして今、母親になった澪を見ている。
くるみは澪によく似た大きな瞳で僕を見上げている。この子もいずれ運命の人と出会い、澪に似たその大きな瞳で愛しい人を見つめるのだろう。
この特別な胡桃の木が、幼い僕らの笑いや悲しみをずっと見守ってきたように、くるみをずっと見守って行こう。
僕はそう思った。
すぐにやってくる別れの日のことなど知らずに。
そのとき突然、別の目が僕を見ていることに気づいた。
見覚えのある目。
川沿いの大通りへと続く砂利道の中央に〈それ〉は居た。
その青い瞳は、27歳の僕の中に居る現在の僕を見つめていた。




