14.二つの腕時計の女性
何日か後の夕方、山崎が電話をかけてきた。
『実は、あの黒幕の女に声をかけてみようと思っていまして』唐突に話を始めた。
僕はまだ社内で会議中だったので、小声で答えた。
「どういう、心境の変化ですか?」
会議に同席中の社員達が、訝しげな表情でこちらを見ている。
僕は、軽く会釈すると会議室から出て、再び電話口の山崎に問いただした。
「どんな心境の変化があったんです?」
『いえね。あの世界でちょっとした進展があったんですよ』
「どんな?」
山崎は僕の質問には答えず逆に質問してきた。
『笹井さんはあの世界へは何度行きました?』
「4回くらいだと思います」
『それなら、もう少し先のことでしょう。自分は今朝で9回になったんですよ。里奈の時計は9時を指しています』
壊れていた時計が、過去の扉の向こうのあの世界では時を刻む。それは一回の訪問につき一時間。山崎が以前言った言葉を思い出した。
「確認していいですか?里奈ちゃんの時計を見つけた時、里奈ちゃんの時計は何時だったんですか?」
「夕食後ですから7時頃です。すでに先日お見せしたとおりの状態で、7時あたりを指して壊れてたんですよ。だから、まあ、普通は動くはずはないわけです。でも、あの世界では時を刻むんです』
「ええ、壊れた時計が動き出すというのは、最初に山崎さんとお会いしたときに聞きました」
『そうでしたね。で、あの世界では壊れていても、リセットされてたぶん12時からスタートするんです。最初にあの世界から戻ったときには1時を指していましたから』
僕のうかつな質問のせいもあって話が横道にそれてしまった。なかなか本題へ進まない。多少歯がゆい思いもあったが、会議中だということも気になった。
それに例の女性にも話を聞いてみよう提案は、以前僕から山崎にしたものだ。反対する理由はない。
「わかりました。では、明朝ホームで落ち合いますか。それで、その女性が降りたら声をかける。それで良いですか?」
「記憶にない人間が出てきたんです」
翌朝の始発電車の中で山崎が小声で言った。僕がいつも乗る車両のひとつ後ろで山崎と僕は並んで座っている。
「私の行った世界でもすれ違う人なんかは、記憶にない人ばかりですよ」
「じゃあ、言い方を変えましょう。えっとですね。いかにも意味深な浮世離れした格好の人間が出てきて自分をじっと見つめていたんです。微笑んでいたといっても良い。これがドラマや映画だったら終焉への伏線と考えておかしくない登場の仕方ですよ」
「そもそも、その人物はどっちの山崎さんを見ていたんです?」
これは、あの世界の中に紛れ込んだ現在の山崎を見ていたのか、過去の世界の山崎を見ていたのかという意味だ。
山崎は質問の意図を正確に理解した。
「過去の自分の中にいる今の自分を見つめていました。感覚ですが確信できますね」
「で、それが、過去の扉を開いた回数と何か関係があるんです?」
「分かりません。ただ、これがドラマだったら最終回が近いってことですよね。その予告かなと。これ以上、過去が進むとあの日を追い越してしまいますからね」
「私の世界でも出てくるんでしょうか?」
「それも分かりません」
「それで、その記憶にない人物とは会話をしたんですか?」
「あっ」と言って山崎が目で合図してきた。
今、ホームを横切って後ろの車両へ乗り込もうとしている女性を見ろという意味だ。
山崎が以前言っていたとおり年齢は20代前半くらいか。細身の長身の女性だ。確かに両腕に腕時計をしている。
「今、声をかけますか?」
「とりあえず、見失わないように同じ車両に乗りましょう」
山崎の提案で、その女性の乗った車両へ移ることにした。すでに、ホームでは短い音楽が響いている。
彼女は今まで僕らがいた車両よりも2つ後ろの車両に座っていた。僕らは慌ててその車両に乗り込む。
そのとき、彼女が僕の方を見て眉根を寄せたような気がした。
すぐそばで空気を吐き出す音がする。
扉が閉まり、風笛の音がゆっくりと和音を重ねていく。
電車が動き出す。
やや茶色に染め肩に届くか届かない程度の長さの髪、卵型の輪郭をした小さな顔に細い目、堅い会社で働く、できる社員といった印象だ。
ほどなく、その女性は右腕の時計を気にするそぶりを見せ始めた。報せが来たのだろうか。彼女は稲川台駅で下車した。
「行きますよ」
山崎は席を立ちながら僕に言った。
僕らは、彼女が改札を出ないうちに声をかけるつもりだ。
山崎が、
「すみません!」と、以前僕が山崎に声をかけたのと同じ調子で呼びかけた。
その女性は声をかけられるのを覚悟していたかのように振り向く。
「自分はこういうものです」
山崎が名刺を差し出す。
彼女は山崎の名刺を受け取り、興味なさそうに一瞥すると僕を見た。
「えっと、この人は・・・」
山崎が僕のことまで紹介し始めたので、その言葉を引き取りつつ、僕もいつもの癖で名刺を差し出す。
「私は笹井と言います。山崎さんとは不思議な体験が縁で行動をともにしています。その不思議な体験のことであなたにも聞きたいことがあるのですが」
彼女はまったく不思議そうな顔をしていない。むしろ予想通りといった顔だ。一瞬、山崎の言った『黒幕』という言葉が頭をよぎった。
「あたしは、中川と言います。中川冬実です。お二人の聞きたいことは、たぶん分かります。タイムスリップのことですね?」
「タイムスリップ!?」
「違うんですか?」
過去の扉を開くことを、彼女はそう呼んでいるらしい。
僕は、そういう言葉で表現すると消えてしまうような、脆くてどこか精神性の高い現象だと考えていた。中川冬実がそのような通俗的な言葉で表現したことに違和感があったが、どんな言葉で呼ぼうとそれは自由だ。現象の呼び名はさておき、僕は頷いて肯定した。
山崎は体格に似合わず遠慮勝ちに、
「今から、えーとタイムスリップでしたっけ?それへ向かわれるところ、申し訳ありません」と、あなたの行動は分かっているというように言う。
「自分らもそのタイムスリップの経験者でして、出来ればあなたの話も聞いてみたいんです。ちょっと待合室でお話しする時間はありますか?」
「短時間なら大丈夫です。タイムスリップは改札を出るまで待っていてくれるはずですから」
おそらく検証済みなのだろう。中川冬実はそう答えるとホームの中央に設置された待合室へ向かった。
僕と山崎はあっさり承諾を得られたことに、なんとなく拍子抜けした気分を味わいながらも彼女の後をついていった。
早朝の駅なので、ホームにちらほら人影がある程度で、待合室には僕ら3人以外にはいない。事前の打ち合わせで質問役は山崎と決めてあった。
「えーっと、タイムスリップですか、それができるようになったのは何かきっかけがありますか?」
すると中川冬実は僕を見て、
「笹井さんでしたっけ?笹井さんの方がお詳しいんじゃないでしょうか?」
「えっ!?」
意想外の指摘だった。過去の世界の扉を開いたばかりの僕が、中川冬実より詳しいなんてことがあるはずない。
「あたしは、そちらの方が時空をコントロールしているのではないかと思っていたんですが」
その言葉に山崎までもが疑惑の目を僕に向ける。
「いえ、私にはそんな力はありません」
僕は半ばむきになって否定した。
「ストップウォッチみたいなものを持っているでしょう?それで何かやってるんじゃないんですか?」
「持ってるんですか?」
山崎が詰問口調で聞いてきた。仕方なく僕はスーツの左の内ポケットから鈍い金色の懐中時計を出した。
「これですか?これはストップウォッチじゃなく懐中時計ですよ。もう、壊れていて動きませんが」
この懐中時計は父から譲り受けたものだが、特に値打ちがあるものでもなんでもない。金箔を貼り付けたものでもなく、たんなる金色塗装だ。高校時代に、ただ、人より目立ちたいというだけの理由から使っていたものだ。いつの間にか壊れてしまい、振ると内部で部品がカラコロと転がる音がするようになった。ずっとガラクタとして自宅のダンボールに仕舞ってあったものだった。
それをある時、捨てようとしていたら、くるみの目に留まり、すぐに気に入ったらしく、
「それちょーだい」と言って欲しがった。
「これ壊れているけど、いいの?」
「いいの。くるみにちょーだい」
当時、お気に入りだったアニメの魔法のコンパクトに似ているというのが理由だった。
そのときから、くるみがオモチャがわりに身に着けて遊んでいたものだ。
蓋の裏側には、くるみの写真が接着剤で貼り付けてある。鏡に映ったくるみの顔をイメージできるように、僕が貼ってあげたものだ。文字盤のガラス面には赤や緑の油性マジックで星型だとかハート側のくるみなりの装飾が隙間なく施されている。そのため、文字盤はすでに見ることが出来なくなっていた。
そして、くるみを亡くすと同時に再び僕の手にくるみの遺品として残された。その日から僕は肌身離さずこの懐中時計を持ち歩くようになった。会社に行くときも、スーツの左胸の内ポケットに必ず入れるようになった。
それは、居なくなってしまったくるみとの絆として僕の日常になった。
翔太が生まれて将来の不安に苛まれるようなとき、思わず電車に乗っていられなくなって途中下車してしまったとき、懐中時計の蓋を開けてくるみの写真を見た。
「くるみ。君の一番下の弟を見守ってくれ」
こう呼びかけると不思議と気持ちが落ち着いた。そういった由来のものだ。
たぶん、そんなことをしている僕の姿を見て、中川冬実は僕や山崎と同じように、興味を抱き、僕の行動を監視したのだろう。結果として彼女だけが過去の扉を開いてしまった。
僕の持つ懐中時計は、中川冬美の言うタイムスリップを引き起こすような未来的な道具ではもちろんありえない。親指で開閉ボタンを押すと蓋がカパっと開いた。くるみの笑顔の写真が目に入る。
「あれ?おかしいな」
「どうしました?」
山崎が聞いてきた。
「いえ、文字盤が見えるんです」
くるみの落書きで文字盤が見えなかったはずなのだが、今は落書きがきれいに消えており、文字盤が見えている。それは5時を指して止まっていた。
もともとが何時で止まっていたのかすでに記憶にはないが、山崎の言うとおり12時から始まるのだとすれば、すでに5回は過去の扉の向こうへ行っていることになる。
扉は4回しか開いていないはずなので、これは過去の自分に同化した回数が一時間刻みで記されたと考えたほうが良さそうだ。最初の体験のとき、僕は2回過去の自分に同化した。
山崎の娘の時計を見せられたとき、中川冬美の右腕の時計の話を聞いたとき、僕がこの懐中時計を思い浮かべなかったと言えば嘘になる。
過去の扉の向こうで時を刻む音がしたのも、おそらくこの懐中時計が動き出した音であろうことも、山崎からの情報を元に予想はしていた。
過去の扉が開く予兆として胸が熱くなるのも、この懐中時計が熱を帯びてくるのだということは分かっていた。山崎の娘の時計を見せられた時、とんでもなく切ない気分になって胸を押さえたのも、今となっては唯一のくるみとの絆である懐中時計が脳裏に浮かんだからだ。
しかし、うかつにも僕はずっと文字盤が見えないものだと信じていた。だから、この懐中時計をわざわざ開けて検分しようという考えには至らなかった。
僕が思いに沈んでいると、山崎は思い出の品としての時計がこの現象に関係すると確信したらしく中川冬美に聞いた。
「その右腕の時計には何か意味がありますか?」
中川冬美は、まるで台本があるかのように、静かに淡々と答えた。
「あたしには双子の妹がいました。着る服も食べ物の好き嫌いも何もかも一緒でした。でも7年前に妹は亡くなりました。あたしは、もう1人の自分を無くしたんです。なぜあたしだけが生きているのか?なぜあたしだけが生き続けなければならないのか?生まれたときも同じ。行動もいつも一緒。でもあたしだけが取り残されたんです」
山崎は言った。
「気持ちは分かりますが、あなたにはあなたの人生があるのでは?」
「何がわかるんですかっ!」
中川冬美が、突然ヒステリックに反応した。山崎も僕も思わず一歩下がってしまうほどの剣幕だった。
しかし、中川冬美はすぐに、「大きな声を出してすみません」と頭を下げると、また静かで淡々とした口調に戻った。僕は、まだ心臓の鼓動が体中で響いている。
「そうですね。そう考える人もいますね。でも、ずっと二人でいろいろな理不尽を乗り越えてきました。二人で一人だったんです。そんな中で、あたしには別の人生があるなんて割り切れません」
そうして、少し間をおいて続けた。
「この人生にあるのは、悲しみ、喪失感、孤独感、孤立感、心細さ、そんなものばかりです」
山崎は無言になった。少し前に人の悲しみの深度は人それぞれだと彼の口から聞いたことがある。山崎はそれを考え何も言えなくなったのだ。
中川冬美姉妹が、どのような理不尽を味わいながら生きて来たのかは分からない。だが、その言葉が今でも自然に出てくるほどの何かを乗り越えてきたからこそ、痛みはより深く刻まれたのだろう。
「この右腕の時計は妹が高校時代にしていたものです。今は遺品としてあたしが妹の分までしています。今でも妹とともに生きているという絆です。タイムスリップが起きるときはこの時計が熱くなるので分かります」
いちいち頷きながら、山崎は自分が一番気になっているであろうことを口に出した。
「親しげな微笑を浮かべた人間が、タイムスリップの世界に出てきませんでしたか?その人間はどうみても浮世離れした格好の人間です」
「使いの人のことですね。出てきましたよ。ただ、あたしには天使のように見えましたけど」
「使いの・・・。天使か」
山崎は呻くようにつぶやくと黙り込んでしまった。それを会話の終わりと受け取ったのか、「じゃあ、あたしはもう行きます」そう言うと、中川冬美はさっさと改札の方へ歩いて行った。
こんなにあっさりと中川冬美との話を終わらせて良いのか。まだ聞かなければならないことがあるのではないか。僕は、そんな気持ちを持ちながら山崎の顔を見た。
だが、山崎はどうするつもりもないらしく、動かないままだった。そのうえ、何かを納得した気配すら表情に漂わせていた。ならば、後で山崎に聞けばいくつかの疑問は氷解するのだろうと思った。
中川冬美が改札を出て行く姿は待合室からも良く見えた。ところが彼女は、早朝の暗闇へ消えて行きそうになった瞬間、くるりときびすを返すとまた戻ってきた。改札を再び通過して、いまだまばらにしか人のいないホームへ入って来る。
そのとき僕は、中川冬美の表情が先ほどとは違い、どこか異常で心ここにあらずという様子なのに気づいた。と言って、そのことについて、あまり深く考えはしなかった。何かを言い忘れて戻ってきたのだといった程度にしか思っていなかった。
山崎にしてもそうだっただろう。
だから、改札を通ると、中川冬美はまた僕らのいる待合室へ向かって来るものだと思っていた。だが、中川冬美はこちらへは向かって来ずにそのまま、ホームの先頭へ行ってしまった。
そのとき、急行電車が後方から入ってきた。この駅では急行電車は止まらないのだ。電車がスピードをさほど緩めずホームを通り過ぎようとしたとき、ホーム上から中川冬美の姿が消えた。そのまま線路へすっと倒れこんだように見えた。
途端、何か鈍く大きな衝撃音やはじける様な音ととともに、先頭車両が上下に揺れた。電車の急ブレーキの甲高く耳障りな金属音が長く続いた。おかげでその他の聞きたくない音を聞かずに済んだ。電車の最後尾がホームぎりぎりでやっととまった。
すぐに駅員があわただしく動き出し、
「ただいま、当駅にて人身事故が発生いたしました。これより負傷者の救助を行ないます!」
「ただいま、当駅にて人身事故が発生いたしました。これより負傷者の救助を行ないます!」と駅内放送が繰り返し鳴り響いた。
「救助」という言葉が、僕の耳に奇妙な響きで届く。あの状況で、果たして救助など可能なのか?僕はただ、その言葉の無意味さに慄いていた。青いビニールシートやポリ袋を持つ駅員が次々とホーム先頭へ走っていく。
「笹井さん!」
山崎があまりの衝撃に蒼白となった顔で僕を振り返る。目は大きく見開き、充血している。僕も同じ表情をしていることは間違いない。
「どうして、こんなことが・・・」
僕は涙がにじんでくるのを感じた。がたがたと震えがとまらない。見れば山崎も目尻に涙をため、全身を小刻みに震わせている。その上、衝撃のあまり吐き気をこらえている様子だ。
「なんてことを!なんてことを!」
ただ繰り返している。
「山崎さん、とにかく駅から出ましょう!」
もちろんこんなショッキングなところから早く抜け出したいというのが本音だが、山崎の動揺があまりに大きかったので冷静にさせたいというのも理由の一つだった。
それでも、気丈に山崎が言う。
「自分らも、目撃者として残っておいたほうが良いんじゃないでしょうか?」
「ホームには私たちよりも近くで見ていた人がいるでしょう!必要ないです。こんな凄惨な場所からは一刻も早く離れましょう!」
すでに亡くなっただろう中川冬美には申し訳ないと思った。
だが、幸い、山崎は僕の提案に同意して、走るように改札から出た。早朝の空はまだ真っ暗だった。
24時間営業のファミリーレストランを探し、何とか席に着いた。僕は二人分のホットコーヒーを注文すると、とにかく気持ちを落ち着かせた。
「あの状況で負傷なんて・・・。救助ってなんですか?」
山崎が分かっていながらも言う。
僕は思い出したくなかったのでそれには答えず、
「さっきまでは、私達との会話が引き金になって飛び込む決心をしたのかな、とも思っていたんです。それで私達が声をかけなければこんなことにはならなかったのでは?とも考え、いたたまれない気分にもなっていたのですが・・・。でも彼女のどこか諦観した様子から推測すると、たぶん彼女はこうなることを知っていたのではないでしょうか?」
僕は続ける。
「戻ってきたときの彼女の表情は、何かすでにこの世のものではなかったですよね。そう思いませんでしたか?」
「いや、確かに・・・。自分も異常なものを感じました。意識は別の場所にあって体だけが動いているような・・・」
山崎が何とか答える。だがその表情はうつろなままだ。仕方なく僕は続ける。
「私には改札を出たあとに何かを思い出して引き返した、動きとしてはそのようにしか思えませんでしたが、彼女の表情からすると自然な様子にも見えませんでした。実際にはその間に過去の扉を開いたのかもしれませんね。だから、私たちとの会話はおそらく無関係ですよ」
「そうすると・・・、線路に飛び込んだことは別にしても。他人から見れば、過去の扉の開け閉めをして戻ってきた自分らもあんなふうに見えているわけですね・・・」
「おそらく」
「じゃあ、タイムスリップした世界で何か絶望的なことがあって、そのまま電車に飛び込んだということでしょうかね?」
「どうでしょうか?私には彼女が何か覚悟をして今日を迎えたようにも思えましたが」
「覚悟ですか・・・。うん。やっぱり。そうでしょうね。覚悟だ。決心だ」
山崎は、うつろな表情のままで独り言のようにつぶやいた。まだ、平静ではないらしい。当然だ。
しかし、山崎はたったあれだけの中川冬美との会話で、浮世離れした格好の人間について何か知ることが出来たのだろうか。聞いてみたかったが、心ここにあらずといった山崎の様子から遠慮せざるを得なかった。
いずれにせよ、僕らは知り合ったばかりの仲間を一人失った。
過去の扉を開け続ける延長線上にこの結果があるのだとしたら・・・、そう考えると、僕は少々恐ろしさを感じた。
だが一方で、中川冬美がこれで「人並みの幸せ」を手に入れたのではないかという、かすかな嫉妬心めいた考えも湧き上がっていた。




