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王太子、婚約をする

 立太子された挨拶をする為に隣国全てを回っていたサイレスだが、当初は隣国を巡ることに乗り気ではなかった。しかし、結果これがサイレスに幸運をもたらすことになった。

 自分としては第二王子として過ごしていくつもりでいたのだが、立太子の条件として、国王である父から出された課題に真剣に取り組んだ結果、選ばれたのはサイレスだった。

 もちろんやるからには目指していたし、実際選ばれた時は嬉しかった。しかし、携わってくれた人たちにお礼を言う間もなく始まったのが、今まで以上に縁談が持ち込まれることだ。

 外に出る時間も取れないくらい、次々と面談を求めて貴族たちがやってくるのだ。手に娘や親族の絵姿を持って。いつかはするつもりでいるが、今は王太子として覚えることが多く、また惹かれる相手もいなかったので、やんわりと多忙を理由に断っていたのが現状だ。第二王子として過ごしていた時も、王太子と第二王子では雲泥の差がある為、安定しない立場を理由に全て断っていたのだ。そんな自分が相手を選ぶには時期尚早と考えていた。しかし立場が変わった以上、そうも言ってはいられない。

 それでも、あれこれと煩い声を避けながら、勧められるまま挨拶という名目で旅に出て、そしてシルフィアに出会った。

 凛とした立ち姿。真っ直ぐな眼差し。少し小柄で細身の体は、サイレスが抱きしめると折れてしまいそうだったが、力強い口調と自信からくる落ち着いた声音は、そんなことを吹き飛ばしてしまう程頼もしいと感じた。

 彼女が良い。もはや直感だった。自分の隣に立ち、一緒に国をまとめて行く存在。それはシルフィアしかいないと思った。しかしその直後、ベンソンの婚約者だと知り落胆していたのだが、運は更にサイレスの味方だった。

 サイレスの目の前で起こった男女の言い合い。シルフィアとベンソンの婚約が白紙となる場面に遭遇したのだ。これを見逃すサイレスではない。直ぐにその場で婚約を申し込んだのは良いが、急遽だった為、つい『オレのところに来い』などと言ってしまい内心焦ってしまった。

 女性は結婚の申し込みの際、例え会う前から結婚が決まっている婚約だとしても、婚約期間中に受ける理想の結婚の申し込み方があると聞いていた。きっと理想とは程遠い言葉を聞いてシルフィアは驚いたに違いない。

 翌日挨拶にシルフィアの元を訪れるまで、本当はサイレスは少し不安だった。舞踏会で聞いていた話では、ベンソンとの婚約期間中は苦労の連続だったはず。それが落ち着くことなく、隣国の王太子妃にと言われたのだ。目に困惑の色が浮かんでいたのが鮮明によみがえり、断られるのはないかと思ったのだ。

 しかしサイレスは受けてくれるまで通い続けるつもりだった。それくらいシルフィアに惹かれたのだ。ベンソンとのやり取りでも、自国の王子に対して一歩も引かない姿勢は圧巻だった。普通の令嬢ならば泣いて頽れてしまっただろう。周囲の視線もベンソンを非難するもので、シルフィアに好意的であったことを考えれば、シルフィアは第二王子の婚約者としてしっかり務めていたことが窺えた。

 そんなシルフィアは美しく、やはり側にいて欲しいと願い、まずはピンクの薔薇を贈ることにした。

 シルフィアの立ち姿を思えば白い薔薇を。サイレスの気持ちを込めれば深紅の薔薇を。しかし、それらを混ぜて、シルフィアの美しさの中にある可愛らしさを表現したつもりだった。

 煌びやかな舞踏会とはまた違ったワンピース姿のシルフィアは、サイレスの中にぐっと入って来る姿だった。シルフィアとの日常を想像し、より愛しさを感じずにはいられなかった程だ。あの日は花束ごと抱きしめたくなる衝動を抑え、平静さを保つのに苦労したのだ。

 シルフィアとの王都散策も表情とは裏腹に浮かれている自分がいた。触れたいと伸ばした手を振り払わずにいてくれたことに歓喜し、口付けたい気持ちを抑えて手の甲に痕を付ける。

 少し驚きながらも、サイレスのしたいままにさせてくれたシルフィアの頬が赤く染まり、夕日に照らされた姿はより輝いて見えた。

 早くこの腕の中に閉じ込めたい。そんな欲求が湧き上がり、その日の内に父宛に早馬で婚約したい女性がいるという知らせを出した。

 一刻も早く結婚したい。誰にも取られたくない。その白い首筋に、細い腰に歯痕を付けたい。そんな欲望に駆られてしまう。

 サイレスにとって結婚は王子としての義務だった。愛する人を自分で見つけたいと内心思いながらも、そんなことは無理な話だと、父や臣下が決めた相手と結婚することになるのだろうと思っていた。

 城下に行き、庶民たちの睦まじい夫婦や恋人同士の姿を羨ましいと見つめながら、自分にはそんな自由はない。妃になる相手を大切にしよう、愛そうと心に決めていたが、喉の渇きを覚えるような恋愛とは無縁だと思っていた。

 しかしシルフィアに会ってしまった。欲しいと思い、側にいて欲しいと願う相手。諦めに似たこの感情を揺さぶる存在。シルフィアを手に入れなければ自分は不幸になるとさえ思った。今しかない。シルフィアの手を取らずに誰の手を取るのだ?シルフィアの隣に立つのは自分だ。他の男に渡したくない。

 そんな思いのまま求婚し、そして父に手紙を送った。父ならきっとわかってくれる。そして会えば必ずシルフィアを気にいる。それは確信していた。両親はシルフィアを必ず気にいる。自分が欲した相手なのだ。気に入らないはずがない。母とも話が合うだろう。サイレスと母親とでシルフィアを取り合う姿が思い浮かぶ。

 早く婚約を決めたい。まずはそこから。そして如何に早く結婚できるか。サイレスは王太子宮の庭園をシルフィアと散策する姿を想像する。

「顔がニヤけて気持ち悪い」

 そんな言葉が横から聞こえてくる。

「これくらい許せ」

 声をかけてきたのはトール。サイレスの近衛騎士だ。2歳年上で剣術を一緒に学んだ仲でもあり容赦がない。

「良いことです。サイレスがやっと結婚する気になったのですから」

 そう言ったのは、サイレスの秘書官、3歳年上のゴーガン公爵家の長男ロベリオだ。兄のような存在で、幼い頃からサイレスの側にいてくれた。サイレスを王太子にする為に共に戦った大切な存在でもある。

「にしても、ニヤニヤと笑いながら、何を妄想しているのやら」

「好きに妄想させれば良いでしょう。これで安泰なのですから」

 そんな二人の目は意外と冷たい。

「そんなに言われるほどの顔をしていたか?」

「ああ、気持ち悪いとさっきから思っていた」

「そうですね。視界に入れないようにしていました。国民の前でそんな顔をしないでくださいよ」

「大丈夫大丈夫。シルフィアと結婚したらしなくなるだろ?横にいるんだから」

「いや、わからん。今のおまえを見ていると結婚しても側にいないとそんな顔になりそうだ」

 横でロベリオも頷いている。

「信用無いな。でも休憩中くらい良いだろ?」

「休憩中に宮に帰りそうですね。そして迎えに行かないと戻って来ないという」

 ロベリオの言葉にサイレスは視線を逸らす。

「いや、そんなことはない。仕事は仕事だから。ちゃんとするさ」

「まあ、何でも良いですけどね。仕事さえしてくだされば。サイレスはやれないわけではなく、やろうとしていなかっただけですからね」

「ロベリオ冷たい」

「そんなことより、明日からの視察の調整をして、シルフィア嬢と会う時間を作らないといけませんね。私は優しいのでそれくらいはしますよ」

「ロベリオ優しい」

「心底気持ち悪い。浮かれた頭だと失敗するぞ。シルフィア嬢をしっかり落としてこい。今はまだ流されているだけかもしれないからな」

「わかった。真摯に思いを伝える。オレにできるのはそれだけだ。絶対に逃がさない」

「はあ、おまえってめんどくせーのな。もっとあさっりしているのかと思っていたが、意外に執着しまくりだし。シルフィア嬢が気の毒に思えて来たよ」

「確かに。捕まったら逃れる術はなさそうですね」

「逃がすわけないだろ?大切にするよ。生涯幸せな夫婦になる」

「王太子になると決めたのはサイレスですよ。きっちりこなしてください。やればできるんですから」

 うんざりした二人の顔を見ながら、サイレスは早く父から返事が来ることを祈った。


 一週間の滞在の最終日、サイレスは宿泊施設で身支度をしていた。この数日、視察をしながらも、シルフィアとの逢瀬を楽しんだ。少しずつサイレスに慣れてきたシルフィアは、自然な笑みをたくさん浮かべるようになった。午前はシルフィアに視察先を案内してもらい、その後は二人で街をぶらぶらと散策する。そんな幸せな日々を過ごしていた。自分でも浮かれている自覚はある。しかし、会えば会うほどシルフィアを好きになる。知れば知る程愛しさが増す。そんな日々だった。

 明日からは離れ離れになる。サイレスは帰国し、シルフィアとの婚約を目指し動かなければならない。色々言って来る人間もいるだろうが、必ずこの婚約を認めさせる。

 今日は昼前には出立しなければならない。最後にシルフィアに会ってもう一度愛を伝える。そう強く思った時、サイレスの部屋をノックする音がした。

「入って良いぞ」

 その応えにドアが開く。入って来たのはロベリオと旅姿の近衛騎士だった。

「陛下より書簡をお持ちしました」

 そう言って渡された書面を見てサイレスは天を仰いだ。

「サイレス、どうした?」

 ロベリオとトールが近づいて来る。

「父上が婚約を認めてくれた。出立前に婚約証明書を書いてもらうようにとのことだ」

 二人が顔を見合わせる。そんな二人の前に父からの手紙と同封されていた婚約証明書を見せる。承認欄に父の名前が書かれている。これにサイレスが署名し、シルフィアとシルフィア側の承認欄をシルフィアの父に書いてもらい、国に持ち帰って聖堂に持って行けば婚約が完了する。いや。マフィージ王国の聖堂に出しても良いはずだ。だから父の署名も入っているのだろう。

 盛大な婚約式はできないが、名実ともにサイレスとシルフィアの婚約が認めれらることになる。急がない手はない。マフィージ王国で出そうとサイレスは決意した。

「それはまた早いですね。陛下も早く結婚して落ち着いて欲しかったのでしょう」

「王妃殿下のことだから、面倒な貴族から選ぶより他国の公爵家令嬢の方が良かったのかもしれないな」

「確かに。王妃殿下は怒ってらっしゃいましたね。王太子になった途端、手のひらを返して第一王子殿下ではなく、サイレスに縁談を持ち込む貴族が増えましたからね。あれだけ第一王子に縁談を申し込んでおいてくるりとするのは流石に嫌なのでしょう」

「しょうがないさ。それくらい兄上が王太子になるだろうって思われていたんだろ。オレだって思ってたし」

「サイレスはよくやったよ。第一王子が自滅しなくてもサイレスが選ばれたさ」

「そういうことです。王太子妃に相応しい女性をご自身で見つけられたのですから、陛下も王妃殿下も早く決めてしまおうと思われたのでしょう」

「そうだな。よし、シルフィアの元に行こう。その足で聖堂に行くぞ」

「え?!もう出すんですか?国に帰ってからでも」

「待てない。それに国に帰ったら阻止するやつらが出て来るかもしれないからな」

「まあ、確かにな」

「だろ?早いに越したことはない。さて、行くぞ」

 サイレスは書面を大切に箱に戻すとブレーセン公爵家へと向かった。


 ブレーセン公爵邸でサイレスが父の書簡と婚約証明書を見せると、シルフィアやその家族は一様に驚いていた。

「もう、ですか?このまま署名しても大丈夫ですか?」

 シルフィアの父が困った様に聞いてくる。

「ああ構わない。その為に父の署名も既に入っている。できれば今から出しに行きたい」

 サイレスの言葉にシルフィアがペンを持った。

「お父様。私はサイレス様と婚約したいです」

「わかった。急すぎるが、二人の気持ちを尊重する。しかもクレメンタール国王陛下の承認があるなら大丈夫だろう」

 その言葉にさらさらとシルフィアがペンを走らせる。そして公爵にペンを渡す。そして公爵の署名が終わり、サイレスの手元に戻って来た。

「感謝する。ではこれを出しに行こう」

 そう言って立ち上がるとサイレスを制止する声が上がった。

「お待ちください」

 制止したのはシルフィアの母親だ。サイレスはもう一度席に着くと言葉を促した。

「サイレス殿下が娘を望んでくださり感謝しております。しかし、今マフィージ王国で婚約証明書を聖堂に出しに行けば、衆人の好奇の目にさらされます。ベンソン殿下と婚約白紙したばかりです。それで直ぐに婚約証明書を我が国で出せば、あちらこちらから覚えのないことを言われかねません。本日帰国なさるとのことですから、どうかクレメンタール王国で出してください」

 確かに今二人揃って聖堂に婚約証明書を出しに行けば注目を浴びるだろう。自分の気持ちばかりだったことにサイレスは瞠目した。シルフィアが受け入れてくれたことに確かに舞い上がり浮かれ過ぎていたようだ。シルフィアの立場を思えば、今日マフィージ王国に出しに行くのは得策ではない。

「申し訳ない。シルフィアの立場を思えば母君の言う通りだ。すまない、シルフィア」

 サイレスは頭を下げた。

「いえ。私は気にしておりません。でも確かに母の言う通りかもしれませんね。サイレス様がクレメンタール王国で出していただけませんか?」

「もちろんだ。任せて欲しい。王都に到着したその足で出しに行こう」

 サイレスが言うとシルフィアが微笑んだ。この笑顔を守りたい。強い気持ちが湧き上がる。

「もう行かねばならない。帰国前に渡しておきたいものがある」

「渡したいものですか?」

「ああ」

 サイレスはロベリオに持たせていた袋から小さな箱を出すとシルフィアの前に置いた。ハッと息を飲む声が聞こえる。箱の大きさで何かわかったのだろう。

「開けてみてくれ」

 小さく頷いたシルフィアがそっと箱を開ける。

「まあ!綺麗・・・」

 サイレスは箱の中身を取り出すとそっとシルフィアの手を取る。

「生涯愛することを誓う」

 サイレスはそう言ってシルフィアの指に指輪を通した。金の指輪にルビーが付いているもので、ルビーの中でも特に燃えるような赤を探すのに苦労した。シルフィアと会った後、燃えるような赤い色のルビーを探して宝飾店を数日回った甲斐があり、その場でカットの仕方なども指示して急ぎで作ってもらったものだ。

「私の指にぴったりです」

「シルフィアに忠義の熱い侍女から借りたんだ。似合っている」

 シルフィアと扉の近くを見ると、そこにはシルフィア専属の侍女エメがいた。にっこり微笑んでいるエメはいたずらが成功した子供の様だ。サイレスがエメに頼んだのだ。指輪を貸して欲しいと。するとエメは自分が今まで通りシルフィアの専属侍女を続けられるなら協力すると言ってきたので、もちろん許可をした。慣れない隣国での生活になるのだから、打ち解けている侍女が側にいることはサイレスにとってもありがたい。

「エメを連れてオレの元に嫁いでくれ」

 サイレスは指輪をはめたシルフィアの手に口付けた。

「かしこまりました」

 それにシルフィアの顔に朱が走る。エメを見ると今度は涙ぐんでいるようだ。

「戻ったら直ぐにこれからの日程を決めて連絡をするから待っていて欲しい」

「はい。お待ちしております」

「クレメンタール王国でシルフィアに会うのを楽しみにしている」

「私も楽しみにしております」

 二人で見つめ合っているとコホンと咳払いが聞こえる。

「何だ、ロベリオ」

「そろそろお時間です」

「もうか?」

「はい。今日中に国境近くまで参りませんと」

「だそうだ。すまない。少しでも早く会えるようにする」

「あまり無理をなさらないでください。私はクレメンタール王国のことについて勉強をしてお待ちしておりますから」

「いや、オレが早くシルフィアに会いたいんだ」

「嬉しいお言葉ですが、私にはたくさん学ばなければならいことがありますから、今日明日というわけにはいきませんよ」

 そう言って笑うシルフィアが眩しくて、今すぐ抱きしめたい衝動に駆られたのをグッと耐える。

「シルフィアなら大丈夫だ。それからシルフィアの隣はオレの場所だということだけは忘れないでくれ」

「他の男性など目に入りません。サイレス様のお側が良いのです」

 サイレスは再度耐えると、もう一度シルフィアの手に口付ける。

「次に会えるのを楽しみにしてる。その時は夫婦になる時だ」

 サイレスの言葉にシルフィアの頬が染まる。

「そうですね。そうなりますね。お待ちしております」

 少し俯いたあと見上げて言って来るシルフィアに、愛しさが増し心臓が激しく脈打つ。

「ああ。楽しみだ。

 公爵。他の男を絶対に近づけないでくれ。シルフィアが大丈夫でも、他の男が言い寄って来るかもれしれない。ベンソン王子が気を変えるかもしれないしな」

「お任せください。指一本触れさせません。ベンソン王子殿下などもっての外です」

「僕も姉上を守りますから安心してください。義兄上」

 イザークの言葉にサイレスの心が浮き立つ。そうか。家族が増えるというのはこういうことでもあるなと不思議な安心感を覚える。

「頼んだぞ、イザーク」

 サイレスは胸に留めていた、クレメンタール王国の紋章が画かれた記章をイザークに着ける。それにイザークが驚いてサイレスを見てきた。

「これを着けていれば我が国の国境の通過は容易にできるようになる。何かあれば直ぐに知らせて欲しい」

「わかりました。お任せください」

 イザークが強く頷いたのを見てサイレスは安心した。

 席を立つと玄関へと向かう。それにシルフィアたちが付いて来る。馬車に乗る前にシルフィアを振り返った。

「ではまた。シルフィア。体を大事にしろ。無理はするな。他の男には気を付けろ。近づいてきたら逃げるんだぞ」

「そんな男性いませんよ」 

 そう言って苦笑するシルフィアだが、何があるかわからない。

「公爵。シルフィアが出かける時は護衛を増やしてくれ。こんなに美しいんだから誘拐されるかもしれない」

「かしこまりました。そのようにいたしましょう」

「心配し過ぎですよ。私を誘拐だなんて」

「いや、ダメだ。気を付けるに越したことはない」

 シルフィアが再度苦笑するがサイレスは譲る気はない。

「わかりました。気を付けますね」

「そうしてくれ。ではまた。約束だぞ。気を付けるんだぞ」

「はい。気を付けます」

 最後にシルフィアを抱き寄せ頭に口付けを落とす。

「愛している。早く会えるようにするから待っていてくれ」

 耳元で囁くとサイレスはシルフィアに背を向け馬車に乗り込んだ。窓から手を振るサイレスにシルフィアが応えてくれる。

 出立の声で馬車が動き出し、どんどんシルフィアが小さくなっていく。早くこの腕で抱きしめたい。誰にも何も言わせない。

「顔。戻してください」

「ロベリオ。またおかしかったか?」

「ええ。もっと颯爽と馬車に乗ることはできませんでしたか?ぐちゃぐちゃと公爵におっしゃって」

「心配なんだからしょうがないだろ?」

「結婚前に重いって思われて逃げられますよ」

「もうこれがあるから大丈夫だ」

 そう言ってサイレスが婚約証明書を開いて見せる。

「はあ。まあそうですがね。さっさとそれを出しましょう。やっぱり止めたって使者が来ると大変ですからね」

 諦めたようにロベリオが地図を開く。

「王都よりブルーラ領の方が近いですね。そこの聖堂で出しましょう」

「良いこと言うな、ロベリオ」

 ブルーラ領とはサイレスが任されている領地だ。確かに王都に戻る前に少し寄り道できる距離にある。

「ええ。ブルーラ領ならサイレスを歓迎してくれますし、王都より人目がありませんからね」

「よし、ブルーラ領へ向かおう。一日くらい帰城が遅れても、ついでに領地の視察もしてきたと言えば良い。丁度よかったよ。シルフィアにブルーラ領に連れて行く約束をしたんだ。ブルーラ領の居城の侍女を、シルフィアの専属としてオレの侍女長に教育してもらおう」

「そんな簡単におっしゃって。まあサイレスはブルーラ領を気に入ってますからね」

「海もあるし、隠れた観光地って感じが良い。それに活気もあるしな。もっと発展させたいところだが、発展させ過ぎると今の良さがなくなる。微妙なところなんだよな」

「確かに。しかし、既にサイレスが管轄するようになってから少し発展しましたよ」

「だから、これ以上発展させるか、なんだよ。現状維持か、もっと観光地化するか。悩むところだな」

 これからの領地経営について二人で話しあっているうちに国境付近に到着し、その場所で一泊。そして翌日国境を越えるとサイレスはブルーラ領へと向かったのだった。


「サイレス殿下。ようこそお越しくださりました」

 迎えてくれたのは領地の現地管理をしてくれているアランだ。

「婚約が決まった」

「おめでとうございます!」

 一瞬驚いたようだが直ぐに祝辞をくれたアランは嬉しそうだ。

「ここの侍女を一人、王太子妃専属侍女として雇いたい。婚約者も今付いている侍女を連れてくるが、オレからも一人準備したいんだ。王城で選べばわだかまりも出るだろうし、ここで選べばある程度文句を防ぐことができる。任せられる侍女を選んで欲しい」

「そうですね。王太子妃殿下付きですから若い方が良いでしょう。ルーラはいかがですか?」

「ルーラか。確かに快活でシルフィアの話し相手に良いかもしれないな」

「ルーラをお呼びしましょう」

 そう言ってアランは近くにいた文官を呼びにやる。

「お相手はシルフィア様とおっしゃるのですね」

「ああ。マフィージ王国の筆頭公爵家の長女だ」

「それはまた思い切った判断をされましたね。ですがその方が良いかもしれませんね」

「そのうち連れて来る。マフィージ王国の王都は海に面しているから、きっとブルーラ領を気に入ってくれる」

 そんな話をしているとルーラがやってきた。

「ルーラ。王太子妃専属侍女にならないか?」

 サイレスがルーラに問う。それに驚いた顔をしたルーラだが、次第に満面の笑みになった。

「お任せください!王城で働く資格は持っております」

「ルーラは王都出身なんですよ。祖父母が暮らすブルーラ領で働く為に来たんですが、祖父母が昨年相次いで亡くなったので、そろそろ務めを変える為の話し合いをしようと思っていたところなので願ってもない話のはずですよ」

 アランがルーラを見る。

「はい。そろそろ王都に戻ろうかと思っていたので、お声をかけていただき感謝いたします!精一杯務めさせていただきますのでよろしくお願いいたします」

 がばりと頭を下げるルーラにロベリオが苦笑している。

「じゃあ準備が出来次第王城に来てくれ。王太子妃専属侍女としての教育を受けてくれ」

「かしこまりました!」

 これはシルフィアが気に入るに違いないと確信したサイレスは、後をアランに任せると聖堂へと向かった。

 聖堂は領地の中心地にあり、大きくはないが建物の歴史は古く、白い石造りで美しい。

 迎えてくれた聖官長は嬉しそうにさっさと婚約証明書を受理してくれた。これでサイレスとシルフィアの婚約が正式に決まったことになる。

 思い入れのある領地に婚約証明書が保管されることが、存外に嬉しく感じると同時に身が引き締まる。ここを選んで良かった。サイレスは聖堂をの天井を見上げた。そこには創建時から色褪せることなく、三角に尖った吹抜けの天井に花の絵が画かれている。

 その花はブルーラ領でしか咲かない花らしい。ミュラという白い花で、ブルーラ領では家の庭にも、畑の隅にも咲いている。もちろんミュラを栽培している農家もある。大ぶりの花弁は香りが良く、香油にして販売しているのだ。

 サイレスはそれを知り、花弁を埋め込んだ石鹼や、お茶の香り付けに転用し販売することを提案した。試行錯誤して出来上がった製品は高評価で、今はミュラの農地を増やしているところだ。年中咲くミュラは安定した収入源として期待ができるのだ。

 聖堂を後にしたサイレスは、早くシルフィアをここへ連れきたいと思いながら馬車に乗り込んだ。

「これで婚約が成立しました。おめでとうございます」

 ロベリオの言葉にサイレスは頷いた。

「ああ。ありがとう。ロベリオの提案に乗って良かったよ。いい思い出になりそうだ」

「左様ですか。サイレスが腑抜けている間に、ブレーセン公爵家に知らせを出しましたのでご安心を」

「誰が腑抜けているんだよ。まあでも感謝する」

 サイレスは素直に感謝の言葉を口にした。ロベリオは有能なのだ。幼い時からいつでも頼れる存在なのだ。

「まあでも、は余計です。シルフィア嬢には素直にお気持ちを伝えてくださいよ」

「大丈夫。そんなことを言うロベリオは伝えているのか?」

「もちろん。愛妻家なので。ミランダは花が好きなのでよく花を買って帰りますよ」

 そんなことも知らなかったのかという顔でロベリオが見て来る。

「愛妻家なのは知っている。よくミランダを褒めているからな。それを本人にも伝ているのか?」

「ですから、もちろんです。伝えなくても伝わるものもありますが、言葉にして伝えた方がより伝わると思いませんか?」

「それはそうだが、ロベリオのそんな姿が想像できない」

「そうですか?ミランダには鬱陶しがられてますけど」

「はは。より想像できないな」

 不思議そうにしているロベリオから視線を外すと、サイレスは流れる景色を見た。自分もたくさん言葉にしてシルフィアに伝えよう。それこそ鬱陶しいと思われるほど。

 サイレスの乗った馬車は、一路王都へと向かった。

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