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9.ウォッチィ!

 テンポの良いリズムにベース音が重なる。

 翔太はまっすぐに立って腕を組み、リズムに合わせて首だけを前後に振る。

 歌が始まる。あくまでもテンポ重視の語呂合わせ的な歌詞だ。

 歌が始まると同時に、翔太は両手を前に突き出し、上下に振る。次に右を向いて同じ動作を繰り返し、同じように左を向いて同じ動作を繰り返す。

 それが終わると、腰を振りながら両腕を胸元で上下に何度もあわせるような動作をする。

 なかなか上手だ。

 特にダウン症児は体が柔らかいので、動きがとてもダイナミックだ。だから、ダンスもその分派手に見える。

「この、腰を振りながら腕を動かすところが、いまひとつなのよね」

 妻は言う。

 翔太が踊っているのは発表会での演目だ。

 翔太はよっぽど楽しいらしく、家に帰ってもタブレット端末からその演目の音楽を呼び出して、自主練習をするのだ。

「これまでは、曲全体を覚えさせるために大筋が合っていれば細かい振り付けまでは指示せずに好きなようにやらせていたらしいの。でも、発表会ももうすぐじゃない?だんだん、振り付けも正確にやらせるようにしているみたいよ」

 なるほど、だから前回見たときよりもダンスらしくなっていたのだな、と感心する。

「それに、5人で横一列に並んで踊るらしいの。一人だけテンポを乱すと目立つのよね」

「でも、上手に踊ってるじゃないか。」

「そうなのよ。細かいところはともかく、翔太もノリノリなのよ。そうじゃなきゃ家でも練習したりしないわよね」

「ウォッチィ!」

 ちょうど体をひねらせて時計を見る決めポーズをとったところだった。

「うまい、うまい」

 僕は拍手する。

 翔太は嬉しそうにまたタブレット端末を操作して音楽をスタートさせる。

 テンポの良いリズムにベース音が重なる。

 翔太はまっすぐに立って腕を組み、リズムに合わせて首だけを前後に振る。

 歌が始まる。

「ウォッチィ!」

 翔太の元気な声が聞こえる。

 発表会は12月5日だ。あと2週間ばかりだが、この様子ならまずまずのダンスを披露してもらえそうだ。

 翔太の背中に生えかけた小さな翼。

 それがいつか大空へ羽ばたくための、始まりの翼であることを僕は願った。


 翌朝。

 山崎とオルナツ珈琲館で会った日から1週間が経っていた。

 僕はいつもの車両に乗る。

 山崎がホームを横切る。お互い目礼すると彼は彼の定位置の車両へ向かう。あの後も、1度、山崎とはオルナツ珈琲館で会った。山崎とは、お互いの身の上や心の内をさらけ出した。おかげで山崎は、知り合ったばかりでありながら、僕にとってかけがえのない存在になった。人とのつながりは、共に過ごした時間など関係ないのだと実感した。

 ただ、お互いの生活スタイルは極力尊重することにしている。だから、同じ車両に乗ることはしないし、山崎がいつ下車して過去の扉を開くのかあえて見ないようにしている。

 始発電車はいつもどおり動き始めた。

 2度目にオルナツ珈琲館で会った時、山崎は言った。

「誰かの後を追って過去へ戻れるのは最初だけみたいなんですよ。たぶん、最初の一回は自分自身の過去への扉を開くきっかけ作りに過ぎないんだと思うんです。その証拠に例の両腕に腕時計をした女性の後を何度追いかけても過去へは戻れなかったんですよ」

 僕が見た山崎の途中下車のうちのいくつかは、そういった試行錯誤だったのかもしれないなと思う。

「最初に私が声をかけた時、山崎さんは何度も過去へ行くことを繰り返していると言っていましたよね。それでは、どうやって途中下車する駅が分かるようになったんです?」

 途中下車する駅というのは自分の過去の扉が開く場所という意味だ。

「報せがあったんです。ポケットに入れた里奈の腕時計が熱くなったんです。それははっきり分かるほどです」

「それで、直感的に電車を降りてみたということですか?」

「直感的と言うか、もっとはっきりとここで降りなければならないと指示されているような感覚です。うまく表現できないんですけど」

「もし、報せを無視して途中下車しなかったらどうなるんでしょう?」

「自分は試したことがないですね。過去の扉を開いた以上は、たぶんそんなこと出来ないんだと思いますよ。でなければ、それをやってしまうと過去の扉に永遠に鍵がかかってしまうとか・・・。だから、自分はそっちの方が怖いですね。笹井さんはあの世界へはもう行きたくないんですか?」

「いえ、そんなことはないです。過去の扉の向こう側は、何しろ私の故郷だったんですから。行きたくないわけはないですよ」

「そうでしょう?自分もそうです」

「でもですよ、山崎さん。私はずっと電車の車両の4つの扉の中に居たわけです。そこにもうひとつ全く別の扉が突然現れた。しかも、それは私にとって何にも変えがたい世界へ通じる扉でした。このままその世界と行き来していると、私はどうなってしまうんでしょう?」

「うーん。そこのところは自分にもわからないんですが、今、自分が生きる気力を何とか維持できているのは、あの世界へ行けるという希望があるからだというのも確かです。ただ、あの世界が現在に追いついてしまったとき、そのときに何が起こるのかはやはり不安ですねぇ」

 山崎は僕よりも多く過去の扉を開いているのは間違いない。とすれば、さらに過去の扉を開いた経験があるはずの例の両手に腕時計をした女性は、さらにその先を知っているのではないだろうか。

「山崎さん。例の女性にも話を聞いてみませんか?」

「いや、やめておきましょう。実はあの女が黒幕で、自分らの過去の扉をコントロールしている可能性だってあるわけです。自分らが余計な詮索をしたことで過去の扉を閉じられてしまっては困りますから」

 黒幕という表現はともかく、山崎の言うことも可能性は低いながらもありうることかもしれないと思った。これまで、山崎がそんなことをしなかったのも、そこまでのことを熟考した上でのことなのだろう。

 いずれにせよ、性急に動く必要もあるまい。1週間前に、過去の扉が開く原因などどうでも良いと思ったばかりではないか。しかも、僕はまだ1度しかその扉の向こうへ行ってはいないのだ。

「私にも報せが来るのでしょうか?」

「おそらくそのうちに来るんじゃないですかね。自分の時は2週間くらい経ってからだったかな。でも笹井さんに来る報せが、いつどんな方法で来るのか、自分には分かりませんけど」

 そして、その報せが今やって来た。スーツの左胸の辺りが熱くなったのだ。同時に次の駅で降りなければという胸騒ぎが始まった。次の駅が近づくにつれ、その胸騒ぎは何者かからの抗えない明確な指示のように感じられるようになった。

 僕は、東桜稲野(とうおういなの)駅で降りた。改札を出た途端、まぶしい光で一瞬何も見えなくなった。

 ぼくは目を閉じる。

 ゆっくりと開ける。

 そこには、期待通りの景色が広がっていた。

 携帯電話で時刻を見てみる。午前5時40分。

 僕は携帯電話の電源を切った。

 どこかで時を刻む音がする。

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