2.始発電車
今日もまた5時10分の始発電車で出勤する。
十一月。
冬が近づいてきた。太陽も顔を見せるのが遅くなり、家を出るときでも真っ暗なままになった。翔太は8歳になった。僕は、彼のために長生きをしなければならない。少しでも長く生きて彼の成長を見届けなければならない。せめて、彼が大空へ羽ばたき、自由に飛べる日が来るまで。
僕は、とにかく家族を養うためだけに会社へ通う姿勢を貫く。そうすれば、過度なストレスは抑えられ、それだけ長生きできるはずだと信じ込むことにした。仕事に対する情熱や興味が、まるで夢から覚めたように突然無くなった。付き合いや会社帰りの寄り道もすべてやめた。家に仕事を持ち帰ることも一切やめた。 趣味にお金や時間を費やすこともやめ、自分のために何かをするという気持ちもきっぱりと捨てた。夜や休日はなるべく妻を休ませ、翔太の相手は僕が行なった。妻にも元気でいてもらわなければならない。
会社の仲間からは、無趣味で付き合いも悪く退屈なやつと言われることもあった。しかし、これが自ら定めた約束事だ。たとえ悲しく見えたとしても、これが僕の生き方だ。
そして、秀人にはそうした僕の覚悟を悟られないように努めた。彼には彼の人生があり、何かに縛られることなく自由に生きてほしかった。いずれ、明らかにしなければならない運命のためにも。
始発駅の始発電車の中、ゆっくりと発車時刻を待つ。
開いた4つの扉の内側から外をぼんやり眺める。
僕は扉の外を行く人たちを眺めながら考える。
彼は見たことがある。
彼女ははじめて見る。
車両の中には大体いつも見る顔ぶれが座っている。そして、ホームではやはりいつも見る顔ぶれが、別の車両に乗るために歩いている。
彼らは皆、人並みの幸せを手にしているのだろう。
それを指の隙間からこぼれ落としたくせに、僕だけがこの空間に紛れ込んでいる気がした。
僕は劣等感に満ちた孤独者だ。
誰もが人並みの幸せをたやすく手に入れているのに、僕にはそれが出来ない。
もしかすると、彼らにだって深い悩みがあるのかもしれない。彼らはそれを内に秘めて平静を装っているだけなのかもしれない。
そうかもしれないが、僕の心にはそれを肯定できるほどの余裕はない。なぜならだれも皆、悲しい表情などしていないではないか。
青いベストの体格の良い男もその1人だ。年齢は40歳そこそこといったところだろう。彼は、そのベストと淡いピンク色のシャツ、形よく整えたヒゲのおかげでよく目立つ。彼は夏の間もその格好だった。これから、真冬が到来してもそのままなのだろうか。それともジャケットやコートを羽織るのだろうか。
体格の良さとヒゲのせいで、一見するとして柄が悪そうに見えるが、反してその瞳には穏やかな色が宿っている。
彼の仕事はなんだろう。これから出勤だろうか。それとも夜の仕事が終わって帰宅するのだろうか。あの服装は勤務先の制服なのだろうか。
彼は僕の乗った車両のひとつ後ろの車両に乗る。
いつものことだ。そこまでは、分かっていた。
そのうち印象的な短い音楽が響く。
人々の動きがあわただしくなる。
すぐそばで空気を吐き出す音がする。
扉が閉まり、風笛の音がゆっくりと和音を重ねていく。
電車が動き出す。
僕の人間観察の時間はそこで終わった。
1ヵ月後は翔太の発表会だ。神奈川県下の支援学校や支援学級の子供たちが、年に一度、学校ごとにダンスや音楽の演奏などの練習成果を披露するのだ。
翔太は癇癪持ちで、ちょっとしたことで機嫌が悪くなる。原因はどこかに足の指先をちょっとぶつけたとか、虫が飛んできたとか、ほとんどがそんな些細なことだ。だが、自分の意思を言葉で伝えているつもりでも、発声が悪いため機嫌が悪くなった原因がなかなか僕ら夫婦には伝わらない。それが余計いらいらするらしい。
壁や床に自分の頭をぶつける。ベタッと床に寝そべって何も言うことを聞かなくなる。あの手この手で無言の主張を行なう。
そんな時は、子供言葉で「ちっちゃいことを気にしゅるな」といって頭をなでてやる。それでも機嫌が良くならないときはくすぐって無理やり笑わせる。それでもダメならそのときそのときでお気に入りの歌を歌ってやる。
そういった試みが奏功するのはまれだが、何もやらないよりはましだと思っている。
そんな翔太も、発表会に向けては学校でもちゃんと機嫌よく練習しているらしい。
「みんなより派手に踊っていたわよ」
これは妻の言葉だ。
「ね、ねぇ」
これは翔太が自分に注意を向けさせるときの合図の言葉だ。
「ね、ねぇ」の後に明瞭な言葉が続くことは少ない。その代わり、学校での練習成果を見せてくれる。
自分でタブレット端末を操作して、流行のアニメソングを選び出す。好きなことは僕よりも覚えるのが早い。
小さな体が音楽にあわせ動き始める。右手を上げたり、両手を挙げたり、腕を組んだり、体をひねらせて時計を見るしぐさをしたり、全体の流れは良く分からないが、これが発表会で披露予定のダンスらしい。
僕はその一生懸命さが嬉しくて思わず顔を緩ませる。
「上手だねぇ」といって拍手する。
翔太は一層ご機嫌になってタブレット端末をいじりながら何度もダンスを繰り返す。
「ウォッチィ!」
「ウォッチィ!」
翔太が繰り返す言葉は、その曲かアニメの題名らしい。
発表会が楽しみだ。1ヵ月後にはさらに上手になっているだろう。翔太だってやれば出来るのさ、そう思いたい。
早朝の通勤電車は順調に動いている。会社までは2時間程度の道のりだ。乗換えがないのでずっと寝ていられることだけが救いだ。
今日は翔太のダンスを思い出し退屈な通勤電車の中でもずっと起きていた。発表会の舞台で翔太が嬉しそうに踊っている姿を想像した。
それは翔太の背中に生えかけた小さな翼だ。いつか大空へ羽ばたくための、始まりの翼だ。
だが、一方で暗い想像が浮かび上がり、僕の気持ちは沈んでいく。
その翼は、はたして飛べる翼なのだろうか。




