王太子とお出かけをする
ブレーセン公爵家は朝から慌ただしく使用人たちが走り回り、そんな中シルフィアは朝から綺麗に飾り立てられていた。出かけることを想定して華美にならないワンピースと宝飾品を身にまとい、これから始まる王太子との面会に備えて準備万端といったところだ。
昨日シルフィアが帰ってしばらくすると両親と弟が帰って来た。シルフィアの婚約破棄事件と同時に、隣国の王太子から求婚されたという話があっという間に舞踏会の会場に広まり、飛んで帰って来たという感じで玄関に駆け込んで来たのだ。ちょうどシルフィアが着替えて談話室に向かう途中で、引きずられるように談話室に連れ込まれたのだった。
そして一部始終を話し終え、両親が決めたのはこの婚約を受ける、だった。シルフィアにはもったいな過ぎる話だが、そうなるだろうなあとシルフィアも思っていたし、隣国とはいえ王太子に婚約を申し込まれて断れるものではない。それにこれで完全にベンソンとの婚約を白紙にできると両親は喜んだ。
弟のイザークもそのことを喜び、寝ていたはずの妹フランカまで起こされて話を聞いて喜んだ。それだけベンソンが我が家では嫌われていた証拠で、大勢の人の前で婚約破棄を突きつけシルフィアを貶したことに怒っていた。
特にイザークの喜びようは凄まじく、あんな王子との結婚がなくなって良かったと17歳にもなって泣き始めてしまい、しばらくしてシルフィアが隣国に行ってしまうと言って今度は泣いた。シルフィアはそんなイザークの頬にハンカチを当て続けることになったのだった。
そして朝からサイレスを迎える為に準備をしているというわけである。
「ねえ、おかしいところはない?」
聞いてきたのはフランカだ。
「今日もフランカは可愛いわ」
「ねえ。このドレス変じゃない?」
次に聞いてきたのは母メリア。
「今日も美しいですよ。お母様」
誰もが浮足立っている。父もウロウロ邸内を歩き回っているし、そういうシルフィアもこれからどうなるのかという期待と不安の両方を抱えていた。
ただ受けると決めたが、サイレスが本気がどうかがわからない。昨日あの場の雰囲気で言ってしまって今頃後悔しているかもしれない。お酒も入っていただろうし。
シルフィアは応接から庭を見た。隣国の王女ならまだしも、隣国の公爵家の娘が王妃になるに相応しいかどうか疑問である。自国に帰って国王陛下や臣下、国民が何と言うか。
やっぱりなしってことでと言われても驚きはしない。今朝早くにサイレスへの返事を待つようにと王妃の使者が来た。父は追い返していたがそれも気になっていた。ベンソンとの婚約は当然白紙にしたい気持ちに変わりはないが、そちらが片付いていないのに返事をしても良いのだろうかと。
父にはベンソンから言ってきたんだから気にするなと言われたが、正式に白紙の状態にしてから受けたい気持ちがある。所謂身辺整理がしたいのだ。気持ちの切り替えをきちんとしたいのもある。今はまだベンソンの婚約者であるのに変わりはない。そのことを父に伝えると直ぐに白紙にするから安心しろと言われたが、そうすんなり行くかどうか一抹の不安がある。
シルフィアはその気持ちを正直にサイレスに伝え、本当にサイレスが望むのであれば婚約したいと考えていた。シルフィアは昨日のわずかな会話で心臓を射抜かれてしまった。どれだけ頑張っても報われない日々。ベンソンとの間では、一向に互いに芽生えない恋心と愛情。それが昨日一気に開花したのだ。
たった一言『シルフィアが良い』という言葉で。
サイレスがシルフィアを望んでくれていると思うと嬉しかったのだ。現金なもので求められると答えたいと思ってしまった。正直、第二王子妃と王太子妃では責任が圧倒的に違う。今のシルフィアの知識や作法で見合うだろうか。そんな不安が襲って来る。それに隣国ということは、隣国ならではの作法があるし、歴史も学び直さなければならないだろう。今の知識では足りない。
一見明るそうな未来だが不安だらけでもあるなと考えに耽っていると、執事がサイレスの到着を知らせにやってきたのだった。
「ようこそお越しくださいました。サイレス王太子殿下」
家族全員で出迎え、父が代表してサイレスに挨拶をした。
「見事な邸だ。さすが筆頭公爵家といったところか。シルフィア。今日も美しいな」
サイレスが持っていたピンクの薔薇の花束を渡しながら言ってくる。真っ直ぐなその言葉にシルフィアの心が弾んだ。ベンソンは婚約した当初の良好な関係の頃もそういった言葉を言ってくれることはなかった。今では性格の悪い女とまで言われるようになってしまったが、こんな風に家族以外から褒められて浮足立ってしまう。
「ありがとうございます。本日はようこそお越しいただきました。こちらへどうぞ」
花束を受け取りシルフィアは心の動揺を抑えながらサイレスを応接室へ促した。サイレスがその案内に興味深気にしながら付いて来るのがわかる。そして応接氏へ案内するとサイレスが着席した後シルフィアたちが着席した。
「単刀直入に言う。シルフィアを妃に迎えたい。婚約の許可はもらえるだろうか?」
サイレスの目は真剣で本気度が窺える。しかしシルフィアは嬉しい反面、何故自分なのだろうと疑問が浮かんだ。サイレスに会ったのはもちろん昨日の舞踏会が初めてで、しかもその時シルフィアはベンソンを情け容赦なく切り捨てた。ベンソンの方が位が上であるにも関わらずにだ。
お互い主張を変えることなく言い合いをし、どちらかと言えば醜態を晒したと言った方が良い程なのに、どこをどう見てシルフィアが良いと思ったのかがさっぱり理解できない。そんなことを思っているのが伝わったのか、目が合ったサイレスがやはりにかっと笑ってくれた。
「サイレス王太子殿下にそのように言っていただき光栄です。娘を選んでくださいましたことに感謝申し上げます」
「うん、それで?」
「はい。喜んでお受けいたします」
父の答えに満足気にサイレスが頷いた。
「それは嬉しい言葉だが、シルフィアが納得していなさそうだぞ?まあいい。これから話していくことで解決していくとしよう」
「ありがたいお言葉です。娘も急なことで戸惑っているのだと思います。ベンソン殿下との婚約については白紙として処理できるようにしておりますので、サイレス王太子殿下との婚約はその後になりますがよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。あれだけ大々的に発表したのだからもう王家側も白紙にするかないだろう。オレとしてはどちら側の白紙でも破棄でもなんでも構わないから早めに決めてくれ。帰国時には朗報を持って帰りたい」
破棄でも良いとはとシルフィアは驚いた。破棄された側になってしまえばこちらに落ち度があったことになり傷がついてしまう。そんな不名誉なことは新たな縁を結ぶにしても障害になるのが一般的だ。だから父も白紙としたがっていたのだ。もちろん昨日シルフィアが白紙かこちらからの破棄とサイレスに言っていたのにはそういう背景がある。
例えサイレスからの破棄となったとしても、シルフィアは公爵家の娘であり、またほとんどの貴族が事情を知っているので、新たな相手はこちらから探さなくても申し込みはいくらでもあるだろう。しかしそれではシルフィアの名誉が守られない。
皆が知っているから良い、ではダメなのだ。書面として正式に事実を残すことで、こちらから先に婚約白紙の申し込みをしていたのだから当然シルフィアに瑕疵がないことにしたいのだ。
「そのようにおっしゃっていただけて大変嬉しいことなのですが、我が家としてはこちらからの白紙か破棄にしたいのです。できるだけ急ぎますが、帰国までに間に合いませんでしたら申し訳ございません」
シルフィアは父がシルフィアを守る為に奔走してくれているのを知っているので、父の言葉に感謝しかなかった。
「そうか。オレはどちらだろうと構わないのが本音だが、シルフィアの為にはその方が良いなら待とう。だができるだけ早く頼む。国民もオレが早く結婚することを望んでいるからな」
「かしこまりました。今日も陛下に掛け合ってきます」
「わかった。シルフィアが自由になったら即日婚約をもう一度正式に申し込む。今度ここに来る時は婚約の書類を持って来ることになると良いな」
シルフィアの前でどんどん話が進んで行く。それに抗うつもりはないが、昨日と今日の違いにただ黙って見ているしかないシルフィアにサイレスが視線を合わせてきた。
「よし。話はここまで。シルフィア。昨日言っていた通り王都の案内を頼む」
そこでようやくシルフィアは背筋を伸ばす。
「かしこまりました。ご要望があればうかがいますのでおっしゃってください」
「うん、まず出かけよう。話はそれからだ。さあ行くぞ」
そう言ってサイレスは一気にお茶を飲み干すと立ち上がりシルフィを促す。それに慌ててシルフィアは立ち上がった。するとサイレスが手を差し出して来る。その手にシルフィアは手を載せるとそのままエスコートされサイレスの馬車に乗り込んだのだった。
馬車の中でご機嫌そうなサイレスがシルフィアを見つめて来る。
「どこか見たい場所はありますか?」
「ん?シルフィアと一緒ならどこでも良いぞ。シルフィアのおすすめの場所にしてくれ」
シルフィアは恥ずかしさと同時にどこを案内するかと頭を悩ませた。とりあえず馬車は王都の中心部に向かっているようなので、シルフィアは自分が好きな王立植物公園を案内することに決めた。
「王立植物公園はどうでしょうか?私は花を見るのが好きで時々行くのです。他国の珍しい植物もあって楽しいですよ」
「ではそこにしよう。シルフィアが好きな場所を知れるのは嬉しいものだな」
「そ、そうですか。では案内板があるのでその通りに馬車を向かわせてください」
シルフィアが言うとサイレスが御者に伝える。シルフィアは不躾にならないよう気を付けてサイレスを見た。サイレスは王都を見物するということで、もちろん昨日と違って正装ではなく貴族の男性の日常といった服装をしていて似合ってはいるが、やはり王太子としての光を纏っているので街では人目を引くことは間違いなさそうだ。
「どうした?見惚れたか?」
そう言ってシルフィアに笑いかけながらサイラスがシルフィアの向いから隣へと移動してくる。
「いえ、申し訳ありません。昨日のお召し物も似合ってらっしゃいましたが今日のお召し物も似合ってらしゃるなと思いまして」
「いえって、そこは否定するなよ。傷つくだろ」
サイレスが悲しい気に眉尻を下げた。
「そ、そんなつもりはありません。サイレス王太子殿下は素敵だと思います」
そんなサイレスに慌ててシルフィアは訂正した。するとサイレスが肩を震わせて笑い出す。
「そんな慌てなくても。冗談だ。いつだってシルフィアに見惚れてもらえる男になりたいと思っているが、まだ関係性も築けていないしな。
まずは自己紹介だな。立太子したばかりで名前は知っての通りサイレスだ。年齢は20歳。母親は王妃だな。そして第二王子でもある」
「存じております。国民のことを考えた政策をして王太子になられたそうですね。力が認められるということは素晴らしいことです」
「まあな。結構嬉しかったな。父上に認められるのも国民に認められるのも。子どもの頃から結構自由にやらせてもらっていたから、父上に玉座に相応しい方を選ぶ為の審査するって言われて、じゃあやるなら頑張るぞ!って感じでやったら選ばれたってところだ」
笑いながら簡単そうに言っているサイレスだが大変だったに違いない。王妃の産んだ第二王子というのは微妙な立場だ。しかも王妃と側妃は同じ自国の侯爵家の出身だと聞いている。後ろ盾に差がない分、兄である第一王子が選ばれる可能性もあっただろう。そこを独力で選ばれたのだから才気があったに違いない。
「それだけ国民に支持された政策だったということでしょう」
「でも国民っていっても、オレがやった政策は王都民に対してだけだからまだまだだ。シルフィアが一緒に頑張ってくれるともっとやる気が出るんだけど」
そう言ってサイレスがシルフィアの下ろしている髪を一房手に持ち口付けをする。それにシルフィアの心臓がドクンと震えた。シルフィアは14歳でベンソンの婚約者になった為に同年代の男性と近い距離での接触が皆無だ。友人たちは学園時代に婚約を申し込まれただの、婚約者と一緒に舞踏会に出席する際にエスコートしてもらっただのと話していたが、シルフィアが舞踏家に出席できる年齢になった頃には既にベンソンとの関係が崩れていた為にいつも一人だった。
しかしベンソンの婚約者であるのに変わりはなく、異性を意識するという感覚がなかった為、恋をしたこともない。ひたすら勉強と公務の日々だったのだ。顔が真っ赤になるのを感じ、しかし嫌な訳でもないのでどう対処すれば良いのかさっぱりわからない。
「あの、婚約はお受けしますので、結婚しましたらお支えいたします」
シルフィアは声が消え入りそうになりながら答え俯いた。
「反応が可愛くてその真っ赤な耳を齧りたくなるな」
「や、止めてください!」
もう無理だと思いながらシルフィアは馬車の隅に移動した。
「はは。まだそんなことはしないよ。オレだって自制心はある方だと思うし。いちいち反応が新鮮で可愛いな。シルフィア、早くオレの妃になれ」
「ものには順序というのがありますのでそのように申されましても・・・・・」
シルフィアはもごもごと言いながら、未だ髪を手にしているサイレスの方をちらりと見る。
「一々可愛いな。言葉が固いがそう言ったところもまたシルフィアの良いところでもある。軽薄な言葉遣いでは王妃は務まらないしな。まあおいおいオレに対しての話し方はくだけてもらいたい」
そう言ってやっとサイレスは髪を離してくれた。シルフィはそれにホッと息をつく。こちらこそ一々反応に困ってしまう。幼い頃両親に可愛いなどと言われて育ったがそれは親だからだ。こんな風に家族以外から可愛いと言われたことはないし、自分では可愛いという要素があるとは全く思わない。
誰からも今まで容姿を褒められたことがなく、関係が良好だった頃のベンソンからだって言われたことがないのだ。客観的に見て、自分は悪くはないどろうと思ているくらいだ。
「言葉遣いに関してはサイレス王太子殿下が望むように変えるよう努力は致しますが、直ぐには対応はできないかと思います」
「そうだろうな。まあでも、まず名前から挑戦だな」
「名前ですか?」
嫌な予感しかしない、とシルフィアは思った。
「サイレス。はい復唱して」
「む、無理です!!」
シルフィアはやっぱり!と思い更に馬車の隅に移動した。
「あはは。そう怯えるな。冗談だって。でも王太子殿下は長いし、距離も遠く感じるのは事実だ」
「で、ではサイレス殿下でお願いします」
シルフィアは精一杯の妥協をした。ベンソンにも殿下をつけていたのでこれならばと思ったのだ。
「もう一声」
「え・・・・・」
「まだ距離がある」
「わ、わかりました。ではサイレス様でお願いします」
もうこれ以上は無理とこぶしを握って膝の上に置きサイレスを見つめる。
「まあその辺が妥協点か。良しとしよう」
「ありがとうございます」
良かったとシルフィアは体から力を抜いた。
「そろそろ着きますね。私も久しぶりなので楽しみです」
「そうか。オレは画家を呼びたい気分だ」
「画家ですか?」
「そう。花の前に立つシルフィアを書いてもらう。それを持ち帰ってオレの妃だ!とみなに見せる」
「おやめください!そのようなことで画家など!」
その場に画家などいないのに慌ててシルフィアは顔を覆った。
「なら止めておこう。シルフィアの嫌がることはしたくない。国民たちにはしばらくお預けだな」
そう言ってサイレスは声を上げて笑った。