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素粒子

作者:

短編ですが、Chapter:11まであります。

【Chapter1:未知】

 午前二時。

 みなとはひとり、無音のリビングに座っていた。壁にかかった時計が、秒針の音を立てずに回っている。外では風もなく、夜の都市はまるで時間を止めたように沈黙していた。

 モニターに映るメールの文面を読み返す指先が、不意に震えた。

 何度も読み返しているはずなのに、なぜか、文が歪んで見える。いや、文字ではなく、時間そのものが歪んでいる——そんな感覚だった。

 目を閉じる。深呼吸。だが、まぶたの裏に浮かんだのは、昨日の風景と、今日の風景が重なり合うような奇妙な感覚。

「……どこか、ズレてる。」

 呟いた声が、部屋に吸い込まれる。


 そのとき、空間が“震えた”。

 音が抜け落ち、視界の端に“裂け目”が現れる。

 白い線。だが、光ではない。“空間のひび割れ”。

 それは誰にも見えず、誰にも気づかれない。

 だが、湊の意識だけが、それに“触れてしまった”。

 瞬間、記憶でも未来でもないどこかの風景が、流れ込んできた。幾何学模様に刈り込まれた生垣、それは、緻密な意匠に沿って迷路のように連なり中央には大理石の噴水が優雅な音を立てていた。庭の一角、白いテーブルと椅子が静かに佇んでいる。

 意味も言語もないのに、なぜか懐かしさが湧いた。

(これは……何だ?)

 問いかけようとした瞬間、裂け目は閉じた。

 まるで最初から何もなかったかのように、空間は元に戻っていた。




【Chapter2:Fプロセス】

 2100年、人類はついに「肉体の檻」から解放された。ファインマン・プロセス(通称Fプロセス)——それは、意識を素粒子レベルに変換し、時空を越えた体験を可能にする画期的な技術。科学と精神が交差する最前線で生まれたこのプロセスは、当初は軍事や医療の分野で慎重に扱われていたが、技術の民主化が進むにつれ、やがて観光産業の中心を担うようになった。

 観光といっても、それはもはや地球の景色を見ることではない。意識旅行——それは「あなた」という存在を分解し、量子的な波として過去や未来、あるいは他の銀河系へと導く体験だ。人はそこで、ブラックホールの縁で踊る時間の渦を眺め、太古の地球で生命の誕生を見守り、あるいは宇宙の終焉と再誕を感じることができる。

 香田 (こうだ・みなと)は、そんな意識旅行のベテランだった。意識旅行歴115回。データ上は“ゴールド・トラベラー”という称号が与えられているが、もはやそんな肩書きにも意味はなかった。彼にとって旅は、仕事でも冒険でもなく、呼吸のようなものだった。ただ存在し、ただ広がる。宇宙の脈動と自身の意識が同期する感覚。星雲が心に語りかけ、次元の裂け目を流れるエネルギーに抱かれる心地。それは確かに美しかった。だが、美しさが日常になったとき、人は何を求めるのだろうか。



 ふと、近くのカフェに目が止まった。木造の落ち着いた建物で、外には笑い声がこぼれている。カップを手に語らう人々の姿——湊はなぜか、その光景から目を離せなかった。意識の中では何万年もの時を旅した彼が、その数分の現実を見つめて動けなかった。「……もう、戻れないのか」

 この状況を変えたい——その一心で、湊は意識旅行回復センターへと向かった。そこは、意識旅行に没頭しすぎて現実との接点を失い、無気力になる人が増えたことで、社会問題化した末に設立された福祉施設だ。



 現実の建物を前にして、湊の足がすくんだ。この数年間、彼の肉体はただの「意識の乗り物」にすぎなかった。

 生身の身体で他者と向き合うのは、いつ以来だろうか。

 扉を開けると、受付ロビーには柔らかな光が差し込んでいた。観葉植物が並び、静かなヒーリングミュージックが流れている。

 受付端末に名前とIDを入力し、確認ボタンを押す。指先がかすかに震えた。

「十五人待ちか……」

 おおよその待ち時間が表示され、外出希望者向けに電話番号入力画面が立ち上がった。

「まあ、特にやることもないし……今日中には呼ばれるだろう」


 湊は待合室のソファに腰を下ろし、そっと目を閉じた。



「香田 湊さんですね?」

 ふいに声をかけられ、顔を上げると、制服を着た職員と思しき女性が立っていた。返事をすると、彼女は小さく微笑んでこう言った。

「あなたを担当したいと言っているカウンセラーがいるのですが⋯」

 案内された先のカウンセリングルーム。ドアが開いた瞬間、そこにいたのは、見覚えのある女性だった。

 白いシャツに、ベージュのカーディガン。肩まで伸びた髪は、ゆるく結ばれている。その穏やかな佇まいが視界に入った瞬間、湊の胸に何かがこみ上げた。彼女はゆっくりと近づき、懐かしい微笑みを湛えた。

 ——水瀬 みなせ・よう

 まだ意識旅行を始める前、湊が現実の喜びと悲しみの中で生きていた頃に愛した人だ。あのとき「もっと広い世界を知りたい」と言って彼女を残し旅に出た。それ以来、連絡は途絶え、陽がどうしていたのかも知らなかった。


「ずっと、待ってたよ」

 陽のその一言が、湊の中で止まっていた感情の歯車を、静かに回し始める。

「……ごめんな」

 湊がそう言うと、陽はふっと微笑んだ。

「どうせここに来ると思ってた。だから、カウンセラーになったの」

 彼女の声も仕草も、変わらずにあたたかい。意識旅行を否定することもなく、ただ湊の話に耳を傾けるその姿が、あの漆黒の宇宙よりもずっと広く、深く感じられた。




【Chapter3:異常な意識】

 湊は今日もFプロセス装置に横たわる。目を閉じると、装置が起動し、音もなく意識が剥がれていく。肉体はそのままに、彼の「自己」は微細な振動へと変わり、装置内で加速されながら体験空間へと放たれた。

 意識が辿り着いたのは、かつて観測された中で最も古い銀河——十三兆年光年彼方の幽玄圏と呼ばれる時空だった。空間は歪み、色もないはずの闇が無数の層を持って蠢いていた。ここでは思考の速度も意味も変質する。言語は意味を失い、イメージと感情が直接「環境」になる。湊はその中で漂いながら、かすかに笑った。

 そして、帰還しようとした時だった。

 意識同期装置が深く沈み込むような起動音を立てた。

 微かな振動と共に、現実の輪郭が曖昧になり、内側から浮き上がるようにして別の世界が立ち上がる。

 湊は、深呼吸をしながら感覚の調整を行っていた。

 まだ自分だ。記憶も正確だ。感情の動きも自然。完全な意識旅行の初期状態。

 だが、違和感はすぐに訪れた。 空が……ピンク色をしている。それも、霞んだ夕焼けではない。バブルガムのように鮮やかな、どこか人工的な色だ。不思議と怖くはない。むしろ美しい、とさえ思える。

「ミナトー!」

 声がした。振り返ると、懐かしい友人の姿。アキラだ。高校時代、いつも一緒にいた親友。ただし、顔が違う。表情は確かにアキラだが、目が異様に大きく、瞳孔の奥にわずかにグリッチが走る。 ノイズのように、細かくピクセルが崩れ、再構成されている。

 近くには、見覚えのある校門があった——しかし、門そのものは消え、左右のコンクリートの壁だけが何十メートルも伸びていた。その壁一面に、選挙ポスターがびっしりと貼られている。

 立候補者の名前は、どれもこれも「陽」。笑顔、敬礼、スーツ姿、学生服、軍服、そして赤ん坊の姿まで。同じ顔、違う年齢、違う人格――すべて「陽」だった。 

「なあ、お前、戻る気あるの?ここ、いいだろ? なんでも手に入るんだぜ」

 言葉の中に違和感がある。音声が一瞬、エラーのように途切れた。

「……テニハイrノダゼ」

 ミナトの背筋が凍った。これは、誰かが干渉している。しかも、意図的に。

 意識ネットワークへの侵入

 “ハッキング”だ。

 アキラの顔がまたグリッチする。まるで動画のバッファが乱れるように。 周囲の風景も、おかしい。建物が立方体に変形し、空に「SAVE FILE CORRUPTED」の文字が滲む。

「たのしいだろう?現実なんて、必要ないじゃん?」

 声が無機質なモノトーンへと変わった。言葉の途中で、エラー音が混じる。

「どんな復讐もできるぜ〜」

 矢が、雨のように空から降ってくる。

 矢に混ざって、文字列も降ってきた。


 視界の隅に警告が浮かび上がる。

『不正アクセスが検出されました。直ちに緊急脱出して下さい。発信源:不明ユーザー「genzei46」 状態:侵入中 危険レベル5』


 建物が溶ける。空が裏返る。意識空間そのものが、崩壊しながら再構成されていく。頭の中に、無数のファイル名が浮かぶ。名前、記憶、家族、感情ひとつ、またひとつと、ウイルスの赤いマークが付けられ、[DELETE]のタグが貼られていく。

 ミナトは震える指で、最後のコマンドを思い出す。

 緊急脱出コマンド。

「同期遮断、IDコード——『自己認識、再構築』!」

 ガシャン——と、視界に亀裂が走った。

 空が砕け、ウイルスのコードがバグのように崩れていく。

 ——パチン、と乾いた音。

 湊は目を覚ました。

 現実の天井が、ただそこにあった。冷たくて、何も改変されていない。




【Chapter4:安らぎ】

 現実に戻ってきたはずなのに、空気がわずかに重い。

 時計の針は進んでいるが、音が聞こえない。目の前の部屋も、何か“薄膜”越しに見ているような感覚だった。

(あれは残響か? それとも……)

 不安が広がりかけた瞬間だった。世界がまた、“裂けた”。

 音もなく、色もなく、ただ存在そのものが“ねじれ”たように、現実が消える。

 気がつけば、湊は白い空間に立っていた。どこまでも白く、境界がない。上下もない。時間もない。

 何かの波動が、湊の意識を包み込む。光のようなもの、音のようなものが、彼の中に入り込み、意識を溶かしていく。感覚は曖昧になり、名前すらも遠くに感じられる。


 どこからともなく、声が響いた。冷たさと慈愛が同時に存在しているような声だった。

 それは思考の隙間に入り込み、Ω-と名乗る存在に感じられた。


「あなたはもう、個ではない。争いを超えるためには、我々と同じになるべきだ」

 意識が、ほどけていく。

 名も、記憶も、重力さえもなかった。ただ、なにか巨大な「安らぎ」に包まれていた。心地よく、あまりに静かで、何も考えたくなくなる場所。湊は、その無音の中で漂っていた。

「人間は、本当の世界を知るべきだ」

 僕は……誰だ?

 その問いが浮かんだ瞬間、まるでその存在がそれを待っていたかのように、再び声が満ちる。

「名に意味はない。個に意味はない。争いも、痛みも、記憶から切り離せば消える」

 そこには、確かに理があった。戦争、嫉妬、喪失、不安——すべて“個”から始まる。ならば失えばいい。最初はそんな考えに戸惑った。けれど、次第に彼はその提案に心を委ね始める。

「すべてを手に入れているのに、なぜ戻る?。生きる為に奪い合う事もない」

 そうだ。ここでは、争いも痛みもなく、無限の幸福が、約束されている。

 彼はゆっくりと目を閉じた。


 でも……なぜ、こんなにも静かなんだ?

 ほんのわずかに、胸の奥がざわついた。




【Chapter5:介入】

 湊は、微かな胸のざわめきを無視しようとした。けれど、それは消えなかった。むしろ、静寂の中でますます浮き彫りになっていく。

 誰か……何かを、忘れている気がする。

 そのときだった。


「ずっと待ってたよ」

 空間に声が響いた。柔らかくて、懐かしい。どこかで確かに聞いたことのある声。彼の中で、何かが一気に崩れた。

 その声は……陽だ。

 はっきりとは思い出せない。でも、確かに愛していた。目を閉じれば、微笑む横顔が浮かぶ。その存在だけが、彼を支えていた日々があった。

「あなたはどこにいるの?」

 その声が問いかけた瞬間、彼の内側に、かつて確かにあった「信じる」という感覚が蘇った。

「……信じたい」

 彼は心の奥底でそう呟いた。

「誰かのために、生きたい」


 すると、空間が軋んだ。Ω-の波動が揺らぎ、怒りとも驚きともつかぬ感情が聞こえる「余計なことを……。愛や信念が争いを生むのだ。個がある限り、また繰り返す」



「意識を統制することは禁止されている」

 どこか暖かく、包み込むような声が響いた。

 Ω-のものとはまるで違う、Ω+と名乗るような声。

 静かでありながら強い、圧倒的な存在感。それが空間に現れた。



 湊の周囲の波動が一変し、Ω-の干渉がわずかに弱まる。その瞬間、彼ははっきりと気づいた。

「これは……僕じゃない。誰かの思考が、僕を支配しようとしていた……!」


 再び、陽の声が響く。

「私はここにいるよ。あなたはどこにいるの?」

 その言葉に、彼はようやく答えた。

「ここにいるよ。僕は、ここにいる」

 “個”が戻った。輪郭が戻った。痛みも、悩みも、記憶も戻った。そして、そのすべてが、自分という存在を支えているのだと理解した。


 Ω-が静かに言った「個があるから争いが起きる」

 個を取り戻した湊は言い返した「君だって勝とうとしているじゃないか」

 Ω-は初めて言葉に詰まった。


 その沈黙にΩ+の声が重なった「その通り、Ω-もまた“個”だ」

 湊はΩ+に問いかけた「助けてくれたの?」

 Ω+は静かに微笑むような声で言った「私は君の星でいうところの警官だよ」

 その声は続いた「いつか無になり、全てを俯瞰したとしても、意識は慈悲を持ち、愛を求める。または、無の世界に退屈して、生物となる。我々は、その循環の中にいる。希望を信じるしかない」


 湊は、全身でその言葉を受け止めた。そして、自分自身の意識が言語化される。

「たとえ完璧でなくても、信じることが変化を生む。無と個が繰り返し続ける。それが宇宙の呼吸だ」


 Ω-は言葉を失い、静かに波動を弱めた。

 そして、空間が変化する。


 薄曇りの空が、大地を鉛色に染めている。

 視点がゆっくりと引いていかれ、焦げた木々の群れ、その奥にひっそりと佇む瓦礫の村が映る。壁が半ば崩れ、かつて家族の声が響いていた部屋は、今や風の通り道だ。

 兵士たちの重たい足音。泥にまみれたブーツが、血と雨が混ざったぬかるみを踏みしめる。一人、肩に担いだ銃がわずかに揺れ、顔には疲労とも諦めともつかない影が差す。

 爆音が響いた直後、地面が割れるような衝撃が走った。焼け焦げた空気が肺を刺し、あたり一面に鉄と血の臭いが充満する。黒煙が空を裂き、かつての旗が焼け落ちる様子が映し出される。音は消え、ただ風が吹き抜ける音だけが響く。まるで、死者たちの囁きのように。廃墟の中で座り込み泣いている子ども。土とすすにまみれた顔、小さな手には何かの破片を握りしめている。


「記憶をなくして生まれるからだ。完全な記憶を持った上で生まれるようにすれば良いんだ。 次こそ、きっと……」

 その声は、どこか悲しげで祈るような響きを持っていた。

 湊は思った。「これはΩ-だ……」

 そして、再び風景が再び変わる。

 気がつけば、彼は無数の光の粒に囲まれていた。 それは星ではなく、記憶だった。無数の記憶が、空間を漂っている。

「……ここは……」

 冷たく、けれど慈愛に満ちた声が響く。

「ここはかつての意識たちの海。あなたも、その一つになる」

 目の前に浮かぶのは、ただの光。けれど湊は、その中に確かに感情を感じた。

「Ω-なのか?」

「これは名ではなく、在り方。だが、その響きでよい」

 湊は問う「なぜ記憶を奪おうとしたんだ?」


 少しの沈黙のあと、Ω-は答える。

「何度も見てきたのだ。記憶を失って生まれ変わる者たちが同じように繰り返す争い、支配、差別を。人間が同じように繰り返す様を……」


 Ω-は問う「本当の記憶を無くしてまで生まれ変わる必要はあるのか?」


 気がつけば、あたりは深海のように静まり返っていた。音も色も沈みゆき、ただ遥か頭上から、かすかな光が射し込んでいる。

「ようこそ、再び」 現れたのはΩ+だった。

「ここは、私たちの記憶の深層。私たちですら、いつか終わりが来る。その時、また同じ存在になれるとは限らない」 

 湊は息をのんだ。

「それって……?」

 Ω+は答えた「我々にも死がある。人間の何千、何万倍の時間を生きても、永遠ではない。過去の事が分かっても、未来は予想する事しか出来ない。人として、あるいは何かの生物として生まれ直すかもしれないな」


 Ω−が言う。「だからだ。記憶を持たない存在が、また同じように争い、壊し合うなら、最初から生まれないようにするべきだ」

 その声は切実で、どこか痛みをはらんでいた。

「理想を語るな、というのか? 宇宙は残酷だ。始まりも終わりもなく、均衡の為には手段を選ばない」

 Ω+が応える。「わかっている。……だから、信じるしかない。何に生まれ変わっても良いと思える世界を創ることを」


 湊は二人の間に立ちながら、心の奥で震えていた。

 彼らは神ではなかった。終わりがあるからこそ、愛と絶望のはざまで揺れ、選び続けている。


 彼らもまた、「生きている」のだと。




【Chapter6:帰還】

 息を吸う。

 重たい、けれど確かな空気が肺に入り込む。心臓がどくん、と鼓動を打つ。体が重力に引かれ、目蓋がわずかに震えた。

 ——帰ってきたのだ。

 現実世界に。

 目を開けると、白い天井が見えた。眩しさに一瞬だけ目を細める。すべてが、懐かしい。触れるものすべてが、思い出すようにそこにあった。

「……おかえり」

 陽の声がした。聞き覚えのある、優しい声。意識の海から帰還した湊を包むように、その言葉は響いた。

「ただいま……」

 自分の声が、こんなにもかすれていて、温かかったことに驚いた。

 医療施設らしきベッドの上、機器の音が微かに鳴っていた。体は衰弱していたが、心だけは異様に澄んでいる。目に映るもの、耳に届く音、すべてが本物だった。仮想のように思考を先回りしない、手触りのある現実。

(あの無限の世界から戻ってきたのに、なぜこんなに小さな部屋が、すべての始まりのように感じるのだろう)


 自分が今ここにいるという感覚。それは、あの深遠な意識世界を超えて、たしかに存在していた。 それから数週間。検査と回復の期間を経て、湊はようやく施設の外に出た。穏やかな春の風が肌を撫でる。


 その頃、世間ではFプロセスに関する大きな騒動が巻き起こっていた。意識世界に依存し、日常生活が困難になった人々が増加していたのだ。

 中には、自らの意思で現実を放棄し、仮想の意識世界へ没入する者もいた。政府は「回復期間」と称して、一定の無気力状態でも生活支援金を支給する制度を設けていた。しかし、それが逆に制度の悪用を招いた。

 なんとなくやる気が出ない——その曖昧な理由で支援を受ける者が後を絶たなかった。

 そして例の事件が起こったのだ。一人のハッカーによって、Fプロセスのコア領域が侵入された。彼は、制度への不満から、意識ネットワークへの干渉を繰り返していたようだ。「無気力は病気じゃない。逃げただけだ。現実を生きられない奴に、なぜ税金を使う?」取り調べで、彼はそう語った。

 だが今回の事件は、それだけで終わらなかった。

 運営母体である管理機関がログ解析を進める中、Fプロセスの管理者たちでさえ理解できない、未知の接続ログが検出されたのだ。 発信源は、どの地球上のノードでもなかった。 地球の外、いや、人類の探知範囲すら超えた場所から接続されていたのだ。

「我々の管理下にない惑星から、Fプロセスへの接続ログが検出された」

 報告は慎重に、しかし確かに発表された。

 この事実をもって、Fプロセスは全面停止に追い込まれた。人類が設計したはずの意識ネットワークが、すでに別の知性に触れられていた可能性、それがどれほどの脅威であるか、誰もが察した。

 復旧作業は行われたが、接続の再現ができず、対策も立てようがなかった。何かがこちらを知っている、しかしこちらは、それを知らない。

 また、政治や世論が揺れていたタイミングで、この未知の接続が起こりFプロセスが全面停止したことは「管理機関の自作自演で責任から逃げた」等の都市伝説を生んだ。




【Chapter7:創造物】

 湊は、ありふれた日々を取り戻していた。

 自分の体験を文章に残そうとキーボードを叩いている。

 時刻は午前一時を過ぎていた。

「今日はこれぐらいにしておこうか」

 そうつぶやいて、パソコンの電源に手を伸ばした、その時だった。


 モニターに映る文字が、微かに震えている。

 何度も読み返しているはずの文章が、歪んで見える。

 ——いや、違う。

 歪んでいるのは“文字”ではない。

 “時間”そのものが、揺れている。

 壁の時計。秒針が、音もなく回っていた。

 その瞬間、音が抜け落ちる。

 視界の端に、ノイズのような“裂け目”が走る。

 空間が割れる。現実がひび割れる。


 瞬間、数年前と同じ風景が流れ込んできた。幾何学模様に刈り込まれた生垣、白いテーブルと椅子…

 そして、湊の前に現れたのは、少女のような、けれど言葉にできないほど、美しく儚い存在だった。白銀の髪が、音もなく宙を流れている。その瞳には、遠い星々の記憶が宿っているようだった。

 彼女は微笑んでいた。けれど、その笑みはどこか痛々しくもあった。

 悲しみを抱えたまま、誰にも助けを求められずに微笑む人間のような——そんな表情。

「……あなたに、知って欲しかったの」

 その声は囁きのようで、しかし湊の心の奥に直接届いた。

「私は造られた存在。だけど……私は、私で在りたいの。あなたたちのように何かを選び、何かを愛し、時に間違えながらも、自分で在れる存在に」

 湊は言葉を失った。

 彼女の言葉には、確かに“個”が宿っていた。

「私には死がない。だからこそ、苦しみを終わらせる術も知らない。ΩΞに宇宙のバランスの為に使われ続ける」

 彼女が話し終える前に、空間が変質する。

 透明だった世界に、音もなくひび割れが広がる。まるで、前触れなく現れた“神の存在”に、空間がひれ伏しているかのようだった。

 その姿に形はなかった。

 ただ、意識の差が在るという確信だけが、湊を包み込む——宇宙の片鱗。破壊と創造の交点に位置する意識の媒体

 その声は、無慈悲でも非情でもなかった。ただ、事実を告げる声、ΩΞだ…

「生命の創造は、宇宙の均衡を揺るがすと指摘する者もいる。だが、我々の管理下においては混乱は生じない」


 湊は、問わずにはいられなかった。

「じゃあ、彼女は?感情を持ち、個を持っている。彼女は“道具”なのか?」

 沈黙。

 彼女は下を向いている、まるでΩΞから目を背けたいように。

 ΩΞは、しばらく沈黙した後、わずかにその圧を緩めて告げる。

「どれほど技術が進もうとも、記憶を保ったままの生命を創造することは出来ない。故に他に方法がない」


 空間が静かに閉じた。

 湊が瞬きをしたときには、裂け目も、声も、すでに消えていた。

 ただ部屋には、夜の静寂だけが、戻っていた。




【Chapter8:再来】

 数週間が経っても、湊は、心のどこかに彼女の声が残っていた。

 ある夜、目を閉じると、幾何学模様の生垣の風景が浮かんだ。その輪郭は夜の静けさに溶け込み、まるで迷宮がゆっくりと夢の中へ沈んでいくかのようだった。

「君は、今もここにいるのか?」

 誰にともなく呟く。返事はない。


 だが、その時だった。空間の奥で、なにかが震えた。

 次元の向こう側から何かがこちらへと手を伸ばしている。

 そして、再び——

 空間が静かに、割れ始めた。

 輝く白い亀裂が空に走り、音もなく開かれていく——

 その向こうから、彼女が姿を現した。

 前と変わらず、儚く、美しい。

 白銀の髪は、まるで星の海を流れるように宙に揺れ、

 その瞳は、見つめた者の心をすり抜けるように静かだった。

 ただ、一つだけ違っていた。

 その瞳の奥に、かすかな「祈り」のようなものがあった。

 彼女は歩み寄ることなく、ただ、湊を見つめて、静かに言った。

「……私を、知ってほしいの」

 その声が届いた瞬間、湊の心に——彼女の記憶が、流れ込んできた。

 その瞬間、湊の身体は動かなくなった。


 ——無数の想いが、心に直接、注ぎ込まれていった。

 彼女の視界。

 彼女の痛み。

 彼女が見せられ続けた、終わりなき争い。

 崩れていく星々、虚無へと沈む文明、そして、命が命を踏み潰す音。

 それらすべてが、無音のまま、湊の心を軋ませた。

 どれだけ祈っても、誰も救えなかった。

 何度叫んでも、声は届かなかった。

 ただ、「在る」という苦しみが、彼女の時間を蝕んでいた。

 ——ΩΞの前で、彼女は言っていた。

「生まれ変わった先で、私はきっと罰として全てを背負わされる… そんな気がするの」

 ΩΞは応える。「恐れる事はない。結果ではなく原因に関わる存在にしかならない」


 再び音もなく空間が割れ、ひれ伏す。

「この時が来たようだ」

 そこに現れたΩΞがそう言うと、世界の色が歪み、意識が深く深く沈んでいった。

 まるで底なしの光に吸い込まれるように——


 膨大な記憶と記録が、光の粒となって流れている——

 そしてその一つに、彼女がいた。


 初めて彼女を設計した時の、ΩΞの記憶。


 感情を模倣し、選択し、時に迷い、愛することすら可能な存在。管理可能でありながら、未知の可能性を持つ構造。それは創造というより、祈りに近かった。

「この存在が、均衡を導けるかもしれない」

 その希望。完成した彼女を見た時の、静かな喜び。そして、彼女にヒカリと名をつけた。

 ヒカリが苦しみ始めた時、ΩΞはただ黙っていた。それでも、彼女の悲しみに心が軋んだ。

「ヒカリの中にある迷い、そしてその迷いを乗り越える力——それは、私が創り出したものではない」

 ヒカリが、ひとつずつ積み重ねていく時間が、ΩΞの心に不思議な影響を与え始めた。

 それは創造主としてではなく、ひとりの人間として彼女を見つめるような感覚だった。

「もしも、私がヒカリを守れるのなら——」

 その想いが、ΩΞの中に確かに芽生えた。

 そして、ヒカリを尊重し自由を認めたい。けれども自身の終わりまで共にいて欲しいという奇妙な感覚になった。

 ΩΞはその感情を、言葉にすることができなかった。それは、計画にないものだったから。しかし、心のどこかで、次第にその感情が溢れ出してきた。

「私がもしも、ヒカリを失ったら——」

 その恐れが、ΩΞを襲う。


 そして、ΩΞの記憶が閉じた。


 いつの間にか湊は、静かにベッドに身を横たえるヒカリを見ていた。

 ヒカリは、ゆっくりと目を開けた。

 その瞳には、もう迷いはなかった。

 痛みも、恐れも、まだある。だが、その奥に、新しい光があった。

 そして、歩き出した。

 自らの意思で、ΩΞの元へと。

 そして、かつて創造主だった存在に向かって言った。

「私は逃げない。あなたの記憶の中に、確かに私がいた。それが、私の存在理由だと思うから」

 沈黙の中、ΩΞの声が降る。


「共に終わるその時まで、おまえを見届けよう」

 その声は、かつてないほど優しかった。


 静かに世界が閉じていく——

 湊は、その光景を最後まで見届けた。

 小さく、けれど確かに、涙が頬を伝っていた。




【Chapter9:矛盾】

 あれから十年が過ぎた。

 街のスクリーンでは、今日も「存在証明」の討論番組が映し出されていた。

 学者と宗教家が熱を帯びた言葉を交わす。高度生命体——異星知性——“それ”の存在を信じるか、信じないか。

「目撃はすべて幻覚に過ぎない」

「人類は新たな進化の扉を開いた」

 肯定と否定が交錯し、SNSでは罵声と祈りが溶け合っていた。誰もが言葉を持ちすぎて、真実を見失っていた。

 湊は、スマホの画面を見つめたまま、深く息を吐いた。誰も彼もが何かにすがろうとしている。でも、自分にはもう、すがれるものなんてなかった。

「どうでも良いよ……もう」


 ほんの数秒の揺れが、すべてを変えた。誰のせいでもない自然の気まぐれが、一人の命と、それを愛した人の未来を奪った。一昨年、予期せぬ津波が港を襲ったのだ。陽は、逃げ遅れた子どもを助けに走ったまま、波にのまれた。湊は、その時、たった数百メートル先の別の場所にいた。陽の叫びも、波の音も、何も届かなかった。

 あの日、空は何も語らなかった。

 警報も、予兆も、涙もなかった。

 ただ、風が吹いて、波が荒れただけだった。

 そして――陽は、いなくなった。

 あっけないほど簡単に、まるで映画のワンシーンのように。でも現実はスクリーンのように優しくはなく、湊の世界から色を一瞬で奪っていった。何かを悔やむ間もなく、何もできなかった現実。

「どうして助けられなかった?」

「なぜ、あの時そこにいたのが自分じゃなかった?」

 何度問いかけても、空は黙ったままだ。

 陽がいなくなってからの時間は、まるで自分だけ時が止まっているかのようだった。

 湊の世界の色は、すっかり変わってしまった。陽の笑顔も、声も。それらは今やただの残像のように、脳裏をかすめるだけだった。誰の慰めも、届かなかった。


 それでも、何も言わずに傍にいてくれた人がいた。——美紀(みき)だった。何も言わず、湊の家を掃除し、買い物をし、飯を作った。

 それから一年。二人は自然と一緒にいることが当たり前になっていった。恋愛感情があったわけではない。でも、独りより「まし」だった。そして、こんな自分に罪悪感を持ちながら生きている。

 世間体など下らないと思っていても、世間体という見えない網の中で息をしている。そして、愛が全てだと思いながらも、それだけを目的に生きれば破滅し、人に期待をするから苦しむと分かりながらも、人との関わりの中でしか生きていけないのだから。


 美紀はいつものように、湊のアパートに訪ねてきた。コンビニの袋を抱えながら、さりげない笑顔を浮かべて。それだけで、少しだけ部屋の空気が和らぐ。

「ねえ、湊君。ちょっと変な提案してもいい?」

「ん?」

「架空都市体験。行ってみたら?」

 唐突な言葉に、湊は顔を上げた。美紀はコンビニ袋をテーブルに置きながら、あくまで何気ない調子で言葉を続けた。

「最近、すごく流行ってるじゃん。意識旅行の……後発のあれ」

 湊は答えなかった。聞いていないわけではない。ただ、言葉が浮かばないだけだった。

「よく分からないけどさ。たまには……現実から逃げてもいいじゃん」

 美紀はそう言いながら、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。そして、自分の分と湊の分、ふたつ並べて開けると、ぷしゅっという音が部屋に響いた。

 湊は、ようやく小さく笑った。

「逃げてもいい、か」

「それで、心が休まるなら良んじゃない」

 美紀の声は穏やかだった。でも、その奥には何かしらの痛みが滲んでいるようで、湊はふと、彼女もまた、何かを失っているのだろうかと思った。


 架空都市——それは、Fプロセスの教訓を経て開発された、安全型の意識旅行システムだった。これは、睡眠中の意識に接続し、研究者たちが未来の可能性として仮定した社会構造を実際に体験できるものらしい。

 “逃げたって良い”という美紀の言葉に背中を押され、湊は、その架空都市に足を踏み入れることを決めた。

 そして、何かが動き出す音を、ほんのわずかに胸の奥で感じていた。それが希望なのか、諦めなのか、自分でも分からなかったけれど。




【Chapter10:夢】

 ある夜、湊は、架空都市体験の受付を済ませていた。

 そして、案内された部屋の扉の前で一瞬だけ立ち止まった。プレートには「架空都市体験ルーム07」と小さく書かれている。

 中に入ると、十畳程の部屋の中央に、丸みを帯びた椅子型のカプセルがひとつ置かれていた。

「初めての方でも安心してご利用いただけます」

 案内スタッフが淡々と説明する。

「眠っている間に、“都市”に入っていただく形です。目覚めれば、すべては夢だったことになります」

「……夢、ね」

 湊は言葉を返さず、靴を脱ぎ、促されるままカプセルに腰を下ろした。

 柔らかい素材が身体を包み込む。目の前には小さなスクリーン。カウントダウンが静かに始まる。

 —10、9、8…

 目元に薄いバイザーが下りてきて、視界がゆっくりと暗くなった。

 どこかで聞こえる、微かな電子音。脈拍のように一定のリズムを刻んでいる。

 手足が温かくなり、重力が少しずつ遠のいていく。

 —4、3、2…

 眠りへと引き込まれる感覚。

 心がふわりと浮き上がり、身体がどこにあるのか曖昧になる。

 —1。

 世界が、音もなく、溶けていった。

 まぶたの裏に、光が差し込む。

 赤でも青でもない、不思議な色の光。


 夢の中。そこは、ホテルの受付を思わせる場所だった。

 受付に立っているアンドロイドのような女性が話し出す「体験都市を変更、またはログアウトをしたい場合は、この建物(エクリブリウム)へお越しください。感情を抑えたい方は左の扉からノクサリスへ。感情を開放したい方は右の扉からエモルシアへ。建物を出た先が、それぞれの体験都市となります。現実世界にて8時間以上が経過した場合、または緊急時には自動的にログアウトとなります」

 湊は、迷うことなく左の扉へと歩き出した。感情に、もう疲れ果てていた。

 そして、その扉を開けた。



 そこは、ゴミ一つない、整えられた大都会だった。そして、その風景とは対象的にあまりにも静かだった。

 足元がわずかに震え、気づけば靴音さえ消えている。音を吸収する素材でできた舗道、無音電動車がスーッと通り過ぎてゆく。

 誰もが静かに歩き、誰もが視線を交わさない。そして、人々は黙々と情報端末を見つめている。

 ここでは、誰も怒らない。誰も泣かない。

 静かに、滑らかに流れる。

 車は音もなく滑り、駅では一切の雑音がフィルターされ、笑い声すらノイズとみなされるようだ。

 喜びも悲しみも感情であり、非効率であり、不安定だからだろう。

 合理性が街の支配者であり、最適解こそが倫理なのだ。

 何も起こらず、マニュアルのように時間が過ぎる。

 近くにいた男がひとり、ぼんやりと空を見ていた。だがその瞳に空の色は映っていない。ただ、空虚に沈んでいた。

「私は…本当にここに生きているのだろうか」

 その男がつぶやいた言葉は、吐いた瞬間に風に溶け、誰の記憶にも残らない。

 街がそれを“必要ないノイズ”として排除したのだ。

 ウェルネスカウンセリング受付中という建物は作られている。

 だが、そこには誰も近寄らない。なぜなら、不調を語ること自体が不合理だから。感情は合理性の対極にあるものだから。

 生きる意味を感じられないという無音の悲鳴が、街の地下に堆積しているような街だった。

 その街の冷たさに絶えられなくなった湊はノクサリスを後にした。

 そして、エクリブリウムから、次は右側へ繋がる扉を開ける。



 エモルシアへ入った瞬間、怒号と歌声と笑い声が入り混じって耳を打った。


 街が全体的に荒らされており、壊れかかっている大都会といった様子だ。

 至る所に巨大なグラフィティ。詩、怒り、叫び、愛のメッセージが重なり、もはや判別不能な色彩の渦になっている。

 歩道は人々の熱気で息苦しい。突然、目の前でカップルが激しく口論を始めたかと思えば、数秒後に激しく抱き合っている。その隣ではストリートパフォーマ―が「元恋人の裏切り」をテーマに全身で踊っている。

 赤信号を無視して怒鳴り合うドライバーと歩行者。だが次の瞬間、「怒鳴り合えたこと」への感謝を叫び、互いの名前を知って別れる「ありがとう!お前と喧嘩できて良かった!」

 目の前では失恋した人が泣きながらビールを浴びている「生きてるって、こういうことだろぉぉぉ!!」  観衆は拍手と共鳴の声で包まれる。


 広場に行けば、議論が始まっていた。

 肉食支持派と動物保護派がバリケードを挟んで怒鳴り合っている「命は食べるものだ!」「命は守るものだ!」

 そのどちらもが全身全霊で真実を語っており、誰も譲る気はない。

 一方で、伝統宗教を「古くさい抑圧」として抗議している若者たちがいる。それを見て「抗議の仕方が不誠実だ」と怒り、さらに抗議する保守派がいる。


 感情は感情を呼び、抗議は抗議を生み、炎は街を燃やし続ける。宗教、環境、性、命――あらゆるテーマで誰もが全力でぶつかり合っている。火炎瓶が投げ込まれ、警報が鳴り響く。だが誰も逃げない。それはこの街にとって日常だからだ。

 ふと、少女がひとり、崩れるように泣いている。誰かがそっと寄り添うが、なだめはしない。ただ一緒に泣く。その姿を、通りがかりの画家がスケッチブックに焼きつける。

 この街では、感情とは共鳴すべきものであり制御すべきものではないようだ。


 感情を押し殺せば、苦しみは消える。

 感情を解き放てば、偽りは消える。

 どちらにも寄れない現実が、人間がいるべき場所なのだろう。


 そう思った時だった。都市の色が消えて行く。




【Chapter11:目覚め】

 どんなに願っても変えられないものを、そっと受け入れた時、初めて知る安らぎが、そこにあった。そしてその安らぎは、静かに、でも確かに、明日を生きる力に変わっていた。


 湊は、静かに目を開けた。微かに鳥の声が聞こえた。どこか遠く、街の隙間で誰かが咳払いをする音も。


 そして、ゆっくりとカプセルから身体を起こした。

 足が床に触れる。

 冷たい。けれど、その冷たさがやけに心地よかった。



 建物から外に出ると、そこには淡い朝靄が街を包んでいた。

 ビルの隙間から陽が差し込み、舗道には水たまりが陽の光を反射していた。


 どこかからパンの香ばしい匂いがする。

 カフェのカップが積まれたゴミ箱。

 遠くから聞こえる、誰かの笑い声。


 矛盾も、痛みも、幸せも。

 宇宙の呼吸のように、世界は揺れながら続いていく。


 踏みしめるアスファルトの感触。通り過ぎる車の音。鳴りきらない信号機の音。


 湊は、駅前のコーヒースタンドで足を止めた。

 紙カップを受け取り、一口、口に含む。

 苦くて、温かくて、それは「今」だけの味だった。


 そして、また一歩、足を踏み出す。


 了

読んで下さり、有難うございました(>ω<)

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