17.窓を挟んで祈った夜
ぼくは目を閉じる。
ゆっくりと開ける。
都会の空気は冷たく人工的ではあったが、それでもわずかな懐かしさを運んできた。
僕は思い出す。中学のとき、僕は一人ぼっちだった。友人はたくさんできたし、学校もそこそこ楽しかった。でも僕は一人ぼっちだった。
心はいつも国東にあった。国東は僕のたった一つの故郷であり、二度と戻れない世界であり、澪そのものだった。
別府の後ろの家へ越してきてから、2ヶ月ほど経った頃、澪から電話があった。僕はまだまだ子供で、電話で誰かと話すことなどほとんどなかったから、電話口で悲しいほどに緊張してしまった。おかげで会話らしい会話にもならなかった。
澪も同じだったらしい。
お互い元気かどうか確かめただけで、会いたいという気持ちを伝えられず、もどかしさだけが残った。
それからは、家族連名の暑中見舞いと年賀状だけの関係になっていった。
僕は季節が過ぎ行くたびに国東の風景を思った。たまたま国東と似た景色を探し当てると、そこが僕のお気に入りの場所になった。
相変わらず風の香りの中に国東をふと思い出すことがあった。そのたびに澪のことを思った。
中学3年の終わりに、新聞を見ていた母が言った。
「澪ちゃん、国東中央高校へ受かったみたいよ」
当時の新聞には、県下のどこの中学のだれそれが、どの高校へ受かったという名簿が3月になると必ず掲載されていた。僕はとっくに新聞を見て、澪の名前を見つけていた。
いまさら母から言われるまでもない。僕から故郷を奪っておきながら、いまさら母から言われるまでもない、そんなふうに思った。
別府への転居は仕方のなかったことだということも当然理解はしていた。だが、新聞に澪の進学先が載っているなどと僕に伝える気配りができるほど、僕が澪を忘れられないことが分かっていたのなら、何か事前の策があっただろうと思った。
たとえば定期的に国東へ遊びに行く、つまり澪に会える方法とか、そんな傷ついた心の逃げ道くらい僕に用意してくれていても良かったのではないか。
そもそも、もっとずっと前から別府へ移るということを打ち明けてくれても良かったのではないか。そうしないことが、たとえ、僕の悲しみの期間を少なくするための母の思いやりのつもりであったとしても。
もちろん、それが子供っぽい言いがかりに近いものだということも分かってはいた。
僕は子供だった。だから、一人前に扱ってもらえず転居の話など直前までする必要はないと判断したのだろう。国東に残してきた気持ちなどすぐに忘れるものと思ったのだろう。でも、悲しい気持ちだけは一人前に残ってしまったのだ。
僕も澪も子供だった。自分たちだけでは動きようがなかった。だからそれを慮り、何か手伝ってくれることが母親としての役目ではないか、そう思っていた。
ただ、僕のこういった思いは母の前では巧妙に隠していた。だから母は、なぜ僕とどんどんうまく行かなくなるのか分かってはいなかっただろう。
高校のとき、やはり僕は一人ぼっちだった。友人はたくさんできたし、学校もそこそこ楽しかった。でも僕は一人ぼっちだった。
徐々に大人になりつつあった僕は、恋人と楽しげに語らう友人たちを見ながら、いつも澪のことを考えていた。
秋が来て穏やかな風が吹き抜けると、僕は国東を思った。
肌寒くなり、冬が来てクリスマスになっても、僕は自分の部屋の窓から夜に沈んでいく別府の景色を見ながら遠く澪のことを思った。窓を挟んで遠い向こうにいる澪のことを思った。
澪は今どんなクリスマスを過ごしているのだろうか。
いつか再び会える日が来ることを冬の空に祈った。
別れの日に澪から渡された胡桃の実をそっと握った。
大学受験が終わり、やはり3月の新聞には県下のどこの高校のだれそれがどの大学に合格したという一覧記事が掲載されるようになった。だが、僕は澪の名前を探さなかった。もう、忘れなければならない人なのだと思っていた。
春。
何とか東京の志望大学に受かった僕は、吉祥寺の外れにアパートを借りた。
季節はゆっくりと過ぎ、東京で迎える初めての冬が来た。商店街からは、クリスマスソングが聞こえ始め、ケーキを焼く匂いがし始めた。
国東から、澪のいる小さな町から、さらにさらに遠くへ来てしまった。
大学にも街にも着飾った素敵な女性はたくさんいる。なぜ、僕はこんなにも澪にこだわるのだろう。
そんなことは分かりきっている。それは澪が故郷そのものだからだ。忘れられるはずなどなかった。
そんな時、母から電話があった。
「昨日、澪ちゃんから電話があったから、シュウのアパートの電話番号教えておいたよ」
「澪ちゃんから?」
「そう。澪ちゃんも東京の大学に行ってるみたいよ。シュウの連絡先を教えてほしいって」
驚いた。それでも平静を装いながら僕は母に聞いた。
「で、向こうの連絡先も聞いてくれたの?」
母は聞かなかったと言った。単に聞き忘れたらしい。
要はその程度なのだ。もはや僕にとって澪が特別な存在だなどと思っていないに違いない。いや、最初からそんなことは思ってもいなかったのだろう。だからそんな重要なことも聞き忘れたのだ。
僕は、まるで、そうしなければいけないことかのように、どんどん母が嫌いになっていく。
子供だからすぐに忘れる、そう思って突然僕から澪という故郷を奪った。
僕が澪の話をしなくなったから、自分の思ったとおりにやっぱり忘れたと考える。喪失感のみが僕の心に残ってしまったことも知らずに。
そんなことを考えながら、電話を切った。
だが、澪が今でも僕を忘れずに覚えていてくれたというのは嬉しかった。しかも、電話番号を聞いてきたというのだから、そのうち電話がかかってくるに違いないと考えると、期待でいっぱいになった。
一方で、僕が東京に出てきていることを知っていたのなら、どうしてもっと早く僕の連絡先を聞かなかったのか、少々不満にも思った。
澪からの連絡は期待以上に早くやってきた。翌日の午後4時頃に電話が鳴った。
「はい。笹井です」
「シュウくん?」
電話の向こうから若い女性の声がした。わずかに、いや確かに聞き覚えのある声だった。
「桜木です」
澪だった。
「大人の声になったね」
澪は言った。声変わりした僕の声を澪は初めて聞いたのだ。
「同じ東京にいることは知ってたの。ずっと連絡しようと思ってたんだけど、シュウくんにはなんだか冬のイメージがあるの。だから」
澪の言葉は、弁解めいてはいたが嘘とも思えなかった。澪がいつも冬に白っぽい服を着ていたことから、僕も澪には雪や冬といったイメージがあった。
確かに、久しぶりに会うのなら、冬がいい。
とにかく僕は、電話のままで終わらせたくなかったので、すぐに会う約束を取り付けたかった。
だが、澪と最後に会ってから6年以上が経過している。澪がどのように成長したのか知ることが怖くもあったし、僕が澪の思っているイメージと違いすぎて失望されることだってあるかもしれない。そう思うと 中々切り出せなかった。
だが、澪はそんなことはまったく気にしていないようで、
「私は三鷹の学生寮に居るの。門限が午後9時で早いんだけど、シュウくん吉祥寺でしょ?会えない?」
三鷹はJR中央線で吉祥寺駅の隣だ。
「会いたい。今日これからでもいい?」
「いいよ。6時に吉祥寺で会う?」
「じゃあ、井の頭線の改札前で待ち合わせにしようか?・・・いいかな?」
「わかった。じゃあ、待ってる」
そういうと澪は電話を切った。先ほど帰路についた者同士が次の約束を取り付けるかのように、すべてが自然に決まった。
澪と過ごした6年の歳月が、澪を忘れようとしていた6年の歳月を駆逐し消し去った。あっという間に。
これには澪の気配りも関係しているのだろう。澪は、あえて時間の流れを感じさせない話し方を選んでいたように思えた。
だが、ふと、心配にもなった。6年の歳月を経て、果たして雑踏の中からお互いを見つけ出すことが出来るだろうか?何か目印になるものを持っていこうと提案すべきだったか。
いや、たぶん、大丈夫だろう。6年間どんな季節のどんな日でも想い続けた女性だ。見分けられないはずがない。そう考えると僕は丁寧にヒゲを剃り、髪型を整え、なるべく清潔に見える服を選んだ。
そのとき、空間が揺らいだ。
僕は大学生の僕に同化した。
外は、冷たい雨だった。だが、黒のロングコートを羽織ったので、さほど気にはならなかった。僕は透明のビニール傘を持って、10分前には着けるように待ち合わせ場所へ向かった。
澪はJR中央線を使って吉祥寺まで来る。だから、JR中央線の改札前の方が便利なのだが、あいにく改札口が複数ある。待ち合わせ場所は一言で伝わる分かりやすい場所がいい。だから改札口がひとつだけの井の頭線を選んだ。
時代はデザイナーズブランド花盛りで、若者は皆エキセントリックなファッションに身を包んでいる。特に吉祥寺は若者で賑わう街だったから、僕は自分の服装が地味すぎるのではと心配になった。澪が思い切りおしゃれをしてきたら不釣合いなカップルになってしまうな、などと考えながら、待ち合わせの改札口へ向かう階段を上った。
階段を上りながら、つい、後ろ向きな考えばかりが浮かんできた。
急用が出来て待ち合わせ場所に澪が来られなくなったとか、人が多すぎて会えないまますれ違ってしまうとか。
だが、階段を上りきると、すでに澪はそこに居た。大勢の人間が行きかう中で、ベージュのコートに茶色のミニスカート、薄いピンクのチェック模様のマフラーをした澪がそこに立っていた。
当時の若者ファッションに比べると、おとなしい格好ではあったが、すらりとした体形と色白で整った顔立ちのおかげで、よく似合っていた。雑踏の中に咲いた白い花のように見えた。
澪はやはり美しいまま、あの頃よりも美しく成長していた。
澪も僕を見つけると、小さく手を振る。
別れの日の水辺のシーンを思い出す。
6年間止まっていた時計が再び刻み始めたような、そんな瞬間だった。
「身長、伸びたね。ずいぶん男らしい顔立ちになったわ。でも、すぐにわかった。ちょっと痩せすぎかな?ご飯、ちゃんと食べてる?」
澪は少し覗き見るような仕草をして、次々と言葉を重ねてきた。
「僕も、君の事はすぐに分かったよ。昔のイメージのままだから」
短い沈黙があった。
「ふぅん。シュウくんって私のこと、君って呼ぶことにしたんだ?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
ながく会っていなかったから、照れくさかったんだと言い訳をした。
「なんだか、他人行儀な感じ」
「昔どおり、澪ちゃんって呼んでもいいのかな?」
「それがいい」
そう言うと、澪はそうすることが当然なように手をつないできた。僕の中で止まっていた時が再び、そして確実に動き出した。
僕らは狭い路地の中程にある『西洋乞食』というカフェバーを選んだ。
カフェバーというのは80年代に流行した喫茶店の一形態で、日中メニューは普通の喫茶店と変わりないが、夜にはカクテルなどの酒類を飲むことができる。吉祥寺には学生に人気の高い洒落たカフェバーが多かった。
『西洋乞食』店内は照明が抑えられて、そこかしこにアンティックな置物が装飾として置いてある。テーブルや椅子は木造りで一つとして同じものはなく、いずれも敢えて古風な雰囲気で拵えている。1900年代初頭のフランスの高級カフェといった印象で統一しているのだろう。
僕は落ち着いた雰囲気のこの店が好きで、一人でもよく利用していた。店内の一席は、椅子が天井からつるされた古めかしいブランコになっていて、カップルには人気の高い席だった。その日は運よく空いていたので僕らはその席に決めた。
ブランコの椅子に揺られながら、僕はアイスコーヒーを飲んだ。澪はアイスレモンティーを飲んでいた。
「持ってきた?」
澪はブランコの椅子を揺らしながら、僕を試すようにイタズラっぽく言った。
すぐに何のことか分かった。
「持ってきたよ」
僕は、別れの日に澪から渡された胡桃の実を、ポケットから取り出して澪に差し出した。澪は受け取ると言った。
「私が持ってていい?」
僕が頷くと澪は胡桃の実をしばらく見ていた。そうして、
「やっと一人じゃなくなったね」と言いながらハンカチに包んで、大事そうにそっとバッグの中に仕舞い込んだ。
その言葉は、胡桃の実に向けてのものか、自分自身に向けてのものか、僕に向けてのものだったのか。
いずれであっても、失われた6年間すべてを穏やかに忘れさせるような響きがあった。
「あの日からずっと会いたかったんだけど、不安になるときもあって・・・」
「不安?」
「それはね。シュウくんが私のことを忘れてるかもって不安」
実際にはそんなことは一度もなかったし、そんな不安なら僕も同じく持っていたのだが。
「だからね。今度会うときは大人の冬にしようって決めてたの。何があっても受け止められるようになってなきゃって。だって、ね?」
きっと、泣き出したら恥ずかしいとか、そんな言葉を飲み込んだのだろうか。僕らはまだまだ大人というには若すぎたが、別れの日の二人と比べれば十分大人と言えただろう。
澪らしいと思った。
あの頃の面影そのままの澪が、今、目の前にいて・・・。
僕を通して想い出を見るかのように、柔らかな視線をこちらに向けている。
「僕に、冬のイメージなんてあるの?」
「シュウくんとの印象的な思い出が冬に多かったからかな?・・・だから季節は冬。私には春や夏よりも冬の再会がロマンチックなの」
容姿に反して澪には、こういったまっすぐで、今なら子供っぽいと表現できるようなところが昔からあった。僕は頷きながら聞いていた。
「それでね。一緒に冬を越えて春を迎えるでしょ?そうするとレンゲ畑には冬の名残の白いレンゲ草が咲くの。二人でまた見られたらいいな」
「このあたりにレンゲ畑なんてあるのかな?」
「ないかもね。でも春になったら二人で東京中を探し歩くのも素敵じゃない?」
「そうだね」
素敵な提案だと思った。
「そんなふうに考えてくれてたなんて、ちょっと驚いた」
「どうして?」
「忘れられてると思ってたから」
「シュウくんは私のこと、忘れていたの?」
「いや、ずっと考えてた。今、何をしてて、何を思っているのかとか。・・・中学、高校とずっと」
「おんなじよ」
「でも、もう会えない人だとも思ってた。だから、澪ちゃんのことは忘れなければいけないんだと考えてた・・・」、「これは謝らなきゃいけないことだよね」
「私はね。いつもシュウくんのいる別府の空を思ってた」
「どうして空なの?」
「だって、空には邪魔する物がないじゃない?羽があれば飛んで行けるもの」
「そうだね。国東と別府って地続きなのに、たしかに、空の方がつながってる気がしてた」
「でしょ?・・・それで、クリスマスには、空を見ながら部屋の窓のずっと向こうに住んでいるシュウくんのことを考えていたのよ。いつか、かならず会えますようにって祈ってた」
僕らは意図せず同じことをしていた。
一人きりのクリスマス。ずっと、そう思っていた。でもそうではなかった。窓を挟んで祈った夜の一つ一つも、二人だけのクリスマスだったのだ。
8時半が近づいてきた。澪の学生寮の門限が9時なので、帰り支度を始めなければならない。
僕は『西洋乞食』を出ると、迷わず澪を学生寮まで送っていくことに決めた。吉祥寺から三鷹の学生寮までは、無理せずに歩いていける距離だった。澪も電車を使わずに歩いて帰りたいと言った。
相変わらず外は冷たい雨が降っていた。澪は傘をささずに持ったまま、別府での雪の日と同じように、僕のビニール傘の中に入ってきた。
しばらく二人は、手をつなぎながら肩を並べて歩いた。
「うん、変わってないね。安心した」
澪はそう言うと、ビニール傘の右端へ手のひらを当て、軽く僕の方へと押し返した。
「左の肩が傘からはみ出てるよ。濡れちゃってるじゃない」
気がつかなかったが、確かに僕の左肩は冷たい雨にぬれていた。
空気はすぐに雪に変わってもおかしくない肌寒さだ。
「寒くない?」
僕は聞いた。
澪はすぐには答えず、手をつないだままの左手を僕のコートのポケットに入れてきた。
そうして
「暖かい」
歌うように言った。




