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11.胡桃の実

 始発電車の中、電車が動き出してすぐに報せがやってきた。

 僕は大原野駅で降りる。迷わず改札を抜ける。改札を出たとたんまぶしい光で一瞬何も見えなくなった。

 ぼくは目を閉じる。

 ゆっくりと開ける。

 そこには、今までとは違う景色が広がっていた。

 携帯電話で時刻を見てみる。午前5時16分。

 僕は携帯電話の電源を切った。

 どこかで時を刻む音がする。

 おや?

 ここは別府ではないか。なぜあの美しい国東へ戻してもらえなかったのだろうか。空気が冷たい。季節は冬のようだ。目の前に僕の別府での家が見える。

 ふたたび考える。なぜあの美しい国東へ戻してもらえなかったのだろうか。

 窓から室内を見てみる。ソファーセットはあるが、調度品はほとんどそろっていない。

 安堵した。まだ僕は別府へは移り住んでいないことが分かったからだ。


 別府には父方の祖父と叔母が住んでいた。僕が物心ついた頃には、祖母はすでに亡くなっていた。叔母の悦子は、祖父が祖母と死別した後に再婚し、かなり高齢になってから授かった子供だったため、僕とは10歳、姉の美子とは6歳しか年齢が違わなかった。だから姉も僕も「叔母さん」とは言わず、「えっちゃん」と呼んでなついていた。

 祖父の後妻もすでに亡くなっていて、僕は祖母たちの姿を遺影の中でしか知らない。


 姉は、国東の高校へは行かず別府の高校へ通っていた。通学の都合上、姉は1人で別府へ移り、祖父の家から高校へ通っていた。

 実はそれは、近いうちに家族全員が別府へ引っ越すための布石であったのだが、僕には知らされていなかった。

 とは言え、少し考えれば分かる話だったのかもしれない。

 だが、何しろ僕は国東という小さな田舎町で大人になり、仕事に就き、家庭を持つものだと盲目的に信じ込んでいたのから思いつくはずがない。

 生まれ育った町から離れることなど考えもしなかった。

 澪がいる町から離れることなど考えもしなかった。


 母のせっかちな性格のせいだろうが、僕が小学校5年生の頃にはすでに僕ら家族用の新居が建てられていた。

 それは祖父の家の敷地内にあった。僕ら家族は祖父の家のことを『前の家』、僕ら家族用の家を『後ろの家』と呼んでいた。

 後ろの家には、掃除を兼ねた家族の慣わしとして、月に一度は訪れた。それだけならちょっとした別荘気分だったから、僕としてもむしろ喜んで別府の後ろの家で寝泊りしたものだ。

 僕は前の家と後ろの家の間に立っている。

 風が冷たい。

 そのとき、箒とちりとりを持った少年が後ろの家から出てきた。

 あれは小学校6年生の僕だ。

 思い出した。

 そのとき空間が揺らいだ。

 僕は小学6年生の僕と同化した。

 今は、冬休みだ。

 前の家は道幅10メートルほどのバス通りに面していて、僕は路上のごみを箒で適当に掃いていた。母に家の周りをきれいにするよう言われ、しぶしぶ承知したのだった。

 前の家を背にしてバス通りを見れば左手は東になる。バス通りを東へ500メートルほど歩けば亀川(かめがわ)駅という小さな鉄道駅があり、その先を少し歩くと海に出る。

 逆に右手、西側へ300メートルほど行けば、県下でも最大級の病院「別府総合病院」があり、さらにその先は緩やかな上り勾配となって、さらにさらにずっと進めば鉄輪(かんなわ)温泉へと到達する。

 僕は鉄輪温泉が嫌いだった。

 湿気を帯びた湯けむりに硫黄の匂い、どことなく寂れた雰囲気がその理由だった。だが、大人になってからはその佇まいに風情を感じるようになった。そうして、僕にとっての普遍的なものは故郷だけだったのだと気付かされる。


 別府総合病院から少し歩いたあたりの坂道の南側は、元進駐軍用の10軒程度の古い洋館が建ち並ぶ区域になっている。それらの洋館は進駐軍が立ち去ったあとも外国人専用の住宅として利用されており、居住者は少ないものの1軒1軒がきちんと手入れされている。洋館区域は特に柵が張り巡らせてあるわけではないので誰でも自由に散策できる。だからといって特に興味を持ってこれらの洋館を眺めたことは一度もなかった。

 西側の比較的低位置にある山々は夏の終わりには野焼きされる。だから、高い樹木は存在せず秋にはススキが生い茂る。太陽が上空にある間は遠くから見ると黄金色の芝生が敷かれたかのように美しく映える。

 その背景には標高の高い山々の峰が覗いている。今の季節は、山頂付近に雪を被っていることが多く、ススキの黄金色と背景の雪山とが見事なコントラストを見せる。

 僕が別府で唯一好きな景観がこれだった。何かの本で見たヨーロッパの高原地帯のようで、異国情緒を掻き立てられた。ススキの草原の中に石レンガ造りの教会か城でもあれば完璧なのに、と空想したものだった。

 掃き掃除に飽きて、ふと別府総合病院の方角を見ると、おそらく僕と同年代だと思われる少女を連れた親子連れが遠くからこちらへ向かって歩いてきている。全員に見覚えがあるのだが、意外すぎてうまく頭が回転しない。その少女は澪に似ているように見えた。

 だが、まさかこんなところにいるとも思えず、他人の空似だろうと思った。

 僕はまた、母に叱られない程度の動きで路上の掃き掃除やごみ拾いに戻った。やがて近づいてきた少女が声を出した。

「シュウくん?」

 聞き慣れた声だった。中腰のままで見上げると、そこには白い厚手のスカートに踝の上で折り返された白いムートンブーツ、白いコートを着た澪が立っていた。

「あら?笹井くんじゃない?」

「おっ、笹井くんだ!」

 澪の母親と父親が同時に口を開いた。本人だったのだ。

 澪の祖母が別府総合病院へ入院しており、その見舞いに来たのだという。別府には2泊する予定で、宿泊先は亀川駅前の「砂の湯」という旅館だとのこと。

「その旅館なら知ってる。ふぐ料理が有名だって聞いたけど」

 僕が澪に言うと、代わりに澪の母が尋ねてきた。

「笹井くんの別府のお家ってここだったのね。ちょっとお母様にご挨拶してもいい?」

 僕は大声で母を呼んだ。

「あらあらあら、桜木さんじゃないの」

 出てきた母は相好を崩すと、澪家族を後ろの家へ招き入れた。

「まだ、なにもないのよ」などと言いながらお茶を出している。

 こんな場所で澪と会えた偶然に僕は感謝した。

 ここには、胡桃の木もレンゲ畑もないけど澪がいる。

 そのうち母親同士の長話が始まった。澪の父はそういった場面でもまったく苦にはならない性格らしく、いちいち相槌を打っている。

 父と姉は、澪の両親に軽く挨拶をした後で、一緒に庭の草むしりをしている。

 そんな状況に退屈してきた僕の様子を見て取り、澪が切り出した。

「シュウくんにこの辺の案内をしてもらいたいから、出かけてもいい?」

 澪の母親が言う。

「いいけど、お母さんたちもすぐ旅館へ戻るわよ」

「あとでシュウくんに送ってもらうから」

 そう言うと、僕の袖を引っ張り外へ連れ出した。

「天気予報だと雪になるわよ。それに遅くなると夕ご飯が始まるから、早めに戻りなさいよ」

 背中越しに澪の母親の声がする。

「分かった」

 澪は軽く返事をすると、さっさと庭を横切ってバス通りへ出て行った。

 同時に「傘を持っていきなさい!あとコートもね!」という僕の母の声も聞こえる。僕は取って返して母の選んだ濃紺のコートと父の大きなこうもり傘を持つと急いで澪の後を追った。

「ここは、すごく景色のいいところね」

 周辺の雪を頂いた山々を見ながら澪が言った。

 澪の言う景色は、僕が別府に好感を持つ唯一のものだ。それを澪と共有できたことが嬉しかった。同じ景色を同じ気持ちで見る人間がすぐ横にいる。そのことが嬉しかった。

「看護婦さんから聞いたんだけど、もっと上の方へ行くと洋館がたくさんあるの?」

「あるよ。行ってみる?」

 そのときちょうど洋館前を通る鉄輪温泉行きのバスが来たところだった。僕は澪を促してバスに乗った。

「遠いの?」

「近いよ。バス停3つ分くらいかな」

「それってすごく遠いんじゃない?」

「大丈夫。国東とは違って、こっちは次のバス停との間隔が近いんだ。歩いて行ける距離だよ」

 二人並んでバスに乗り、澪家族が来た道を逆に進む。

 澪の母の言う天気予報どおり、ちらほらと雪が降ってきた。思えば澪とバスに乗ったのは初めてだ。

 10分ほどバスに乗れば、すぐそこに洋館が立ち並んでいるのが見える。僕らはバスを降り、洋館の方へ歩いた。

 雪は予想以上に降り始めた。別府でも雪が降ることがあるのかと思った。

「中に入れるの?」

 澪が言う。

「建物の中にってこと?それは無理だよ」

「どうして?」

「個人の住宅だもん。見学施設じゃないんだよね。・・・あ、もし、寒いんだったら向かいのスーパーの遊技場で暖まる?」

 そこは寂れた個人経営のスーパーだが、その一角にはアーケードゲーム機や卓球台が置いてあった。

 別府総合病院の見舞い客を狙ったものだろうが、病院からは少々距離がありすぎる。僕は退屈になるとここへ来て、ちょくちょく遊んでいた。後ろの家からは歩いたって30分で着ける場所だ。

「違うの。外国の人が住んでたんでしょ?西洋風の家具って見てみたいなって思ったの」

「まだ住んでる人も居るみたいだしね」

「あら?そうだったの?日本人?」

「いや、やっぱりアメリカ人じゃないかな?」

 外国人と言えば、全員アメリカ人だと思っていた時代だった。実際にここを仮住まいにしていたのは、やはり在日米軍の家族らしかった。

「周りを歩くのは大丈夫なんでしょ?」

 そう言いながら、澪は舞い降る白い雪を見上げる。

 彼女の横顔は、僕よりもずっと大人びている。

 美しいと感じた。

 雪は変わらず降り続いていた。たぶん平地で積もる事はないだろうが、標高のもっと高い山々はさらに白くなるだろう。

「思ったよりもずっと広いのね」

「外国の造りの家は1軒1軒が大きいからね。全体の敷地も広いんだと思うよ」

 雪は変わらず降り続く。僕はやっと気づいて父のこうもり傘を開いた。傘の中に澪を入れる。

 洋館の屋根がうっすらと白く雪化粧を始める。

「きれい。絵葉書の世界みたい」

 澪が言う。

 オーストリアとかドイツの小村の雪景色を絵葉書にしたものを連想したのだろう。僕にも雪化粧を始めた洋館を通して、澪と同じ景色が見える気がした。

 帰りは澪の提案でバスに乗らずに歩くことにした。雪で滑らないように気をつけさえすれば、大した距離ではない。

 雪はさらに降り続く。

「木の枝まで真っ白。とてもきれいね」

「国東だったらよく見かける雪景色じゃないか」

 僕が言う。

 澪は言う。

「いつもと違う場所で見るから新鮮なんじゃないの」

「そうだね」

 僕は言いながら「そうじゃない」と心の中で思った。

 澪と一緒に見ることが出来るから、どんな場所でもどんなものでも美しく見えるのだ。

 澪の手袋には、淡いピンク色の毛玉の飾りがついている。その手袋をはめた澪の左手が、そっと僕の手を握ってきた。

 幼いころから手をつないで歩くことなど何度もあった。むしろ、手をつないで歩くことの方が普通だったのに、僕はなぜか緊張した。

 いつもとは違う場所だったからだろうか。

 僕は左手で傘を持ち、左腕を曲げて二人の真ん中に置いている。澪は右、僕は左に並んで歩く。小さな恋人同士のように二人はひとつの傘の中で寄り添って歩いた。

 いや、実際恋人同士でなければなんだというのだろう。

 澪は言った。

「シュウくんって私と結婚するんでしょう?」

 質問が突然過ぎて一瞬戸惑った。だがそれは、小学校1年生の時の僕の宣言だ。

 そのときの澪は微笑んではいたが、どこか悲しそうにも見えた。勘違いだろうか。

 僕は澪の表情の真意を量りかねつつも、それを打ち消すようにきっぱりと言った。

「澪ちゃんさえ良ければ」

 僕はずっと僕のままで過ごして来たのだ。

 白い雪は相変わらず降り続いている。

「じゃあ、どうしていなくなっちゃうの・・・?」

 独り言だったのかもしれない。澪らしくなく、か細い声だった。

 言っていることの意味が分からず、僕は思わず澪を見た。

「お母さんから聞いたの・・・」

 か細い声のまま、澪が続けて言った。

「中学になったらここに引っ越すんでしょ?」

 僕はその当然過ぎる可能性に、このとき初めて気がついた。いや違う。考えないようにしてきた可能性に、このとき初めて向き合った。だが、僕の心はそれを来るべき話として認めることを拒んだ。

「僕はずっと国東にいる」

 澪は黙っていた。

 僕が気持ちの上では嘘など言っていないことが伝わったはずだ。だが、僕らが子供である限り、抗えないこともある。それを十分に分かっている顔だった。

 澪は傘の右端へ手袋をした手のひらを当てると、軽く僕の方へと押し返した。

「左の肩が傘からはみ出てるよ。雪が積もってる」

 澪の言うとおり、僕の左肩は雪で白くなっていた。

 それからしばらく、僕らは黙って歩いていた。

 澪の横顔は、幼いながらも整った顔立ちのせいで大人びて見える。中学生になるといったらもうすぐだ。そんなに急に、この顔を見られなくなる日が来るというのか。

 そのとき、澪が不意に僕の方を向くと立ち止まった。

 雪が舞う中、僕も澪の顔を見つめた。一瞬ではないが短い時間、僕らは見つめあった。

「あのね。私が胡桃の実を集めているのはなぜだか知ってる?」

 ほんのりと微笑みながら澪が口を開いた。

「部屋の飾りのためじゃないの?」

 小学4年生の頃、澪の家に行ったとき、澪の部屋に胡桃の実が置いてあるのを見た。それは丁寧に洗われ、乾燥させられ、ニスを塗って籐で編まれたバスケットに飾り物の一部のように置かれていた。おそらくニス塗りは澪の父親も手伝ったのだろう。

「今、いくつあるか知ってる?」

 澪は僕の答えが外れだと言う代わりに、別の質問で返してきた。

「30個くらい?」

 僕は当てずっぽうで答える。

「97個よ・・・。それはね。シュウくんと胡桃の木の下で会った回数なの」

 そうか、だからいつも拾うのは一つだけだったのか。だから自分が拾うと言っていたのか。

 予想を遥かに超える数だったが、澪と過ごした歳月を考えれば納得できる数だ。

「最初からそう思って拾っていたわけじゃないのよ。でも、いつの間にかそうなっちゃったの」

 澪はにっこり笑うと、また僕の右手を引きながら歩き始めた。

 心に舞う雪は暖かい。


「寒くない?」

 そう言いながら、僕はつないだ澪の手ごと自分の手をコートのポケットに入れた。

「暖かい」

 澪は歌うように言った。

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