10.白いレンゲ草
風が吹き抜ける。
ほんのりと草花の香りを運んでくる。
それはこの上なく懐かしい香りだ。
ふたたび僕は戻ってきた。
季節はどうやら春らしい。田園風景は一面のレンゲ畑へと変わっていた。
念のため、後ろを振り返ってみる。そこには駅の改札はなかった。あるのはやはり一面のレンゲ畑だ。
僕の家のある町営住宅方向から、誰かが3人歩いてくると、レンゲ畑の中へ入っていった。
目を凝らす。
先頭は姉だ。中学校の制服のままだったから、学校から帰るとすぐに外へ出たのだろう。後ろの二人を手招きしている。
もう1人は澪。学校帰りにそのまま僕の家へ寄ったようで赤いランドセルを持っている。ベージュのワンピースの上に淡いピンクのカーディガンを羽織っている。髪留めをして左耳だけ出している。
そして最後の1人は小学5年生の僕だ。白いシャツに緑色のベスト。黒い半ズボンに白いソックス。良い家庭のお坊ちゃんといった風情だが、これは母が選んだ着こなしだった。教師の息子がだらしなく見られないように、常に人目を気にしていた母の好みの服装だった。
昔は収穫の終わった水田には、肥料や牛の飼料にするためにレンゲ草の種子を蒔いていた。春になると一斉に赤紫色の可憐な花を咲かせ、あたり一面を埋め尽くしていたものだった。
姉は澪にレンゲ草で髪飾りの作り方を教えていた。二人はレンゲ畑に座り込み、楽しそうにレンゲ草を編みこんでいる。小学5年生の僕は花弁の整ったレンゲ草を見付けて、それを二人に供給する係だった。
僕は3人に近づいていった。3人には今の僕の姿は見えないらしい。この世界では僕は透明人間か幽霊のような存在なのだ。
その時、空間が揺らいだ。
僕は小学5年生の僕と同化した。
「どう?出来た?」
僕は二人に聞いた。
「澪ちゃん上手なのよ」
だから教える必要などまるでないくらいだと姉が言った。
「出来た」
澪はにこやかに笑うとレンゲ草を輪の形に編みこんだ髪飾りを僕に差し出してきた。
僕はそれを受け取ると、澪の髪にそっと載せてみた。
「似合うわね」
姉が言った。
「うん。きれいだ」
僕もそう言った。
僕はレンゲ畑を見回しているうちに、赤紫の花の中にひっそりと白いレンゲ草が3、4本固まって咲いているのをみつけた。
「姉さん見て。白いレンゲがあるよ」
遠くからでは赤紫色のレンゲ草に埋もれてしまうが、よく見ると、概ねひとつの区画のどこかには固まって咲く数本の白いレンゲ草がまぎれこんでいる。
僕が摘もうと手を伸ばすと、姉が強い口調でそれを制した。
「摘み取ってはダメ!」
姉は言った。
「白いレンゲは先天的な異常なのね。花びらを赤紫色に染めるための遺伝子だか染色体だかの情報が正常に働いていないのよ。」
姉はどこかで得た知識なのか、自分の考えなのか、僕には判断つきかねる見解を披露すると、続けて言った。
「白いレンゲは可哀想なの。他のレンゲよりも弱いの。だから、お互いをかばい合うように寄り添って咲いているでしょう?」
だから、そっとしておきなさいという意味だった。
僕はあらためて白いレンゲ草を見た。
赤紫色の中で、それでも力強く花を咲かせたひとかたまりの白いレンゲ草達を見た。
力強く見えるからこそ逆にはかなさを感じた。本来の色で咲き誇る権利を、どんな力が奪ってしまったのだろう。
「でも・・・」
僕は言いかけてやめた。
そのとき、ずっと黙ったままだった澪が、姉の言葉や僕の思いのすべてを包み込むように静かにつぶやいた。
「でも・・・、とても美しいわ」
僕もそう思った。
澪の整った横顔はずっと白いレンゲ草を見ていた。
僕はそれを感動的なまでに美しいと思った。
かすかに風が吹き抜ける。
ほんのりと草花の香りを運んでくる。
それは故郷の香りだ。
翔太の誕生は喪失感とともにあった。翔太の健康と未来が誰かに奪われてしまった喪失感。翔太を取り巻く僕ら家族の人並みの幸せが再び奪われてしまった喪失感。
― ダウン症は発達や体の様々な部位に先天的異常があらわれる、その異常のあらわれや大小には個人差がある。だから、ダウン病ではなくダウン症候群なのだ ―
そんなことは分かっていた。分かってはいたが、翔太に先天的な心疾患があると最初に医師から聞かされたとき、僕は絶望的な気持ちになった。
誰だろう。
僕の運命をもてあそんでいる者がいる。
そう思った。
くるみを失った原因が先天性心疾患と密接に関わっていたからだ。
翔太は二度心臓の手術を経験した。
一度目は動脈管開存症を閉じる手術。
動脈管というのは、肺動脈と大動脈とを繋ぐ血管のことだ。医師に言わせると通常は胎児の状態のときに閉じるものらしい。動脈管開存症とは生後も動脈管が閉じないままであることを言う。そのままにしておいても即座に大事にはいたらないまでも、咳がとまらない、激しい運動が出来ない等の弊害がある。
生まれて間もない翔太にとっては、ミルクを飲むことすら激しい運動の部類に入ったため、哺乳瓶を飲み干すにも1時間近くかかることがざらにあった。おかげで発育もよくなかった。そのため手術に踏み切ったのだ。
動脈管の閉塞手術は背中と胸に小さな切り口を開けて、カテーテルを通して行なう翔太にとってはさほど負担のない手術だった。2週間ほどで退院できた。翔太が1歳になるかならないかの頃だ
ところが、翔太の心臓にはもうひとつ問題があった。
それは心房中隔欠損という心臓の右心房と左心房の間にある心房中隔に穴が開いた先天的な心疾患だ。
8ミリ程度の穴であれば成長とともにふさがる可能性もあるということだった。翔太はほぼ8ミリ。ぎりぎりのところだった。そのため、手術を行なうかどうかずっと様子見をしていたのだ。
だが、一向にふさがる様子はなかった。血液が効率的に全身へ行きわたらないため心臓への負担が増加し、常に顔色が悪くなった。血液内の酸素濃度も極端に低く、さらに困ったことには就寝時に呼吸が頻繁に止まるようにもなった。だから、僕も妻ももちろん翔太も安心して寝ていられない。呼吸が止まると翔太を揺り動かして、眠りから覚ますといった日々が続いた。
これらの症状の原因すべてが、心房中隔欠損にあると医師は名言しなかったが、将来的なことも踏まえて今手術をすべきでしょうと申し出てきた。くるみを失った苦しい経験を考えれば承諾しないわけにはいかなかった。
結果的に2歳のときに手術を行なった。
現在ではもっと簡単に出来るらしいが、当時は胸を切り開いて行なうしか方法がなかった。人工心肺や人工呼吸器をつけて行なうとのことだった。
手術は無事成功したが、数日は集中治療室で様子を見ることになった。翔太は集中治療室内ではまだ人工呼吸器をつけており、体中に点滴の針を刺されていた。そんな状態におかれた小さな翔太が本当に愛おしく思えた。
僕が大空へ連れて行ってやる。
そう考えながらずっと翔太の苦しそうな寝顔を見ていた。
数日後、人工呼吸器が外れ、集中治療室から一般小児病棟へ移ったが、それからも大変だった。
人工呼吸器によって呼吸器官が荒れてしまったらしく、しばらく喘息の症状がとまらなかったのだ。もともと翔太の呼吸器が弱かったということも災いした。結果的に2ヶ月間の長期入院になった。
翔太は、今でも時おり胸の縦20センチほどの手術跡を指差しながら「いたぁい」と言う。乳幼児期のことではあっても、大変な経験をしたという記憶はあるらしい。
その翔太が今、遠くで元気に走り回っている。妻と追いかけっこをして遊んでいる。小さな円を描いてお互いがぐるぐる回っているので、どちらが追いかけているのか追われているのか良く分からない。
翔太は満面の笑みで笑っている。
僕と長男の秀人は買出しに行って二人の元へ戻るところだ。
今日は家族でバーベキューをするために、相風川の川原に来ている。
そのとき、1人の60代後半から70代前半の男性が中空の一点を見つめ、思いつめた顔でまっすぐにこちらへ歩いてくるに気づいた。その男性は散歩の途中らしい。おそらく、健康を気遣い毎日の習慣にしているのだろう。
僕らとすれ違う。
秀人は気づいた様子もなく、翔太と妻のもとへ急いでいる。
「ぶぁんこ!」
翔太が秀人におねだりする。これはブランコのことだ。
「じゃあ、ブランコで遊ぼうか?」
秀人が言いながら翔太の手を引いて、川原に隣接した公園へ連れて行く。
妻が言った。
「さっき、年配の男の人から声をかけられたの。いくつですかって?」
もちろん翔太の年齢のことだ。
「はったい!」
左手を広げ、右手の指を二本、その上に重ねて翔太はそう答えたらしい。
「それだと七歳だよ」
妻が言うと間違いに気づいたらしく、右手の指を3本にして
「はったい!」
もう一度答えたという。それを聞いて、翔太もかなり理解力がついてきたのだなと感心した。
「その人ね。ダウン症のお子さんがいたんだって」
「さっき僕らとすれ違った人?」
僕がそう聞くと「そうよ」と妻が答える。
妻は秀人と翔太が安全に遊んでいるかが気になるらしく、少しだけ公園の方へ顔を向けた。
「それで?」
僕が続きを促す。
「それからね。お宅のお子さんは心臓に問題はないんですかって聞かれたの。だから、2度手術をしましたって答えたわ」
「どうしてそんなことを聞くんだろ?翔太の顔色が悪かったのかな?」
「違うの。何でも、その人のお子さんには生まれつき心疾患があって、それが原因で亡くなったんですって」
「なるほど」
だから、あんなに思いつめた顔をしていたのだと納得がいった。
「でね、もし今の医療技術があったなら助かっていたかもしれないって涙ぐんでた。それを考えると私たちは幸せね」
そうだった。僕の生活はもはや翔太を中心に回っている。
くるみが3歳になったばかりの頃、風邪をこじらせ肺炎を併発した。そのとき、はじめてくるみの心臓に先天的な問題があることを告げられた。肺炎は重篤化し、くるみの体力ではそれを乗り越えられるかどうか危ぶまれた。結果は危惧したとおりになった。
僕は恨む相手が見つからず、ただ医師に怒りをぶつけるしかなかった。
「もっと早くどうにかできたんじゃないのか!最善をつくしたのか!」
僕は自分でも意外に思うほどの剣幕で医師を責め立てた。無意味なことだとは知っていた。くるみはもう戻ってこない。
今の医療技術なら、事前にくるみの心臓の異常を発見できていたかもしれない。肺炎への何らかの対処も可能だったのかもしれない。いずれも仮定の話だ。
だが、だからこそ、先ほどの年配の男性の気持ちが良く分かる。
僕とは違い医師に当り散らすこともなく、静かに我が子の死を受け入れたのかもしれない。だからと言って、失った命のことを思わなかった日はないはずだ。自分の無力さをずっと呪い、行き場のない怒りをずっとかかえて生きてきたはずだ。
その命が、たとえ障がいを持って生まれた命だとしても、あの男性にとってはかけがえのない命だったのだ。
いや、僕にとってもそうだ。
僕は、翔太の誕生はずっと喪失感を伴った誕生だったように感じていた。
だが、今もし翔太を失ってしまったら、僕は正気ではいられないだろう。そう考えているうちに、妻はさっさとバーベキューの準備を始めていた。
「そろそろ炭に火を起こすか」
その時、遠くから穏やかな笛の音が聞こえてきた。
「これは、オカリナだね」
僕は妻にそう言いながら、翔太と秀人を呼びに行った。そのとき、公園の傍らの小さなレンゲ畑が目に入った。
「これは、小学校の野外活動用に作られた田んぼなんだよ」
まだブランコ遊びが足りないらしく、「ぶぁんこ!」「ぶぁんこ!」と連発する翔太の手を無理やり引きながら秀人が言った。
「刈り取りが終わるとレンゲの種の蒔くんだな。いまどき珍しいじゃないか」
遠くに、先ほどの年配の男性の姿が見えた。
オカリナを口に当てながら、何という曲だろう。
少し物悲しく、しかしどこかあたたかいメロディーが、空へと贈られるように奏でられていた。
「『揺籃のうた』だね」
いつの間にか隣に立っていた妻が言う。
「そうだ。メリーで何度も聞いたことがあるはずなのに、こんなにも違う曲のように響くなんて」
妻はそういう僕の言葉に少しだけ頷くと、静かに言った。
「きっと、届くわ」
レンゲ畑を良く見ると、その中ほどに数本の白いレンゲ草が寄り添うように咲いていた。
オカリナのメロディーとともに、レンゲ畑を風が揺らした。
かすかに懐かしい香りがした。




