1.クリスマスイブ
「もしも想い出に色があるとするならば・・・。それは白です」
開いた4つの扉の内側から外をぼんやり眺める。
僕は扉の外を行く人たちを眺めながら考える。
彼は見たことがある。
彼女ははじめて見る。
・・・
そのうち印象的な短い音楽が響く。
人々の動きがあわただしくなる。
すぐそばで空気を吐き出す音がする。
扉が閉まり、風笛の音がゆっくりと和音を重ねていく。
電車が動き出す。
いつもと同じ駅。いつもと同じ電車。いつもと同じ車両。いつもと同じ席。いつもと同じ光景。
また、1週間が始まった。
僕は会社へ向かう。世の中には会社という狭い空間の中で、より上の地位に着こうと心を燃やす人間もいる。僕の会社にもそういった種類の人間はいる。
僕も昔はそうだった。電車の中ではビジネス書を読みあさり、会社では積極的に難易度の高い仕事に取り組んでいた。当然、人事評定は良くなり、それなりの地位に上って行った。
だが、過去の話だ。ビジネス書の替わりに、小説の文庫本を持ち架空の人生をひと時楽しむ。会社では出来るだけ安穏に済ませられる仕事を選んで過ごす。仕事に費やすエネルギーの分量を減らすことだけを考えている。
だから、今では社内で野心を燃やす人間たちが、どこか能天気なように見えて仕方なくなった。
会社での地位に価値を見出せば、彼らの人生は明るくなるのだろうか。
少なくとも、僕には当てはまらない。
だが、一方で、出世意欲のほかに何の悩みもなさそうな人々に、強い嫉妬を覚えることもあった。むしろ彼らの方が、過去だけを見ている今の僕よりもずっと健全なのかもしれない。自ら定めた悲しい約束事でがんじがらめになっている僕よりもずっと。
僕が働くのは、家族を養えるだけの金を手に入れるためだ。もっと楽に家族を養えれば、今の会社に固執することもない。
もちろん、会社で同僚と笑いあって楽しい時間を過ごすときもある。しかし、一人になった帰り道では、ふと気づくといつの間にか空を見上げている。
僕は、心の底から笑えていたのだろうか。
会社に逃げ込んでいるだけではないのか。
僕は人並みの幸せと笑顔が欲しいだけだ。
では、人並みの幸せとはなんだろう。
僕にとっては、誰からも「普通だね」と言われるような、波風の立たない家族生活を維持し年老いていく人生のことだ。
僕はいつの頃からか、漠然と予感していた。人並みの幸せが自分には来ないのではないかと。
僕はいつの頃からか、それを予感し怯えていた。
だから、用心深く生きてきた。不幸せの影がひっそりと忍び込んでこないように用心深く生きていけば、予感は外れ、それが手に入るものだと思っていた。
何かを失うこともなく、着実に小さな満足を積み重ねながら、それが手に入るものだと思っていた。
ところが、やはり人並みの幸せを手に入れることは思った以上に難しいらしい。僕がそのことに気づいたのは、20代半ばのことだった。今から20年ほど前のことだ。僕と妻は、体験したことのない悲しみに直面した。
十二月のクリスマスイブの日、最愛の長女を亡くしてしまった。小さな小さな命だった。
突然の病で彼女が動かなくなったとき、僕はそれを悪い夢だと信じたかった。なぜ、こんな運命がノックもせずに扉を開け、無粋にも土足で自分の人生に侵入してくるのか。
なんとか事実を受け入れることが出来るようになったその日の夜遅く、僕はまだ病院にいた。
妻は泣きつかれて、悄然と誰もいなくなったベッド脇の椅子に座っていた。
僕は立ち尽くし、呆然と窓の外を眺めているしかなかった。
(人並みの幸せってなんだろう)
雪が舞い始めていた。生まれて初めて見るクリスマスイブの雪だった。
僕はずっと雪を見ていた。
窓の外の町並みが白く雪化粧していく。
クリスマスの飾りつけが本物の雪で白く染まる。
幻想的で美しい光景。
だが、それが今日であって欲しくなかった。
いや、こんな日が来て欲しくなかった。
僕は町中を探し回る。知り合いだろうとなかろうと、構わず町中の家をノックして尋ねる。
「くるみがいないんだ!」
通り過ぎようとする車中の人にも尋ねる。
「くるみがいないんだ!」
町にはクリスマスのイルミネーションが輝いている。
大通りを走る。
路地を曲がる。
僕は叫びながら走る。
「くるみがいないんだ!」
知っているようで知らない町並みが続く。
知っているようで知らない住宅街に迷い込む。
知っているようで知らない商店街へ出る。
やっと小さな駄菓子屋でくるみを見つける。
くるみは見慣れた水色の靴を履いて駄菓子屋の隅で座っている。
僕は大きな安堵に包まれる。
「なんだ、やっぱり生きていたんじゃないか」
「くるみが死んだなんて間違いだったんだよ」
妻に報告する。
しばらくは、思い出したようにそんな夢を見た。なんて残酷な夢だ。
雪のクリスマスイブから数年間はその夢の記憶しかない。夢を見ては、会社帰りに駅前の書店に立ち寄った。くるみと一緒に火葬したあの絵本はなんと言う題名だっただろうか。
そんな日々が続き3年後。
長男の秀人が生まれた。
妊娠中に前置胎盤と診断され、ゆっくりゆっくり様子を見られながら、秀人は妻の体の中で育って行った。
出産予定日の近いある日、妻はいきなり出血し救急車で運ばれて行った。また、子供を亡くすのだろうか。
幸いその予感は外れ、帝王切開で何とか無事に秀人が生まれた。
生まれたばかりの秀人の顔と妻の顔を病室で見た時、僕は再び泣いた。
「赤ちゃんは元気だそうだよ」
医師からの言葉を、僕は妻に伝えた。
「赤ちゃんだけでしょ・・・」
妻は言った。
僕は、一瞬、妻の言葉の真意が分からなかった。
前置胎盤とは、胎盤の一部または全部が子宮の出口を塞いでしまっている状態のことを言う。前置胎盤で大量出血を起こせば、母体が危ない場合がある。妻はそのことを事前に知識として持っていた。
もちろん、今となってはその心配はなく、母子ともに無事であることを僕は医師から聞いていた。だが、妻は自分が死ぬかもしれないと不安な気持ちのままでいた。
子供の誕生を喜ぶよりも先に、自分の身を心配するなんて…と、心で非難しかけた時、そうではないことに気がついた。
妻は自分の視点ではなく、秀人の視点から嘆いていた。秀人から母親が奪われてしまうかもしれないことを嘆いていた。
妻はこれで2度目の母親になる。最初はくるみを亡くし、その成長を見ることが出来なかった母親だ。だからこそ、今度は母親という役割を全うしたいと願い、秀人のためにも母親という存在を残さなければならないと願ったのだ。
気づいて僕は再び泣いた。
クリスマスイブの日に亡くした小さな命を思い出した。
それからさらに5年後。
なかなか次の子供ができなかった僕たち夫婦に待望の次男が誕生した。
本当に待望の次男だった。
だが、僕には、次男が妻のお腹の中にいるときから口には出せないある予感があった。いや、予感ではなかった。後から思えば、恐れを内に秘めた覚悟だったような気もする。
切迫流産で、大事をとって数日入院した。月数に対して体が少し小さいようだ。そういったよくある経緯や診断を深刻に捉えすぎていただけかも知れない。決して明確な根拠のある予感ではなかったはずだ。
『人並みの幸せを手に入れることは難しい』
過去の経験が囁く。
分娩室から僕の次男が運ばれて行くその顔を見たとたん、予感が的中したことを感じた。ある障がいを持った人たち特有の特徴が、その顔立ちに見受けられたように感じた。
その後、看護師から、「さあ、抱き上げてください」と言われて、その顔をまじまじと見たときにもやはり違和感があった。僕は思わず聞いてみた。
「この子に健康上の問題はありませんか?」
看護師はややとぼけた顔をして「そういったお話は先生からありますから」と言うと、子供を抱きかかえ、半ば強引に僕に渡した。
僕の腕の中で、僕の次男は大きな声で泣いていた。秀人が生まれた時の泣き声よりも元気な声だった。だから、ふと安心しかけた時、看護師は僕の次男を僕から取り戻すと、そそくさと、まるで逃げるようにベビールームへ連れて行った。
いやな予感は疑惑となり、さらに膨らんでいった。僕の次男は、ダウン症という障がいを持って生まれてきてしまったのではないか。
僕は疑惑を抑えきれず、次の日には医師を問い詰めた。悪い話があるのなら早く聞いておきたかったのだ。
医師は、僕と妻を別室に連れて行くと、僕たち夫婦のために用意されたとおぼしきパイプ椅子に腰掛けるよう促した。
腰掛ける動作で周囲の空気が動く。消毒薬の匂いがかすかに届いてくる。医師も神妙な顔で向かいの椅子に座る。あまりにしつこく、僕が子供の健康状態を教えろと迫ったせいで、医師もしぶしぶ応じた形だった。
医師は僕の目をまっすぐ見据えて言った。
「ご主人はご承知のようですが・・・」
「会社の近所に支援学校があります。だから見かけることも多いんです。この子はダウン症の人たちに共通する特徴を示していると思います」
「そうですか」
医師は短く反応した。
そして、神妙だった顔を無表情に変え、何が何でも感情移入はしないと決意したかのように話し始めた。医師は事実のみを淡々と語ることで、僕らとの距離を置こうとしていた。それは、おそらく医師として正しい態度なのだろう。
「おっしゃるとおり、お子様にはダウン症の疑いがあります。触診では首から肩まわりの肉が柔らかく、これは筋力が弱いダウン症児の特徴でもあります。また、手のひらには猿線といって横に一直線の手相が見られます。これは健常児でも珍しくはない特徴ですが、やはりダウン症児に多く見られます。染色体検査を行なってからでないと確かなことは申し上げることが出来ません。結果が分かるまでには2週間ほどかかりますが、染色体検査をなさいますか?」
医師には検査結果を待つまでもなく、翔太がダウン症であることは分かっていたはずだ。染色体検査は、おそらくダウン症の型を判断するためだけのものだ。
それは僕にも分かっていた。だが、僕らは承諾した。そこに、一縷の望みを託して。
・・・いや、そうではない。
くるみを亡くしたときのように、現実を受け入れることを最後まで拒みたかっただけだ。
医師は通常、障がいのある子供が生まれた場合、ある程度の日数を置いてから家族に告知する。きちんと親としての愛情を育ませるための期間を設けてから告知するのだ。
あまりにすぐに知らせてしまうと、現実を受け入れられず、親がパニックを起こし、育児放棄をしてしまうケースが往々にしてあるからだ。だから出産翌日に、僕たち夫婦へ医師が行った告知は異例のことだったのではないかと思う。
僕は覚悟していたので、たしかに驚きはなかった。だが、覚悟と実感、驚きと失意とは異なるものだ。妻はどんな気持ちで医師の言葉を受け止めたのだろう。
彼女はただ静かだった。
告知の後、しばらくしてから妻が僕に提案した。
「この子の名前は翔太にしようと思うの。大空へ力強く羽ばたけるように。」
僕は素直に「いい名前だね」と応えた。
心のそこからそう思った。
たとえ、障がいがあろうと、大空へ羽ばたく道まで閉ざされてはいないはず。
翔太一人で無理だというのなら、僕が大空へ連れて行ってやる。
そう信じたかった。
一方で、大きな負担を抱え込んでしまったのではないかと言う不安が、心の中に巣食い始めてもいた。
・・・僕は選択を誤ったのではないだろうか。
妻は翔太という名前を、僕が受け入れたことに安堵の表情を見せた。だが、やはり翔太のこれから置かれる境遇や、自分たち家族の苦労を考えざるを得なかったのだろう。
「私たちこれからどうなるのかな」
小さくつぶやくと、肩を震わせた。
言葉に出さなかっただけで、その気持ちは僕も同じだった。
後日、染色体検査結果が出たと病院から報せがあった。
僕らはその翌日、診察室に居た。翔太は僕の腕の中で眠っていた。先日の医師が、無表情に検査結果を僕らに告げた。
「お子様がダウン症だということが、検査結果からも確認されました」
分かってはいながらも、永遠の奈落へ突き落とされたような気分になった。
ダウン症は、染色体の突然変異によって起こる。通常、21番染色体が1本多くなっていることから「21トリソミー」とも呼ばれる。この染色体の突然変異は誰にでも起こり得る。発生確率としては、800人から1000人に1人と言われている。
染色体突然変異の治療が、現代の医療技術では不可能だという事実。
翔太の健常さは決して取り戻せない。
失意に満ちた喪失感が心を覆った。
そして、“ダウン”という言葉の響きの悪さ。
“ダウン”というのは、ダウン症候群の存在を19世紀に発表したイギリスの医師ジョン・ラングドン・ハイドン・ダウンの名称から採ったものだ。特に悪い意味があるわけではない。
しかし、その響きは悲しくなるほどに最悪だ。何か差別を助長する名称に思えた。せめてハイドン症候群であればと、何度も考えた。翔太はこれから、この響きの悪い症名を背負って生きていかなければならないのだ。
ダウン症児は流産しやすい。だから、生まれてきた子供は、健常な子供よりも厳しい淘汰を乗り越えた強い生命力を持つ子供だという人もいる。
そのとおりなのだろう。
では、強い生命力を持たされた意味はどこにあるのか。厳しい淘汰を乗り越えたダウン症の人たちには、生まれてきたことに対する崇高な意味や使命がきっとあるはずだ。たとえ、それが親としての思い込みであったとしても、そうであるべきだ。
ダウン症の特性として、筋肉の緊張度が低いため、体が非常に柔らかいということが挙げられる。また、例外はあるものの彼らには多くの場合に知的な発達に遅れが見られる。そのほか先天性心疾患、低身長、肥満、斜視などの眼科的問題や、難聴などの合併症があるが、いずれも発症には個人差がある。だからダウン病ではなくダウン症、つまり症候群として呼ばれているのだ。
それらの合併症の中でも、特に先天性心疾患を伴うことが多く、医療技術が進歩していなかった頃は平均寿命が20歳未満とも言われていた。
僕の腕の中にいる翔太が20歳を迎える前に命が尽きる・・・。
生まれたばかりのその寝顔を見ながら僕は涙した。翔太は健常児よりも短い命のリミットを定められ、その中で生きなければならない。一体、誰が何の権利で、翔太の健常さを奪い、その上、命のリミットまでをも勝手に決めてしまうのか、自分の無力さに憤り涙した。
だが、幸い医療技術の進歩によって、寿命に関する心配はずいぶん軽減されていると知ったときには安堵したものだ。
ダウン症にはいくつかの型がある。21番染色体が1本多い標準型21トリソミーが約93%。約2%が正常細胞と21トリソミーの細胞とが混在しているもので、これはモザイク型と呼ばれ、健常者とさほど区別がつかない場合も多い。
残り5%は、21番染色体が他の染色体に付着したもので、転座型と呼ばれる。転座型は、例えれば長さの違う箸を使って食事をしているのだと考えればイメージしやすい。その不便さの中で、彼らは日々精一杯生きているのだ。
翔太は転座型だった。
転座型の半数は遺伝性のものだが、僕ら夫婦にはそれを検査する気力はなかった。
仮に、翔太の転座型ダウン症が遺伝性のものであれば、僕か妻のいずれかがそれを引き起こす遺伝子の保因者だということになる。その場合、秀人にもその遺伝子が受け継がれている可能性がある。しかし、そのことについてはまだ秀人には話していない。
とは言っても、秀人だってやがて結婚し子供をもうける。その前には話さなければならないだろう。いずれは秀人にも遺伝的な検査を受けさせる必要があるだろう。
これは、僕らが秀人に背負わせてしまった運命だ。
気がつくと、また暗い気持ちが心に巣食い始めていた。
ずっと、くるみを亡くした悲しみが消え去ることは無かった。だが、秀人が生まれ成長し、再び人並みな幸せに手が届きそうにも思えた。
着る者の居なくなったくるみの小さな服。それを見てもやっと平静でいられるようになった。
そんなときだったのに。
なぜ、今になって子供を授かったのか。次男の誕生はあきらめた方が良かったのではないか。長男の秀人1人でも良かったではないか。遺伝性の不安など知らないまま過ごせれば、それはそれで良かったではないか。
そもそも、僕らに障がいを抱えた子供を育て上げることが出来るのだろうか。出来たとして僕らが死んだ後、翔太は一人でどんな人生を歩んでいくのだろう。
人並みな幸せを手に入れるのはやはり難しい。
そのとき、僕はまた考えてしまった。
僕は選択を間違えたのかもしれない。
僕は、なぜ妻と結婚したのだろう。
もし、妻も僕も他の異性と結婚したのであったなら、別の人生が待っていただろう。
もしかすると、ずっと望んできた人並みな幸せが手に入ったのかもしれない。