王太子と婚約する
サイレスと夕食を共にした後、自邸に帰ると妹のフランカが待ち構えていて談話室に連れて行かれた。中に入ると家族全員が揃ってシルフィアの帰りを待っていたらしい。
「ただいま戻りました」
「お帰り。シルフィア。朗報だぞ」
父が満面の笑みを浮かべている。
「ベンソン王子との婚約白紙が決まった。というかもう手続きをしてきた」
それを聞いてシルフィアが安堵の息をつく。
「良かったです」
「さすがにあんな事件が起これば陛下も王妃殿下も受け入れてくれた。
それに陛下や王太子殿下はシルフィアが隣国のクレメンタール王国の王太子妃になってくれれば、マフィージ王国として関係性が良好に保てると考えたようだ。王太子妃殿下も仲の良いシルフィアが隣国の王太子妃になれば交流がしやすいと言っている。
まあ結果的に双方婚約白紙に問題はないということになった。それから、陛下と王妃殿下がシルフィアに謝罪したいから登城して欲しいと言っていたぞ。
さあ、これで心置きなくサイレス王太子殿下との婚約の話を進められる。いやあ長かった。サイレス王太子殿下には感謝だな」
父が笑いながらワインを飲んでいる。よく見れば母も飲んでいてチーズがかなり皿から減っているのが窺える。シルフィアが帰宅する前から祝杯をあげていたのだろう。
「お姉様おめでとうございます。やっとあの王子と縁が切れますね。クレメンタール王国なら隣ですし、僕たちも会いに行きやすいです」
イザークが果実水を片手にチーズを頬張りながら言う。
「ありがとう。でもまだ正式に決まったわけではないのよ。クレメンタール王国側が何て言うかわからないもの」
「認められないなんてことないわ!私が王太子でもお姉様を選ぶもの!」
「ありがとう。フランカ。でも口の周りにクッキーの屑が付いているわ。淑女として家族しかいなくても気を付けないと」
シルフィアはそう言ってフランカの口元をハンカチで拭う。
「今はそれどころじゃないわ!それに私は王子妃になるわけじゃないからこれくらい良いのよ!」
興奮しているのかフランカがクッキーを持ったまま立ち上がる。
「皆落ち着きなさい。シルフィア。今日は楽しかったか?」
「はい。とても楽しかったです。サイレス様のお考えとかを知ることもできましたし」
「そうか。それなら、明日サイレス王太子殿下に婚約をお受けする話をしてくるよ。後は吉報を待つだけだ。クレメンタール王国側が駄目だって言うならそれはそれで良い。とにかくベンソン王子との婚約白紙ができただけでも収穫だ」
父がご機嫌でワインを傾ける。確かにそれだけでも収穫かもしれないが、シルフィアの心はもうサイレスの側にある。
「どうした?不安か?」
シルフィアの顔が曇ったのに気付いた父が聞いてくる。
「はい。少し。サイレス様が昨日お決めになられたことなので、クレメンタール王国に戻ってから国王陛下や貴族たちがどう思うかと」
「心配するな。サイレス王太子殿下に任せておけばいい。破談になったとしても、シルフィアに瑕疵はない。ゆっくり他の相手を探せばいい」
「お姉様はベンソン王子の代わりにベンソン王子の所領の管理もされていたから、このまま家に残って僕と一緒に領地経営をするのも良いですね!」
「え~。じゃあ私も残る~」
「何を言っているの。二人とも。お母様が素敵な方を探すから安心して待っていなさい」
母がにこにこと笑いながらそんな弟妹たちを窘める。実はシルフィアも家に残ることを考えていた。もはやサイレス以外の男性に嫁ぐなど考えられなくなってしまったのだ。昨日の今日でと自分でも思うが、今まで感じたことのないこの心臓の奥から湧き上がる感情が、一日で恋慕から来ていると理解し始めていた。
シルフィアにとって自分が恋をするなんて思ってもみなかったのだ。ベンソンに恋をする淡い期待はしたが一年で崩れ去った。その一年の間でもこんな感情を抱くことはなかった。その為自分は恋を知らずに結婚するのだと思っていたのだ。
貴族の結婚なんて政略が絡んでくるもの。恋や愛だのと無縁な人も多い。愛人をお互い作り合っている夫婦もいる。だが婚約してから生まれる恋がある。結婚してから更に深まる愛があるのも知っている。目の前にいるシルフィアの両親もそうなのだ。
婚約する際に初めて会って、その一年後に結婚したと聞いている。しかし、二人はいつも一緒に買い物に出かけたり観劇に行ったりと楽しそうで仲睦まじい。
ベンソンとの関係に悩むシルフィアに、結婚してから変わる人もいるからと言って母は慰めてくれたものだ。一向にそんな感じはなかったし、結局こんなことになったのだが。
そんなシルフィアにとってサイレスは眩しかった。隠すことなくシルフィアに好きだと告げる姿に、戸惑いながらも嬉しさが込み上げた。初めての感情にシルフィア自体が付いて行けない。けれど立ち止まるという選択肢は、一緒に過ごすうちにどこかへ行ってしまったのだ。
サイレスの思いに応えたい。ときめく心の内を曝け出したいと思ってしまった。実際は淑女としての振る舞いに体が反応してしまいできなかったが、もう少しで直ぐにでも一緒に連れ帰って欲しいと言い出しそうだった。それくらいサイレスの隣は心臓は煩かったが居心地が良かった。
もしクレメンタール王国で認められず破談になったとしたら、シルフィアは一生一人でいようと考えていた。サイレス以外と結婚するなど考えられない。そんなことをするくらいなら家に残って仕事に励んだ方が良い。跡取りには弟がいる。しかしいつかある領地全てがそれなりに広い。どこかの領地に移り住みその領地を直接経営させてもらう。
我儘かもしれないが、今のシルフィアにはそれしか思いつかなかった。そこへ黙って聞いていた母が口を開いた。
「シルフィア。あなたがどうするか決めて良いのよ。クレメンタール王国に断られて新しい相手を探すなら、この母が良い方を探しましょう。イザークの言うように家に残るという選択肢もあるし。
そうね、破談になって家に残るなら王家の領地を賠償にもらうことにしましょう。そうすればそこをシルフィアが経営すれば良いもの。それくらいあなたは頑張って来たんだから。
それからクレメンタール王国に嫁いでみたものの、意地悪されたら離婚して帰って来なさい。無理して関係を築く必要はないのよ。あなたが精一杯やっているのに、それを受け入れず批判してくるようなら、見切りをつけて帰って来なさい。良いわね?
サイレス王太子殿下が守るとおっしゃっても、それ以上のことをされるかもしれないわ。厳しい立場よ。王子妃より王太子妃というのは。これまで以上の事を求められますからね。ましてや他国。隣国と言えど風習が違ったり、物事の捉え方が違ったり。そんな中にあなたは行くのよ。
我慢も必要だけど、我慢し過ぎるのもよくないと思うの。私はあなたの頑張りを見ていたからこそ言うのよ。駄目だと思ったら帰って来なさい。良いわね?」
シルフィアは母の言葉に涙が出そうになった。帰る場所がある。それだけで頑張れる。
「ありがとう。お母様。駄目なら帰って来ます。そうなったらどこか我が家の領地でのんびり暮らすことにします」
「そう。それくらいに思っておけば良いのよ。無理することはなんてないわ。体に悪いもの」
母としばし視線を交わし頷きあう。
「さあ。そろそろ休むとしよう。まあなんだ。後は向こう次第だから、まだ先の話だ。久しぶりにゆっくりできるんだから休むと良い。友達とお茶会でもしたらどうだ?」
「そうだ、忘れていたわ。お友達のルリバーラさんから招待状が届いていたわよ」
母が執事に声をかけると一通の招待状を渡される。差出人は確かに友人のルリバーラで、昨日の舞踏会で一緒にいたのだ。きっと状況を知りたくて送って来たのだろう。封を切り中身を確認すると、お茶会の招待状で、なんと開催日は明日でルリバーラの邸に来るようにと書かれている。
相当気になっているのが伝わってくる筆跡で、とにかく絶対に来るようにと書かれている。せっかちなルリバーラらしいとシルフィアは笑った。
「明日の午後からハンバー侯爵家へ行って来るわ」
「そうしなさい。ルリバーラさんも気にしてるでしょうからね。あの場に居合わせたんでしょ?」
「ええ。ルリバーラとリオナも一緒にいたの。心配してくれてるだろうし話してくるわ」
「手土産を料理長に作ってもらいましょう。伝えておくから子どもたちはもう寝なさい」
母の言葉で解散となるとシルフィアは自室へと向かった。
「おめでとうございます。シルフィア様」
部屋に戻ると声をかけて来たのは専属侍女のエメだ。
「エメ。まだ決まってないわよ」
「いいえ。必ず決まります。前からのお約束通り、結婚されても私を専属にしてくださいね」
そう言ってエメがシルフィアのハーフアップにしていた髪をほどく。
「隣国に行くのよ?家族はどうするのよ」
「クレメンタール王国は近いですからね。たまにお休みをいただいて会えば良いだけです。私は付いて行きますよ」
心強い申し出にシルフィアは笑みをこぼした。
「その時になったらお願いするわ。でも、ちゃんと考えるのよ。将来のこともあるし」
「ご心配はいりません。私は男性の好みには煩いので、そう簡単には理想の相手に会えることはありませんよ。クレメンタール王国で見つかれば良いんですけど。さあさあ、お疲れになられたでしょう。湯に浸かって体を解して寝ましょうね」
「ありがとう。エメ。あなたになら安心して任せられるわ」
「そうです。安心して王太子妃になられてくださいね。私も楽しみです。絶対に私を連れて行ってくださいよ。侍女はこちらで準備しますとか言われても押し切ってくださいね。シルフィア様が王妃になられる姿が目に浮かびます」
うっとりとそう言うエメにシルフィアは苦笑した。
「わかった。よろしくね。エメ」
「はい!」
そう元気に答えるエメは、シルフィアがベンソンと婚約した時に、シルフィア専属として採用された侍女で、父が厳選して応募者から選んだ優秀な侍女だ。実家は子爵家だがあまり裕福ではなかったらしく、三女のエメは自分の力でお金を稼ごうと、貴族が通う学院には行かず高位侍女になる為の専門学校に通い、首席で卒業した才女である。
主席は代々王宮勤めを選ぶそうだが、エメは王宮侍女には応募せず、筆頭公爵家の長女の専属侍女になる方が良いと思ったらしい。しかも第二王子の婚約者だから、嫁入りに付いて行きたいと希望すればいずれは王宮勤めに変更になるし、初めから王宮勤めをするより短期間で出世できると言っていた。正直なのがまた魅力で、4歳年上のエメはシルフィアにとても尽くしてくれている。
侍女としての仕事も完璧だが、良い話し相手にもなるし、何より博識なので話がおもしろいのだ。かなりの読書好きで、貸本屋で借りてきたり好きな作家の本は買っているらしい。
勤め始めた頃、読書家だと聞いて邸の書庫を自由に使って良いと言うととても喜んでいた。そのうち蔵書全てを読むんじゃないかと思ったほどで、エメの生活は仕事をしているか本を読んでいるかのどちらかなのだ。
「クレメンタール語は少し話せるのですが、もっと勉強しておきますね。ああ、楽しみです!王太子妃付の専属侍女。私が選んだ道は正しかったです。初めてお会いした時から、シルフィア様にお仕えしていれば良いことがあると思っていたのです。シルフィア様はベンソン王子殿下の妃よりずっと王太子妃の方が似合いますよ」
「ありがとう。エメなら日常会話は問題ないわ」
そうシルフィアが言うと、エメは引っ越しの準備をする為に買った本をまとめないと、などと言っている。気が早いと言うと、今から始めないと間に合わないのだそうだ。全部持って行かずに厳選するらしい。持って行けない分は孤児院に寄付するそうで、そういった優しいところもエメの良いところだ。
これからのことを夢見て話すエメに、シルフィアは自分も前向きにもっと捉えようと笑顔で話を聞くのだった。
「行ってきます」
そう言ってシルフィアは馬車に乗り込むと友人のルリバーラの邸へと向かった。
ルリバーラとの出会いは9年前。10歳になると初めて国が主催する刺繍大会に参加ができるようになる。もちろん年齢で組み分けされていて、シルフィアが参加したのは子どもの部だ。その上に16歳から参加する大人の部がある。
シルフィアは自信作を出展したのだが、実に1ヶ月かけて作った子供にしては大作だった。しかし結果は3位。その時1位だったのがルリバーラで、たぶん今日も来ているであろうリオナが2位だった。
悔しかったが、二人の方が確かに上手かった。3人で健闘を称え合い、それ以来友人関係となったのだ。ルリバーラは快活で物事をはっきり言う性格で、反対にリオナは物静かだった。ちょうど間くらいの性格のシルフィアと3人でお茶会や刺繍会をするようになり、そのほとんどがルリバーラの邸で行われる。
この前の事件も、舞踏会で3人で一緒にいたところ始まって、ルリバーラは横で文句を言っていた。会えばついついシルフィアが愚痴を言ってしまうから何でも知っているのだ。早く婚約を白紙にしろとルリバーラは特に言っていたので、今回のことは気になってしょうがないのだろう。
シルフィアは質問攻めにされるのを覚悟し、ルリバーラの好きな胡桃のシロップ漬けを使ったケーキを作ってもらった。
しばらくするとルリバーラの邸が見えてきた。ルリバーラはハンバー侯爵家の長女で、絶賛婚約者を募集中だ。シルフィアの話を聞きすぎて、結婚をしたくないと言い出し、持ち込まれる縁談全てを断っていたのだが、婚約だけでも良いから一度してみて考えるように両親に言われ、渋々数々来る絵姿などを見ながら吟味しているらしい。
馬車がハンバー侯爵家の馬車止に着くとルリバーラが迎えてくれた。
「待ってたのよ!さあ、早くどうなっているのか話を聞かせて」
出迎えの言葉をすっ飛ばし駆け寄って来たルリバーラに手を掴まれると庭園へと連れて行かれる。案の定リオナの姿があった。淡く微笑み手を振っている。
「さあ、聞かせてちょうだい!」
椅子に座るなり身を乗り出しルリバーラが聞いてくる。リオナはそれに苦笑している。きっとシルフィアが来るまで二人で今回の話をしていたのだろう。リオナはコユール伯爵家の長女である。
「わかったから落ち着いて。とりあえず、ベンソン王子殿下との婚約は白紙になったわ」
「良かったじゃない!当たり前よ。あんなことされちゃね。ある意味お似合いの二人だったじゃない」
ルリバーラがニヤリと笑っている。
「まあね。解放されるなら好きにすればいいわ。王太子殿下がしっかりされているから国民も困らないでしょうし」
「王太子妃殿下も素晴らしい方だものね」
リオナが小さな声で言っている。
「ベンソン王子は更生しそうにないわね。まあ良いけど。それより、クレメンタール王国の王太子の件が聞きたいのよ!昨日、王太子殿下がシルフィアの邸に来られたんでしょ?私たちはそこが聞きたいの!」
「はいはい。私たちってルリバーラがでしょ?」
「そんなことないわよ。リオナも気になるわよね?」
「そ、そうね。シルフィアには幸せになって欲しいから」
ルリバーラの勢いにリオナが苦笑している。
「で、どうだった?」
「サイレス王太子殿下に婚約を申し込まれたわ。国の決定が出ていないから正式なものではないけれど」
「それで?」
「お受けすることになったわ」
「良かった!シルフィア!おめでとう!」
「良かったわ。シルフィアが嬉しそうで」
二人が喜んでくれてシルフィアは笑みを浮かべた。
「その後二人で出掛けたの。王都の案内を頼まれたから」
「ほほう。楽しそうなことになっているじゃない。詳しく詳しく」
ルリバーラの頬が興奮で上気している。
「ルリバーラは自分のことはからきしなのに、人のこういった話は大好きよね」
やれやれとシルフィアが言うとルリバーラがもちろんと頷く。
「当たり前じゃやない!人の恋愛話は大好きよ。わくわくしちゃう。ね、リオナ」
「私はシルフィアが幸せなら良いの。お相手は隣国の王太子殿下だし言えないこともあるわ」
「もう。リオナってば。私たちは友達なんだから聞いても良いのよ。さあ、だから話せる範囲で良いから教えてよ」
ルリバーラの目がキラキラしていて、リオナがまた苦笑している。
二人の性格は対照的だ。ルリバーラは刺繍が抜群に上手だ。だが、16歳の時に大人の部でも1位になってからは刺繍大会に出品していないどころか、刺繡自体を止めてしまった。本人が言うには、飽きたそうだ。
ルリバーラの集中力は凄まじく、一旦始めると他の事が全く手に着かない程のめり込んでしまう。そして、これでは生活に支障が出ると思って止めたと言ってきた時は驚いてしまった。しかもそんな自分に飽きたと言うのだ。
そしてその頃シルフィアはベンソンの婚約者になっていたので、忖度されたくないと出品をしておらず、ルリバーラの大作を見るのを楽しみにしていたので残念に思ったのを覚えている。
一方リオナも家の都合で出品を止めていた。しかし刺繍は続けていて、孤児院などに持って行っている。物静かで穏やかな性格のリオナは、活発なルリバーラの抑え役だ。
次々話題が出て来るルリバーラの気持ちいい調子の会話。そんなルリバーラが行き過ぎないように時折抑えるリオナ。シルフィアはそんな二人を見て笑う役。三人でいると楽しく会話ができた。何でも話したがるルリバーラと、自分のことはほとんど話さないリオナ。聞き役に徹しているのだ。シルフィアはそんな会話に加わり、時には一緒に会話で盛り上がり、時には聞き役になる。シルフィアは二人といる時の空気感が楽しくて仕方がなかった。
「一緒に植物公園に行ったり、食事をしたりしたわ。海岸にも行ったし。とても優しい方だったわよ」
そう言ってシルフィアはカップを手にした。
「珍しいわね。グローブをしているなんて」
リオナが不思議そうに言って来る。それにシルフィアは慌てて手を隠した。
「怪しい。何か隠しているんでしょ?もう指輪をもらったとか?」
今度はルリバーラが訝しげに聞いてくる。
「そんなのまだいただいてないわ。ちょっと怪我をしているだけよ」
「嘘ね。シルフィアは嘘が下手だもの。直ぐわかるわ。見せなさい!」
ルリバーラがそう言ってシルフィアの手を取るとあっという間にグローブを取り払ってしまった。
「・・・・・あら」
「まあ・・・・・」
二人で見合っている。途端にシルフィアは恥ずかしくなって俯いてしまった。
「情熱的な王太子殿下ね。こんな痕を付けるなんて。まさかと思うけど、く、」
「してないわよ!これ以上のことは!」
慌ててシルフィアはルリバーラの言葉を遮った。
「そんな焦らなくても。さすがにシルフィアが直ぐに口付けを許すとは思えないもの。ちょっと言ってみただけよ」
そう言ってルリバーラが笑っている。
「それにしてもくっきり付けられたものね。独占欲丸出しね。それにしても近くで見たのは初めてだわ。舞踏会で時々いつの間にか首筋に付けている女性を見るけど」
「そうね。私も初めて。でも舞踏会で付けるなんて恥ずかしいことだと思うけど、シルフィアのはそんな感じしないわ。愛されているのね」
リオナが小さな笑みを浮かべた。
「当たり前だけどこんなことされたことなかったからどうしようって。でも嫌じゃなかったわ。昨日お話させていただいて、はっきり好意を持っているって思ったの。ああ、この人好きだなって。こんな感情初めてで初めはわからなかったんだけど、きっとこれが好きって気持ちなんだなって」
「そうよね。ベンソン王子とはそんな関係じゃなかったし、かといってそれでシルフィアが他の男性に思いを寄せるなんてことなかったから。良いことだと思うわ」
「私もそう思う」
「ありがとう。二人とも」
「今後はどうなるの?」
ルリバーラが聞いてくる。
「そうね。まだ何も。もし婚約が決まれば結婚式の日程を決めるだろうし、結婚式の時にクレメンタール王国に行けば良いのか、その前に歴史とか風習とか学んだ方が良いことがあるならその前に行かないといけないかもしれないし。本当に何も決まっていないの」
「そっか。そうりゃそうよね。昨日の今日で決まるわけないわ。式には呼んでね。必ず行くわ」
「私も。ルリバーラ、一緒に行ってくれる?」
「もちろんよ。うちの馬車で一緒に行こうね」
その言葉にリオナが嬉しそうに笑っている。
「ありがとう。決まったらよろしくね。中々会えなくなるのが寂しいけど」
シルフィアはそのことに思い至りぎゅっと胸が締め付けられた。ずっと仲が良かった二人と会おうと思ってもそう簡単には会えることはない。今の様に気軽に会うことができなくなるのだ。ベンソンと結婚していたとしても今よりは会える機会が減っただろう。けれど、今回はそれ以上に会えなくなる。隣国から母国に頻繁に帰国していては王太子妃は務まらない。クレメンタール王国の国民たちが自分たちを蔑ろにしていると思ってしまう。
悲しみが溢れるがサイレスの側にいたいという思いも固い。本来はどちらかを選べるものではない。けれど、サイレスと結婚をすることに決めたシルフィアにとって、友人たちと会う機会を減らすしかないのだ。
「そんな顔をしないでよ。シルフィアは動き難いだろうから私たちが会いに行くわ。それなら誰も何も言わないだろうし」
「でも二人もこれから結婚したりすると・・・・・」
「大丈夫よ。王族に嫁ぐわけじゃないんだし。隣国の友人に会いに行くのを止めるような夫と結婚しなければ良いのよ。理解力がある人を選ぶから気にしないで」
ルリバーラはニヤリと笑っている。
「私は結婚するかどうかもわからないわ。だから会いに行けると思う」
そう言ったのはリオナだ。
「ありがとう。二人とも」
シルフィアは瞳に涙を浮かべ二人に何度も感謝を伝える。
「何で泣くのよ。友人の幸せを喜んでいるのに」
ルリバーラも涙を浮かべている。
「二人とも。まだまだこれからよ。もっと涙を流す時が来るから今からこれだと心配よ」
リオナが立ち上がりシルフィアとルリバーラの涙を拭った。
「そうね。さあ気を取り直してお茶会をしましょう」
ルリバーラが明るく言うと三人でいつものお茶会が始まる。
シルフィアは本当に友人に恵まれているなと二人を見た。性格も置かれた立場もバラバラの三人だが、価値観は一緒なのだ。話すと必ず同じ方向に話が進んで行く。着地点が同じで、喧嘩をしたことがない。言い争うこともない。相手を思いそれでいて我慢することなく話ができる。安心できる関係。シルフィアの大切な二人だ。サイレスの元に嫁げは会える頻度は減るだろう。けれどずっと友人であり続ける。それを叶えられるとシルフィアは二人を見て感じていた。
「シルフィア。もしクレメンタール王国で意地悪されたら直ぐに言うのよ。私たちは味方だからね」
「そうよ。何かできるわけではないけど、話を聞くことはできると思うの」
「ありがとう。私も二人の為にできることがあれば何でもするわ」
そう言って三人で笑った。
邸に帰ると夕方サイレスが来るということでまたもやバタバタしていた。
「さあ、シルフィア様はお着替えをなさってくださいませ。そのワンピースもお似合いですけど今回はドレスにしましょう」
エメがクローゼットからドレスを出してきた。
「これがよろしいでしょう。サイレス王太子殿下がお喜びになられるでしょうから」
そう言って水色のドレスをシルフィアに合わせている。水色はサイレスの目の色だ。
「そうね。任せるわ」
エメはあれこれと出してきてシルフィアを飾り立てて行く。エメに任せておけば間違いはない。そうやって身を任せていると半時もしない間に着替えが終わった。
水色のドレスに合わせられた金の鎖に一粒のパール。白いレースのグローブとハーフアップされた髪にもパールの髪飾りが着けられた。パールはクレメンタール王国の特産品だ。
「お美しいです。シルフィア様」
「ありがとう」
そう言ってシルフィアは宝石箱の中から別のパールの髪飾りをエメの髪に着ける。
「シルフィア様?」
「エメもクレメンタール王国に行くんだから着けないとね」
二人で笑いあうと執事が呼びに来た。サイレスが来たようだ。
玄関に向かうと両親たちも揃っていて全員で玄関扉を開けて待ち受ける。そこにサイレスの乗った馬車が到着した。扉が開きサイレスが降りて来る。
「シルフィア。今日も会えて嬉しいよ。婚約を受けてくれると答えをもらった。ありがとう」
サイレスが真っ赤な薔薇の花束を差し出しシルフィアに笑いかけてきた。シルフィアはそれを受け取り笑い返す。
「私もお会い出来て光栄です」
「まだまだ固いな。まあおいおいで良いが」
見つめ合うシルフィアたちに父が声をかけてきた。
「さあ中にお入りください」
「ああ、そうしよう」
今日も堂々と歩くサイレスの後ろをシルフィアは付いて行った。応接室に入るとサイレスが座るのを待って自分たちも座る。
「昨日のうちに父に婚約者ができたという手紙を早馬で送っておいた。断られても何度も通って了承を得るつもりだったからな」
そう言ってサイレスが不敵に笑う。
「恐れ多いことでございます。今朝もお伝えしましたが、娘のことをよろしくお願いいたします。今の状態では不出来な面もあるでしょう。クレメンタール王国の歴史なども詳しく学ばせます」
父がそう言うとサイレスがちらりとシルフィアを見た。
「シルフィアに不出来なところなどない。クレメンタール王国の歴史は学んでもらうが、これまでは必要がなかったのだからそれについては問題ない。急ぐことでもない。これから覚えてくれれば良い」
「ありがたいお言葉でございます」
「そう固くなるな。もうすぐ家族になるんだから。なあシルフィア」
サイレスがそう言って笑いかけてくる。家族か。恐れ多いがそう言ってもらえるのは正直嬉しい。
「サイレス様。お気持ちに添えるよう努めます」
「ああ。オレも良き夫となると誓おう。シルフィアを必ず守る。安心してクレメンタール王国へ来てくれ」
「はい」
そう言ってしばし見つめ合う。
「ちょっと二人の世界にならないでくださいよ。僕たちもいるんですから」
割って入って来たのは弟のイザークだ。
「サイレス王太子殿下にお願いがあります」
「何だ?」
「姉上は真面目過ぎるところがあります。倒れないように見張っていてください。それから、姉上は王女ではありません。公爵家とはいえ所詮貴族です。
クレメンタール王国の貴族たちに色々言われるかもしれません。そんな敵から必ず守ってください。あなたが姉上を選んだのですから」
「イザーク・・・・・・」
シルフィアはイザークの言葉に、まだ嫁ぐのは先だというのに涙が出そうになった。イザークは温厚な性格で敵を作るような弟ではない。しかしシルフィアのことを思いサイレスに言ってくれているのだ。
「もちろんだ。オレが守らなくて誰が守る?オレの妃はオレが守る。当たり前のことだ。イザーク。約束しよう」
「よろしくお願いいたします」
そう言ったイザークの顔は晴れ晴れとしていた。気になっていたのだろう。サイレスの力強い言葉に安堵を覚えたのか、イザークがシルフィアを見てきた。
「姉上。良かったですね」
「ええ。ありがとう。イザーク」
「私からも良いですか?」
フランカがはい!と挙手した。それにサイレスが頷く。
「たまにお姉様に会いに行っても良いですか?」
「もちろんだ。いつ来ても良い。王太子宮に部屋を準備して待っていることにしよう」
「やった!お姉様、会いに行くわね!」
フランカが無邪気にはしゃいでいる。そんなフランカにシルフィアは笑った。可愛い弟妹たちの姿に成長を感じると共に、離れる寂しさも感じる。だがそれ以上に頼もしさを感じた。
「フランカ。淑女らしくよ」
「もう。お母様ったら。こんな時は喜んで良いのよ。ね、お姉様」
フランカが抱きついて来る。
「ええそうね。でももう14歳なのだから淑女らしくしなくてはいけないわ」
「今はまだ良いの。やろうと思えばできるのよ。でも家では良いの」
「困った奴だな。そんなんじゃ嫁の貰い手が見つからないよ」
イザークが困った顔をする。
「お兄様ったら。お兄様こそ婚約者をいい加減決めたら良いじゃない。たくさんお話は来ているのに全然決める気がないんだもの」
「僕は卒業してからで良いんだよ。勉強と仕事を覚えることの方が先だからね」
「あら、素敵な方を選ぶにはそろそろこっちからお願いしないと。どこか他所の方に取られても知らないわよ。のんびりしていると欲しい人が手の届かないところに行っちゃうわよ!」
「僕はまだまだ未熟なんだから仕方ない!」
「あら、悠長なこと言っていていいのかしら?誰もお嫁さんに来てくれなくなるわよ」
「ちょっと、二人とも落ち着いて」
言い合いを始める弟妹たちをシルフィアが止めに入ると渋々言い合いを止める。二人は仲は良いのだが、時々こうやって言い合いをするのだ。イザークがフランカを可愛がっているのはわかっているし、フランカがイザークを頼もしい兄と思っているのもわかっているから、普段は好きなように言い合いをさせるのだが、さすがにサイレスの前でこれ以上言い合いをさせるわけにはいかない。
「お兄様が意気地なしだからいけないよの」
「フランカが口を出すことじゃない」
「はいはい。もう終わりよ。フランカはもう少し淑女らしくしましょう。イザークは確かにそろそろ婚約者を決めた方がいいわね。明日から私と一緒に釣書きを見てみましょう」
母が最後に言い聞かせる。我が家で母には誰も勝てないのだ。
「楽しい家族で何よりだ。オレたちもこんな家庭を築こうな」
「ええ、はい」
サイレスを見ると目が合った。
「明日は午後から時間はあるか?」
「はい。行きたいところはありますか?」
「シルフィアに会えればそれで良い」
じっと見て来るサイレスの瞳にシルフィアはドレスの胸元を抑えた。サイレスの瞳は美しく力強い。見ていると引き込まれてしまう。
「では考えておきます」
耐えられず視線を逸らして答えた。
「ああ。楽しみにしておこう」
その後僅かな時間、たわいもない会話をするとサイレスは帰って行った。
「まだまだ心臓に悪いわ」
家族全員でサイレスを見送った後、シルフィアが誰ともなしに呟くと、母が聞こえていたのか肩を抱き笑いながら言ってきた。
「素敵だものね。でも一緒に過ごせば慣れるわよ。情熱的過ぎてシルフィアには耐性がないだろうけど」
「そうなの。どう答えるのが正解かちっともわからないの」
「正解とか不正解とかいちいち考えていてはダメよ。シルフィアが思ったこと、伝えたいことをそのまま言えば良いの。そうじゃないと一緒に生活できないわ。考え過ぎて倒れてしまうわよ。
我慢も必要だけれど、それが過ぎると心も体も壊れてしまうものなの。もちろん相手を思いやることは大前提よ。でも、思いやることと我慢することはまた別よ。それは覚えておいてね。
あなたはあなたを自分で守ること。私たちは直ぐに助けに行ってあげられなくなるから。もちろん連絡があれば直ぐに駆けつけるわよ。でもそれまでは自分で守らないといけないの」
「わかりました。お母様」
「はあ。嫁入り前に言おうと思っていたのにもう言ってしまったわ」
母が幼い子の頭を撫でるように頭を撫でてくれる。
「姉上に何かあれば僕が直ぐに駆けつけますから遠慮しないで言ってくださいね」
「イザークまで。私はまだ出て行かないわよ」
「あら、そんなのあっという間よ。準備に忙しくなるし、シルフィアは勉強もしなくちゃならないもの」
「そうですよ。僕と今度観劇に行きましょう」
「えー。ズルい!私も行く!」
「僕は姉上と出かけたいんだ。フランカとはこれからまだ行く機会はあるだろ?」
「じゃあ私もお姉様とお買い物に行く!お兄様は付いて来ないでね!」
「フランカの買い物なんかに付き合うと疲れ果てるから行かないよ」
「二人とも。三人で出掛ける日も作ればいいでしょ?さあ、夕食にしましょう」
笑い声が広がる中、シルフィアは少しずつ結婚が現実味を帯びて来たなと感じていた。